奄美 海風blog

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秋のスモモ 時期はずれ

2009年10月31日 | 植物

 

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スモモ(酢桃、李、学名:Prunus salicina)
バラ科サクラ属の落葉小高木。
中国原産。
別名 ハダンキョウあるいはハタンキョウ(巴旦杏)
英語では「prune(プルーン)」、「plum(プラム)」

スモモの開花は、奄美では、本来初場所が終わって、2月ごろですが・・・

九州場所(11月15日~11月29日→福岡国際センター)の番付発表(11月2日(月)よりも早く咲いたこの一輪。

スモモの狂い咲き、ネットで調べると全国でけっこうあるようで・・・。

かんさつつづく。


アサギマダラの飛来、少し増える。奄美大島でマーキング and ツマムラサキマダラのヘヤペンシル

2009年10月29日 | 生き物観察

AMAMI で、おとといマーキングされたと思われるアサギマダラを撮影しました。(youtubeの動画の画質がよくなったせいでしょうか、動きがカクカクすることが増えました。元のふつう画質がなつかしい)画面下のHQの表示をクリックして黒色にしますと改善されるハズです。

場所は一番下 ↓ の写真の現場、アサギマダラ密集P(仮名)

きょうは一段とアサギマダラの数が増えた。

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↑ 動画から取り出した写真を反転させて切り取りました。

↑ 去年の2008年10月12日 (日曜日)
チョウの お腹から黄色い花 動画

ツマムラサキマダラ(写真↓ 中央上)の腹部先端から

ヘアペンシル

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↑ ↓ ヘアペンシル

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アサギマダラ密集P(仮名)

ここより密集している場所は、まだ見たことがない。

奄美市名瀬のうしろの山。市街地から15分ほど。直線になった尾根道の峠を越え、下り道のカーブを二つほど過ぎたあたり。道路の端と林の間が、幅、高さ1mほどの帯状に続く土手になっていて、そこにアサギマダラのすきなセンダンクサやヤマヒヨドリバナなどのキク科の雑草が生えている。


きれいなチョウ リュウキュウアサギマダラ

2009年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム

リュウキュウアサギマダラ。

もう少し寒くなると、植物のつるなどに集団で、葉っぱのように連なって越冬する様子が観察されます。

何頭から集団といえるのだろうか。4頭いました。

頭上ではメジロが鳴いて集団であそんでいます。

セミもないています。

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↑ クロトンの花。

いいカメラで撮りたい。

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鎌田浩宮さん、新CD『太陽へ手紙』好評発売中、新ブログも更新快調、好評。 

2009年10月27日 | 音楽

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このブログにコメントを下さる鎌田浩宮さんの、

ソロアルバムとしては8年ぶりとなるCD
「太陽へ手紙 a letter to the sun」

このほど完成し9/11(金)発売開始になった。

CDのタイトルは、「太陽へ手紙」でも「太陽から」でもなく、”太陽へ手紙”となっていて、鎌田浩宮さんの自然体の生きかたがアクティブでスタイリッシュに表現されている。端的で率直であるべき基本が、ジャケットデザインにもファンタスティックに貫かれている。

バンドの活動だけてなく、個人でシンセサイザーの演奏もしている鎌田さん、
音楽だけでなく映画を製作するなど多才。超多忙の中、1年以上をかけて、このほどようやく完成した。

2009年10月13日からは、ディスクユニオンでも取り扱っている

日本のロック > 自主制作盤
 
  鎌田浩宮

太陽へ手紙 a letter to the sun

玉音レコーズ / / CD / GYOK-0901 / IND4012 / 2009年10月13日 / 2,100円(税込)
   
J-WAVE 坂本龍一[RADIO SAKAMOTO]オーディションコーナー入選作「the moon re-landing」や、細野晴臣編集オムニバスCD[ecole](エピックソニー発売)提供曲のremix versionなど全22曲を収録!

