今日の名瀬
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月28日
昼すぎ写す。 pic.twitter.com/gwIURmLq9p
名瀬湾の東の山の中ほどに、西の山の影がかかっている。
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月28日
上半分の木々を照らす西日は、ぼんやりとうすく、
消え入りそうだ。19時35分。
丘の上のホテルは点灯している。
名瀬のはるか西にUターン台風第10号が。
台風10号はUターン
今日の名瀬
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昼すぎ写す。 pic.twitter.com/gwIURmLq9p
名瀬湾の東の山の中ほどに、西の山の影がかかっている。
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上半分の木々を照らす西日は、ぼんやりとうすく、
消え入りそうだ。19時35分。
丘の上のホテルは点灯している。
名瀬のはるか西にUターン台風第10号が。
台風10号はUターン
wiki カクレミノ(隠蓑)とはウコギ科の常緑亜高木。学名Dendropanax trifidus(シノニムTextoria trifida)。別名、カラミツデ、テングノウチワ、ミツデ、ミツナガシワ、ミソブタ、ミゾブタカラミツデ、等。
本州東北南部以南、四国、九州、沖縄に分布する常緑高木。葉は濃緑で光沢がある卵形の単葉で、枝先に互生する。変異が多く稚樹の間は3-5裂に深裂するが、生長とともに全縁と2-3裂の浅裂の葉が1株の中に混在するようになる。花期は6-8月で、両性花と雄花が混じって咲く。果実は長さ1cmくらいで先端に花柱が残り、晩秋に黒紫色に熟す。鉢植や庭木、神社等によく植えられている。樹液中に漆の成分と同じウルシオールを含むため、体質によってかぶれることがある。
この本を読んでいたら、2,3、日前に撮影した写真の植物に似た
p297 ヤツデ(うこぎ科)に似ていることから、検索して調べた。
図説 『世界史を変えた50の植物』 単行本 – 2012/9
ビル ローズ (著) Bill Laws (原著)柴田 譲治 (翻訳)
4件のカスタマーレビュー
最初にカスタマーレビューを読んでしまった。
そこで指摘されている、江戸時代の絵が誤って使用されていることを知り、読書意欲をそがれてしまった。いい本なのだろうが翻訳も読みずらい。
サツマイモはなく、ジャガイモであり、サトウキビは黒糖ではなく白糖が主で、
日本人の著者で日本の歴史を変えた植物、50もなくてもよく、5つくらいの植物の歴史について書かれた本があってもいいな、と思う。
amazon 内容(「BOOK」データベースより)
サフラン、コショウ、ジャガイモ、トウモロコシ…文明の発展や生活様式に大きな影響をあたえてきた植物のなかでもよりすぐりの50種を、美しい図版とともに紹介。
amazon 登録情報
単行本: 223ページ
出版社: 原書房 (2012/09)
食用には不向きです。It is unsuitable for edible.
学名: Pandanus odorifer
タコノキ科 タコノキ属
撮影地 奄美大島 大浜海岸 夕方
immature fruit 未熟な
真田太平記は、数日お休みです。
『麦屋町昼下がり 』(文春文庫) 文庫 – 1992/3
藤沢 周平 (著)
2012年1/30第34刷
「麦屋町昼下がり」
「三ノ丸広場下城どき」
「山姥橋夜五ツ」
「榎屋敷宵の春月」
今年だが、だいぶ前、名瀬の書店で買って、バッグの入れたまま忘れていた。久しぶりに見つけた、藤沢周平未読本
裏表紙の内容紹介に「円熟期をむかえたこの作家の名品を三篇。時代小説の芳醇・多彩な味わいはこれに尽きる、と評された話題の本。」とあったのが買った動機。
他に、あまり見かけなかった「無用の隠密 未刊行初期短篇 (文春文庫)」 もあったとおもう。
静かに紡ぎだされる物語の流れの中にいつまでも浸っていたい。
もう結末など、あまり気にもならないくらいだ。
読み終わってもその気持ちは収まらない。
場面場面の情景は映像でみるより鮮やかだ。
いつよんでもはずれがない、これはそうあるものではない。
amazon 内容(「BOOK」データベースより)
不伝流の俊才剣士・片桐敬助は、藩中随一とうたわれる剣の遣い手・弓削新次郎と、奇しき宿命の糸にむすばれ対峙する。男の闘いの一部始終を緊密な構成、乾いた抒情で鮮烈に描き出す表題秀作の他、円熟期をむかえたこの作家の名品を三篇。時代小説の芳醇・多彩な味わいはこれに尽きる、と評された話題の本。
台風15号は先島諸島 奄美・名瀬港のようす↑↓ 奄美大島 名瀬港 きょう23日お昼ごろ写す。台風15号 16号気象庁台風情報九州のりものinfo.com 鉄道(JR九州・西鉄・地下鉄)、バス、旅客船・フェリ......