視聴はhttp://www.myspace.com/hironomiya

以前の掲示板から移行した鎌田浩宮さんの新ブログで自ら販売促進活動中(東京御茶ノ水

ノーミャンさんの ミクシィ2009 9/08日 の記事から 抜粋 ↓

1年以上をかけて、ようやく完成。
鎌田浩宮 8年ぶりのソロアルバムCD
「太陽へ手紙 a letter to the sun」
9/11(金)発売開始でぇございやす。

ヴォーカル曲は1曲のみの、
インストばかり、全22曲。
カフェ・ミュージック、って感じかしらん。
安いど、2000円。

(中略)

また、
毎度おなじみの「出前」もしますよ!
東京近郊の方に限り、
電話1本で、CD、出前します。
お土産に、ビール、持って行きます。
一緒に乾杯しながら、お喋りしましょ。

これも、mixiメールにてご連絡下さい。
これがアマチュアリズムのいいところだよね。

(中略)

このCDを、世界一敬愛するソウルマン、忌野清志郎に捧げます。

鎌田浩宮
http://<wbr></wbr>tranqui<wbr></wbr>lover.b<wbr></wbr>logspot<wbr></wbr>.com/
(ブログ、始めました)


カワセミ 動画 構造色とは?

2009年10月27日 | うんちく・小ネタ

カワセミ(翡翠、学名:Alcedo atthis)
ブッポウソウ目カワセミ科
古くはソニドリと呼ばれ、
ヒスイと呼ばれることもある。
体長は17cm スズメほどの大きさ。
英名
European Kingfisher
Common Kingfisher

日本中や、ヨーロッパとインド、東南アジアにかけて分布し、いくつかの亜種が見られる。

奄美にはいろいろな鳥がいますが、奄美的に珍しい鳥ばかりが注目されるのは、ある意味不幸なことかもしれない。

たとえばカラスの黒色だってひじょうに美しく、動植物の色の美しさに優劣はつけがたいが、カワセミの色の美しさはどうだろうか。いつ見てもはっとする美しさである。

しかし、カワセミの色は、実はいつも青色ではない。やぶの中などにいる時はさえない色をして見つけにくい。

カワセミが美しく見えるのは、生物体内の生体色素によって青く見えているのではなく、光の干渉や、散乱などのよって見える構造色とよばれる現象である。

色(いろ)とは、

可視光線の組成の差によって質の差が認められる視覚である色覚、および、色覚を起こす刺激である色刺激を指す。

色は視覚を通して得られる感覚のひとつであり、色は、質量や体積のような物理量ではなく、音の大きさのように心理物理量である。

色素が可視光の吸収あるいは放出により物体に色を与える物質であるのに対し、

構造色は
光の波長或いはそれ以下の微細構造による干渉や回折、散乱により物体が色付く現象を構造色と呼ぶ。構造色として有名なものに、昆虫のモルフォチョウ、コウトウキシタアゲハ、タマムシ、他にカモの羽根、宝石のオパールなどがある。シャボン玉や油膜やコンパクトディスクの記録面の虹色も構造色といえる。wiki

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↑ 車のガラズ越しの撮影。

防波堤のコンクリートの真ん中ふきんに出ている釘(くぎ)は、なんなのでしょうか。構図的にはひじょうにいい位置にあります(笑)。そのことに注目していただけますと、その他のこと(写真の写り具合など)はあまり気にならなくなります。

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↑ wiki より


『反復帰と反国家』―「お国は?」 (沖縄・問いを立てる 6) (単行本) 藤澤 健一 (編集)

2009年10月25日 | 本と雑誌

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『反復帰と反国家』―「お国は?」 (沖縄・問いを立てる) (単行本) 藤澤 健一 (編集) google

『南島イデオロギーの発生』―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫) (文庫)
村井 紀 (著)  google

内容 「book」 データベースより

山人論を放棄して、柳田はなぜ南島論へ転じたのか。日本人の起源を南島に求め、同質的な日本を見出す「新国学」たる民俗学の成立は柳田の韓国併合への関与によってもたらされた。その他、『花祭』で知られる早川孝太郎、沖縄学の父・伊波普猷も俎上にのせ、近代日本における民俗学と植民地主義との関連を徹底追及する新編集版。

写真の二つの本の内容は激しく関連しているところがある。漫然と書店に行って、二つの本を同時に見つけることはできなかっただろう。ネット検索でも関連に気づかず買うまでにいたらなかったかもしれない。

どこで、なぜ出会えたのか?

奄美図書館郷土コーナーでとなりあっていたからだ。ことしは、薩摩の琉球支配から400年、日本国の琉球処分から130年の年でもあるからだろう。

『南島イデオロギーの発生』はまだ読み終えていない。

若い人たちの関心が高まっている「反復帰と反国家」

なぜいま反復帰なのか、奄美と「国家」?

気鋭の若手沖縄研究者たち5人が執筆している。

正直、ついていけないな、思いながら読んでいたのですが、最後に目が覚めた。

↓ 下に引用した、(徳田匡 とくだまさし)”「反復帰・反国家」の思想を読みなおす”のため息のでるほど難解な部分。しかしこの部分が一番おもしろかった。

年配の人の評価は、分かれるかもしれない。「現実離れしている」、「机上の空論」、「言葉あそび」 「汗のにおいも土の香りもしない」など。

しかし、著者が論じている新川明の反復帰論のなかにも、現実の中にいて現実を変えることができるのかという問いが含まれている。奄美のセンキョでもそう思うことがある。

現代哲学(思想)で、国家論で、奄美諸島(この本では<無国籍地帯>前利潔 )をも、こうも照らし出すことができるのか、という「発見」は新鮮だった。奄美史の視点から近代国家を超克する一つの方法になりうるだろう。

「ヤマトンチュウ」に対して奄美ではせいぜい「シマンチュウ」というのだが「ウチナンチュウ」とは誰か?という疑問はついに晴らされなかったが、そういうことは、あとで考えよう、ということか?著者自身の論も期待したい。

アンダーソンの引用も興味深い。(ベネディクト・アンダーソンは、『南島イデオロギーの発生』―P98にも引用されている。

(徳田匡 とくだまさし)”「反復帰・反国家」の思想を読みなおす”p213

 先の引用文のなかで、新川は「沖縄人」が自らを「ウチナーンチュ」と呼び、沖縄人以外の日本人を「ヤマトゥンチュ」と呼ぶ一連の表明を、「君は日本人か」という問いかけ(呼びかけ)の場面のなかで説明している。そしてそこでは、何のためらいもなく「そうだ」と応える「ヤマトゥンチュ」に対して、「内心一瞬の戸惑い」を感じながら「その一瞬間、彼または彼女の胸中を素早く駆け抜けるのは、「私は沖縄人だ」という「声にならぬつぶやき」であるという。ここで重要なのは、「君は日本人か」という問いかけに、決して十分には応えていないということである。つまりここでは、呼びかけられた人間の応答は、「私は日本人だ」とか「私は沖縄人だ」といった明瞭な応答ではなく、「声にならぬつぶやき」によってしか表現できていないということだ。
 

(略)

ここで応答の形式として、そのような同一性への回収を避けるために「君は日本人か」という問いに答えないという選択肢がありうるようにみえる。しかし、それは現実の植民地的政治状況に対する抵抗になりうるだろうか。応答しないことは、「君は日本人だ」や「君は沖縄人だ」というナショナルな同一性へのへの囲い込みに、抵抗することなく包摂されうる可能性を帯びている。アルチュセール「呼びかけ論」を修正しつつジュディス・バトラーが指摘しているように、「名づけられていることに気づかぬまま、名づけられているという状況がある。この状況は、わたしたちすべてが最初から置かれている状況、ときには最初のさらにまえにある状況ですらある。わたしたちは名称によって社会的に構築されるが、この社会構築は、わたしたちが気づかないうちに行われている。〔中略〕主体は主体として構築されるためには、かならずしも振り向く必要がないし、主体を起動させる言説は、声の形態をとる必要もない」バトラー(2004 p49)。「呼びかけ」は、呼びかけられたものがたとえ振り向かなくても呼びかけの効果を発揮する。つまり「君は日本人か」という呼びかけは、呼びかけられたものがどのような応笞を選択しようとも、ナショナルな同一性へと回収可能な呼びかけなのである。なぜなら「君は日本人か」という呼びかけは、そもそもナンョナルな同一性を前提とする立揚に立って発話されているのであって、日本人という同一性に回収するか、それとは別の同一性に回収するかという、既存のナショナルアイデンティティの構造を反復引用することのなかで可能な問いであるからだ。