1603年家康の征夷大将軍拝賀の礼も二条城でを行われ徳川幕府本格始動。1867年15代徳川慶喜の大政奉還で江戸幕府の終わりを告げた二条城は江戸幕府の初めと終わりの場所ともいえる。このあと1614年大坂冬の陣では二条城は家康の本営となる。
真田太平記13-1半分読了まで全巻の流れをくみ天下に大きな動きはない。19になった秀頼、その容姿は立派で「類まれなるもの」だ。背丈180cmを超えふっくらした秀麗の美貌。物事に動じぬ判断力も「まさに天下人にふさわしい」家康が恐れも頷ける。天皇譲位・即位のため家康の上洛が近づいてい
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月19日
真田太平記13-2家康着京後も上洛要請せず。気をもむ豊臣方、だが高大院、清正、幸長の呼吸は水も漏らさぬ。遂に「お目にかかりたし」家康の使者が。秀頼を案じる淀の方を説得する清正と長野幸長、そこへ家康から「我が子を人質に」。これは家康の外交辞令、中ば大坂方への揶揄の意味も。巧みな家康
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月20日
真田泰平記13-3家康との面会に12年ぶり大坂城外に出る右大臣秀頼は四方あけはなしの駕乗り物で両脇は清正と幸長。群衆は秀頼の若々しくも堂々たる威容を「なんとご立派な」家康「ようまいられた」人々が見守る中で手をとり何度も打ち振り(これが秀頼か)群衆の喝采と威厳に満ちた清正に家康は・
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月20日
真田太平記13-4清正死因諸説あるだけに小説家としては腕の振るい所
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月21日
二条城で豊臣の臣の姿勢と、立派に成長した秀頼との緊密な関係を強く表現した清正69の家康は不安だ。が清正は強い味方でもある。甲賀忍びと真田草の者の暗躍は、この家康と65で危篤の昌幸の腹中を描いている様にも読める。
清正を我が懐に入れようと家康は政略結婚による結びつきは二重三重になっていた。いづれも家康から働きかけたものだ。2人の子同士だけでなく清正は正室がありながら家康の養女を妻に迎える。
p298に8代吉宗は清正の孫との説があるが、「あま姫」は八十姫?
徳川頼宣正室となった清正の娘八十姫に子はなく、側室が生んだ徳川光貞を実子同様に育て、その光貞の子が吉宗ということらしい。したがって清正と吉宗に血のつながりはない、ということになる。
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満月
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奄美大島
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ハマユウの花
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奄美市名瀬朝仁(あさに)海岸
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グンバイヒルガオ
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台風が来ないと夏が長いような、短いような。
和歌山県北部に位置する九度山町は人口4300人あまり。現在、くどやま「真田丸大河ドラマ展が開催中だ。
九度山の名前の由来は、域内には高野山の開祖・弘法大師空海の母が暮らしていた慈尊院があり、空海は月に9度(それほど頻繁にという意味であろう)母に会いに来ていたことから、という。
真田太平記12-1この巻50頁で真田父子九度山蟄居は10年が。来年家康上洛で、秀頼は家康の要請を拒否と昌幸は読む。これ戦火をよぶは必定、久我山脱出の時だ。聞いてお江の胸は高鳴る。だが弥五兵衛(大殿はもしや死病に)
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月16日
幸村を演じる草刈正雄→https://t.co/SloPEWN1JI
真田太平記12-2レッテルの多い清正。武断派のイメージに惑わされるな。文治派三成もただの戦バカとは見てない。築城家の実力は英邁のほんの一例。財政家、治水農業振興を見よ。政治家として秀吉より上。家康も恐る。熊本城を落せぬ西郷「いかん、政府軍じゃのうて清正と戦っているようなもんじゃ」
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月17日
真田太平記12-3信之に岳父本多忠勝(家康の功臣)の遺言が届く2代将軍秀忠、関ケ原遅参の恨み晴れることなし、九度山の父と弟は諦めよ
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月18日
一方お江は関ケ原で損じた家康暗殺をこの春上洛の期に懸ける
それを見抜いた幸村「戦陣外での討ち取りは兄、及び真田一族に塁が及ぶ止めよ」父危篤で13巻へ
この巻は、戦が終わり、物語も少しゆっくりと進む。後半のクライマックスに向けて中休みといったところか。物語冒頭から妖艶な女忍びとして登場したお江も30年が過ぎ、すでに50を超えてもなお、肌艶の輝きを失わない。しかしたとえば物売りの老婆に扮するときは顔のつくりを変えるわけでもないのに老婆に顔になりきり体つきも別人のごとく、歩みぶりから声色もだ老婆そのものになる。
五瀬の太郎次「忍びばかりでなく、女という生き物はな、佐助。常の女でも、その折々に、たった一日のうちで三度も四度も顔つきが変わってしまうものなのじゃ」女は無意識のうちに演技をしているというのだ。P110