 しかし、そもそもアイデンティティの表明は、対他関係抜きにはあり得ない。周知のように、帝国日本は周縁を差異として取り込かが故に中心としての「日本」を遡及的に捏造することができた。そのなかで沖縄の人びとは、「日本人へと同化すること」のなかで「差異化」された。そして戦後は、米軍統治のもと、「琉球化」することで「日本人」との「差異化」を刻印された。その後の「祖国復帰」がその反動としての「同化=復帰」であった。

(略)
 
「君は日本人か」という呼びかけは、常に既にあやまった呼びかけであるにもかかわらず、その呼びかけに応えないわけにはいかない。「呼びかけ」ヘの不可避の応答は、既存のカテゴリーの「あやまち」を引き出すことになるが、同様に、同じ不可避の応答のなかでナショナルな同一性への規範的な反復引用の様式を追認し、それに効果を与え続けてしまうことにもなる。

===引用おわり

参考 google

新川 明 1931年、沖縄に生まれ

岡本恵徳 おかもと・けいとく 1934(昭和9)年沖縄-2006(平成18)年

岡本恵徳 「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし

『国家を歌うのは誰か?―グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属 (単行本)

吉本隆明 wiki異族の論理

琉球・沖縄は現状のままでは地獄、本土復帰しても、米軍基地をとりはらっても、地獄にきまっている」(「異族の論理」『文芸』1969年)


ソテツ食害域広がる クロマダラソテツシジミ 奄美大島

2009年10月22日 | 植物

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ついに千葉でも発生 毎日新聞 - ?2009年10月3日? ↓

クロマダラソテツシジミ:熱帯アジア原産チョウ、南房総で発生 ソテツに被害 /千葉

google ニュース検索 クロマダラソテツシジミ

写真は奄美大島 奄美市名瀬赤崎公園で今朝。

あなたの研究のためこのページの写真はご自由にお使いください。

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ソテツの新葉を食べる熱帯アジア原産の迷チョウ、クロマダラソテツシジミの大量発生は数年前から奄美大島でも懸念されていた。

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素人目にも今年はソテツの花が多かった。

春によく見た新葉。秋になっても、ソテツの実をつけた雄花の中心から新葉が次々に出て、クロマダラソテツシジミの越冬、定着の条件がそろいそうだ。

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赤崎公園の斜面のソテツ。

地面のセンダンクサなどにも、数え切れないほどのクロマダラソテツシジ。

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↑ 雄花は、春に芽を出し、梅雨明けの夏前までにしおれてしまったが、その根元からも新葉(若葉)が出ている。

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↑ 雄株の新葉にも、クロマダラソテツシジミ

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新葉がある程度成長してから食べられたのか、それとも食べ残された新葉がその後成長したのだろうが。

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健康な雄花は美しい。

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新葉がたびたび食べられると、硬化した葉も枯れてしまい、ソテツそのものも枯れてしまう恐れがあるという。(↑このソテツの葉が枯れたのは、クロマダラソテツシジミによる食害が原因かどうか、わかりません)

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朝仁の「千年末」の根元の2つのソテツの雌株は健在。


おきなわ べにいもたると

2009年10月21日 | 食・レシピ

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沖縄からのいただきもの。

琉球泡盛 海達人 Umi-Yakara

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人気の沖縄土産(みやげ) べにいもたると 紅芋タルト

サツマイモが、おどろくほど、”沖縄色”していておもしろい。いいセンス。舟形のタルトは、琉球王国時代に活躍した進貢船(=対中国(明 清)との交易や使節派遣に使われた琉球王国の官船)を連想させ、海洋貿易国家として栄えた沖縄を象徴しているかのようだ。沖縄の太陽をたっぷり浴びて育った薩摩芋の自然の甘さとの相性がよい。

タルトのさっくりした食感と、紅芋の、きめの細かなしっとりとしたのどごしを楽しもう。

紅もタルトは、もう一つの沖縄の郷土菓子で琉球王朝時代からの伝統を持つ、ちんすこうと対照的。

ちんすこうは、もともと菊型の丸い形をしていたが、

米軍基地で使用されていたクッキーの型抜きを再利用し、一口サイズの細長い形に改良したと同時に大量生産(オートメーション化)を確立させた、というむかしの話を聞くと、このべにいもたるとの食感は、沖縄の何百年分の時間を楽しめる。と思ってもう一つ食べると、これが実に沖縄的なのだ。

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こぶくろも上品ですね。

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2009年9月12日 (土曜日)
奄美海風荘ブログ: 教えて、タルトって?and 明日から秋場所


枯葉ヨ ♪

2009年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム

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♪ 絶え間なく 散りゆく 枯葉よ、という感じではありませんが、

赤崎公園の背の高い手入れは行き届いたハイビスカス。

落ち葉はまるまって乾燥しています。

枯葉 wiki より

(歌曲)『枯葉』(かれは、フランス語原題:Les Feuilles mortes )1945年
20世紀を代表するポピュラー音楽の名歌に数えられる

英語版は「Autumn Leaves」

日本語版「枯葉」
戦後昭和20年代後半起こったシャンソンブームの立役者である高英男が、
1951年(昭和26年)にパリへ留学した際にこの歌を聴き、親交の深かった歌手・淡谷のり子に楽譜等をフランスから日本へ送った。

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島民の抵抗 2 栄文仁(えぶに)脱島1736年 稲源流罪1778 国淳(くにじゅん)切腹1781

2009年10月20日 | 歴史 民俗

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↑↓ 県立奄美図書館 写真と記事は関連がありません。この記事は手元の本と図書館の本数冊を参考にした覚え書きです。

この記事は2009年10月18日 (日曜日)の記事のつづきです。

1736(元文元年)
栄文仁(えぶに)脱島

栄文仁(えぶに 人名)

喜志政(きしまさ)
能悦(のうえつ)

徳之島の若者たちの主導者三人

島がサトウキビ作りで、主食に事欠く事態を憂い
琉球王へ薩摩藩によるサトウキビ作り強制をやめさせるよう取り計らってもらうため
琉球へ向かったが代官所の捜索隊によって説得され未遂。

彼らに対する藩としての処分は、記録に見えないが
島歌の能悦節に歌われている。
脱島者として処断され、トカラ 七島に流されたのであろう。

栄文仁主(しゅ)と能悦主と喜志政主と
ナー三ちゃり  (彼ら三人)
島のことしゅんち  (島のことをしようとして)
トカラかち行もち  (トカラに行かれた)

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1778(安永7)年
稲源流罪

大島宇検の稲源、与論島に流罪

年々過酷になっていく薩摩藩による租税取立て。大きすぎる農民の負担に多すぎる役人の数。民衆の惨状に胸をいためた稲源は惣横目という顕職をなげうって、「租税減免嘆願書」を代官所へ提出、牢込め。
稲源は島役人でもありながら、付近の村人にも呼びかけ、一揆を起こそうとしたが事前に発覚。
稲源は遠島になるが、シマの人々を守るために統制と指導を徹底できた彼の指導力と人望のためか代官所は村人全員の処分を断念せざるを得なかった。このことから、シマ社会の運命共同体としての強固な結束を推し量ることができる。

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その三年後、同じ宇検村で

1781(天明元年)
国淳切腹

この年、台風の被害甚大。
砂糖の代価として藩から支払われる引き合い米の支給が遅れる。
かねてから支給が規定どうりに守られず、島の民衆の惨状を見かねた宇検方の与人(島役人)、国淳(くにじゅん)が起ち上がった。
国淳は息子の国喜とともに赤木名の代官所へ向かい、
藩庫にある米を規定どうりの比率で早急に農民へ支給するよう代官所に訴え出るが、取り合ってもらえない。

国淳は意を決して、島での引き合い米の支給が規定どうりに守られない実情を書面に書きとめ、藩庁へ越訴。
が、藩の定めに異議をさしはさむ島人は、死罪、厳しい磔(はりつけ)の刑は必定だ。

代官所は国淳の逮捕に島役人たちを差し向けた。
それを見た国淳は激昂、島役人たち激しくののしる。
その縄は誰が編んだ、お前たも島民の惨状を知らぬわけではあるまい。代官所の不正に気づかぬわけでもあるまい。
そうは言っても国淳うじ、越訴は死罪はりつけであるど。
後ろで、役人をののしる村人の声を制して国淳は、いいか、よく聞け、これはわしと息子と二人でやったことである。村人たちへの手出しは無用だ。
お前たちに、縄目の恥は受けぬと、国淳その場で割腹して果てる。
国淳の庭は、血で染まり、あたりには血のにおいがたちこめた。

この事件は島役人層の人たちを震えあがらせた。
年々激しくなる藩の収奪と、抗えない藩命の厳しさを彼らは肌身に感じたのである。
以後、島役人層が保身の術に走る契機になった重要な事件であったと言われている。

薩摩藩本土では士階級に「城下士」と「外城士」(郷士)があり、その下に「郷士格」という差別的な身分制度をもうけ、藩の財政に貢献した上層島役人をそれを与えるという懐柔策で、上層役人のシマからの分離を図っていく。
琉球王国時代からつづいた島社会の再編と島差別の強化が同時に図られ、シマの村落共同体は、租税の払えないヤンチュと豪農とに分解され、さらに階層分化が進んでいくことになる。

この国淳切腹は、
1781(天明元年)。薩摩の奄美琉球侵略から172年が経っていた。

一 1609年(慶長14) 琉球王国からの割譲
二 1623年 「大島置目之条々」の布令
三 1728年 「大島規模帳」「大島物定帳」「用夫改規模帳」の布令
四 1745年 換糖上納令の発布
五 1777年 第一次惣買入制の実施
六 1830年 第二次惣買入制の実施
七 1873年(明治5)砂糖専売制を廃止し、大島商社を設立する。
八 1879年(明治12)砂糖の自由売買が行われるようになった。

藩による収奪は、以後次第に激しさを増す。

この記事は素人の勉強の覚え書きです。
「島民の抵抗」の記事はつづきます。


奄美・深山マテリヤ 小川のせせらぎ ハグロトンボ

2009年10月20日 | 山歩き

黄色い陽射しの島の秋を演出した先週のヒカンザクラのみごとな紅(黄)葉は、その後落葉が進んでいた。あれが紅葉のピークだったと思われる。

マテリヤの滝の上流のマテリヤ川ではセミがないていた。ハグロトンボは20センチほどまでに近づいても逃げない。木漏れ日が羽に射すところをねらって写真を撮った。日の当たらないところは、蚊(か)が気になるので長袖がよいだろう。

大和村(やまとそん) 水辺の広場 地図

本茶(ほんちゃ)峠のヒカンザクラ並木の紅葉はこれからピークをむかえるものと思われる。

 

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フヨウの花も島の秋を演出している。

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枯れ葉じゃないのヨ

2009年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

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↑↓ サルスベリ

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↑↓ ソテツ 雌株

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↑ シャリンバイ

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↑ 月桃(げっとう) or サネン の実(赤) 下(濃紫)はシャリンバイの実

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↑ ゴムノキ

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↑ サネン 実

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↑ ガジュマル

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↑ ハイビスカス

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↑↓ モモタマナ 実  Sea almond

別名:コバテイシ(枯葉手樹) 方言名:クワデーサ(未確認)

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「奄美の歴史とシマの民俗」 (単行本) 先田 光演 (著)

2009年10月18日 | 本と雑誌

091018bookamamihistory 奄美の歴史とシマの民俗 (単行本)
先田 光演 さきだ・みつのぶ (著) google

登録情報
単行本: 375ページ
出版社: まろうど社 (1999/06)
ISBN-10: 4896120213
ISBN-13: 978-4896120219
発売日: 1999/06
商品の寸法: 19 x 12.6 x 3.4 cm 

構成

1.沖永良部島の古墓石
2.奄美諸島の遠島人について
3.琉球大砲船と奄美
4.沖永良部島の年中行事

=====この記事は、きのう記事後半(琉球の地割制度)からのつづきです。

一 1609年(慶長14) 琉球王国からの割譲
二 1623年 「大島置目之条々」の布令
三 1728年 「大島規模帳」「大島物定帳」「用夫改規模帳」の布令
四 1745年 換糖上納令の発布
五 1777年 第一次惣買入制の実施
六 1830年 第二次惣買入制の実施
七 1873年(明治5)砂糖専売制を廃止し、大島商社を設立する。
八 1879年(明治12)砂糖の自由売買が行われるようになった。

400年前の1609年(慶長14)薩摩の軍船が奄美大島に侵攻して
いきなり、砂糖地獄と言われるような厳しい収奪体制が敷かれたわけではない。

↑ 上は、本書において、藩政時代に入ってからの奄美諸島(特に奄美大島)の支配政策が段階的に強化されていった時期をを藩の政策によって区分けしたものである。

文仁演(ぶにえん 人名)の越訴事件は、1733年に起こる。

おっそ【越訴】
(一定の順序を経ないで、直接上級の官司に訴えること。律令制以降、全時代を通じて原則として禁止され、特に江戸時代はこれに厳罰を与えた。(おっそ)

文仁演事件は、↑ 上の、三の時代、藩による本格的な奄美収奪の政策が取られはじまる時期にあたる。

1733-1609=124年経っている
1868(維新)-1733=135年後

薩摩藩はは、郷士制度や耕地を強制的に分割・分配する門割(かどわり)制によって独特、巧妙な農村支配を行い「百姓一揆のない国」と言われ 1858年の加世田一揆以外、強訴、越訴、逃散などは見られないが奄美ではたびたびの越訴や逃散がみられる。(このことはすでに学んだ)。

これは、藩政時代当初の「馴致策」や、「代官や附衆の不埒(ふらち)を藩へ申しでよ」との申し渡し書(1671年)もあるように藩があいまいな姿勢を示したことなどによるが、
なんといっても古代・中世を豪放闊達に生きてきた島民性によるものだと見ることもできる。(黒糖悲歌の奄美 前田長英p230)(これは現代でもどかかにひそんでいるのではないか)

さて、文仁演(ぶにえん)の越訴事件とは?

島役人藩庁へ越訴・・その結末は。

大島度連方の与人(よひと)文仁演(ぶにえん)は親類筋の稲里(いなさと)らに、大量の米を借りていたが、返済できず、利息もふくらんでいた。

そこで、稲里(いなさと)らは、代官(鹿児島からの派遣役人)の北郷伝太夫に賄賂を贈り、文仁演に対する債権取立てを願う。

(中略)いろいろあって、だまされ、ほとんどの財産や「下男下女」までもなくしてしまった文仁演(ぶにえん)は、民間の貸し借りに介入して私腹を肥やした代官北郷伝太夫が許せない。

文仁演(ぶにえん)、覚悟を決め藩庁へ越訴。

越訴状を見た藩庁の重役たちの衝撃はことのほか大きかった。

文仁演(ぶにえん)はだだの農民ではなかった。代官所の指示に従って方(群)行政全般を担当する島役人である与人(よひと 長官)であった。こうした島役人には琉球王国以来の旧家の一族が就いた。(代官に賄賂を贈った稲里(いなさと)らもそうした一族であった)

事件の結末は、文仁演(ぶにえん)ら当事者のみならず大島の与人役全員が罷免されるという大事件に発展している。

それは、なぜか。藩が下した判決から読み取れることとは。

以下、本書からの引用(p126)は、一番注目した部分なので長いけれど書いておきます。

藩の処置は、代官所役人と与人文仁演側・稲里側に対してはそれぞれ異なっていた。代官に対しては先の「大島規模帳」の令達を適用して厳しい処断を下し、島役人については遠島や解任を行ったものの、数年後にはその一族が島役人に復帰している。

文仁演一族の七島遠島は「越訴之科」によるものであり、島人同士の貸借のトラブルは断罪していない。このことは「下男・下女」がすでに存在していた島社会における家人制度が、奄美大島独自のものとして形成されつつあることに、藩府としても関与できなかったことを表しているのであろう

 薩摩藩は、藩本土で一貫して取り続けてきた門割制度郷士制度が、奄美社会には適用できないことを承知していたのであり、島内での貸し借りによる身売りや処分方法は、当事者同士の問題としてとらえていたものと考えられる。

それだけに、島役人の権限は強大であったといえるであろう。

奄美諸島のシマ社会は、薩摩藩の支配下に入っても琉球王国時代の村落共同体的な身内意識が強固社会であり、近世封建社会における薩摩藩内の門割制度は導入することができなかった
 文仁演事件で奄美大島のすべての与人が解任されているが、当事者であった文仁演も後に赦免となって帰島しその子孫は再び島役人として復権している。また、稲里一族も兄弟や子供にわたって代々与人役を勤めている。おそらく、他の解任された与人たちの子孫同様に島役人として再び任命されたであろう。
 この事件は、島役人を琉球王国時代の意識から断ち切り新興勢力の台頭をはかるための機会として利用されたといわれるが、奄美社会の状況下では貫徹することができなかったと考えられる。
 奄美諸島においては、薩摩藩の内検によっても農民の分断再編は行うことができなかったのである。
そのため、島役人階層の権力は世襲制であり、藩役人の権限も及ぶものではなかった。
 「本琉球支配之節儀を今以申上候儀ハ、其遠慮可有之儀候、御蔵人候而ハ皆百姓ニ而候」と命じてもシマ社会の構造を変えることはできなかったであろう。
この後、砂糖政策が強化されるようになって、シマ社会の内部からだんだんと変質していことになる。島役人の社会でも新旧の交替が進み、財力を蓄積しながら砂糖の増産に目ざとく励み、シマの貢納を肩代わりして家人を抱える豪農が出現して、奄美社会は大きく変革していったのである。

引用おわり。これまで素朴にいだいていた島民像をくつがえし、奄美の歴史を見る視点の転換を促されているようだ。

本書では、ほかに、「幕府の公儀流人」「『種子島家譜』の遠島記事」奄美諸島間の流人、琉球からの流人などについても述べられていて新鮮だ。

沖縄県浦添市教育委員会が1987(昭和62)年に発行を始めた『琉球王国評定所文書』の中に豊富に存在することがわかった奄美諸島に関する記録を読み解くことによって、これまで薩摩藩側の文書のみに依存し、藩の支配政策の研究に集中していた奄美の歴史研究がさらに進展し、琉球と奄美のつながりが質量ともに豊かな広がりをもっていたことを解明できるであろう、と著者は期待している。p208

本書の刊行から10年が経った。

=====この記事は、きのう記事後半(琉球の地割制度)からのつづきです。