物語全体の中でも歴史上の登場人物たちの人生の中の生きざまや風貌の変わりゆく様が丹念に描かれ読みどころの一つとなっている。
真田太平記11-1
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月13日
この巻から島津義弘が本格的に登場。
関ケ原の決戦
前夜の大垣城の戦い以来三成に田舎者よばわりされ義弘は、三成が好かん。「すぐさま、打って出られたし」の三成の使者八十島に島津豊久(ここでは義弘の孫?)は「うけたまわった」と相変わらずだ。義弘に直接面会もならない
承前 真田太平記11-2
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月13日
66歳の島津義弘の関ケ原決戦場における行動は、まったく独自のものであった。
義弘の賢明な決意と果敢な行動は、戦後の島津家に、よい意味での重大な影響をもたらす。
まもなく1609年、琉球征伐の薩摩軍総勢3000人、80余艘が奄美大島にやってくる。つづく
その時歴史が動いた 「関ヶ原の戦い 決死の敵中突破 戦国の猛将 島津義弘」 (2002年) https://youtu.be/bn0NOJvxLpo
真田太平記11-2島津の退き口
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月14日
島津陣地~家康陣地は歩いて20分弱
島津家存続の為には生きて申し開を。だが敵に背をみせての敗走は島津の名折れ「家康本陣へ攻めかけると見せ、一気に伊勢街道へhttps://t.co/hv10O2aAbhhttps://t.co/gCMUZ7atsL
https://youtu.be/bn0NOJvxLpo その時歴史が動いた 「関ヶ原の戦い 決死の敵中突破 戦国の猛将 島津義弘」 (2002年)
真田太平記10-3敗走する島津軍を最後まで猛追したのは、井伊直政。豊久を捕えなおも義弘の目前まで迫るが島津軍の銃弾で負傷。逃す
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月14日
幕末桜田門外で水戸浪士の中に一人いた薩摩の有村治左衛門に首を討たれた大老井伊直弼はこの直政の子孫にあたる。なお直弼の安政の大獄で追われた西郷は奄美大島へ
真田太平記10-3敗走する島津軍を最後まで猛追したのは、井伊直政。豊久を捕えなおも義弘の目前まで迫るが島津軍の銃弾で負傷。逃す
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幕末桜田門外で水戸浪士の中に一人いた薩摩の有村治左衛門に首を討たれた大老井伊直弼はこの直政の子孫にあたる。なお直弼の安政の大獄で追われた西郷は奄美大島へ
真田太平記11-4
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月14日
島津氏が関ケ原の戦いに大軍を送れなかった理由。
庄内の乱 慶長4年(1599年)島津氏家中最大の内乱
wiki https://t.co/5fIsObQMS5
真田太平記11-5嘗て豊臣家大老として家康と肩を並べ、敗戦後もなお秀頼を擁し大坂城にあった西軍総大将毛利輝元は、あっさり無血開城、結局山口、広島、島根県の120万石から山口県36万石に減その毛利家が260余年後薩摩と共に明治維新の主動力となり徳川幕府を打ち倒すことになるとは
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月14日
↑ 保証がないかぎり、みだりに東軍の手にゆだねてはならなぬと、養子の毛利秀元は反対したが、輝元は、東軍諸将の誓約に疑念をいだいては家康の怒りを買うことになりはすまいか、とおそれた。 p134
家康は大坂入場後、井伊直政をもって輝元に「薩摩攻めの先陣をつとめられたい」一方的に要求する。
毛利家の本拠であった安芸の国広島の新しい城主となったのは大坂城接収に奔走した福島正則(秀吉子飼い)であった。がこれは正則不運の第一歩であった。
真田太平記11-6戦から3年家康62は右大臣征夷大将軍2年後隠居。秀忠27二代将軍へ。信長秀吉跡継ぐ人材なき不幸を見ている。
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月15日
家康庇護下の北政所を通じ大坂城の秀頼13に「新将軍の宣下へ列したまわれたい」
生母淀殿に一蹴され「また戦じゃ」世間騒然「今は仕方なし」名代を送りおさめた。
真田太平記11-6戦から3年家康62は右大臣征夷大将軍2年後隠居。秀忠27二代将軍へ。信長秀吉跡継ぐ人材なき不幸を見ている。
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家康庇護下の北政所を通じ大坂城の秀頼13に「新将軍の宣下へ列したまわれたい」
生母淀殿に一蹴され「また戦じゃ」世間騒然「今は仕方なし」名代を送りおさめた。
真田太平記11-6上田城籠城戦で秀忠軍を関ケ原遅参に追いだ真田昌之・幸村(信繁)父子は3万8千を討ち取ったも同じの活躍だった
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月15日
戦後長男・信幸の岳父本田忠勝決死の嘆願が家康に受け入れられ助命。紀州・九度山の隠邸で藩主浅野幸長の好意と長男信之(信幸)の援助で家康の怒りが解けるのを待つ
本田→訂正→本多
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8/16日の大河ドラマ「真田丸」は1598年(慶応3)の第32回「応酬」だった。
秀吉が死に有力大名らによる政権運営が始まり、家康と三成は自陣の大名を増やそうと互いに宴を催すなど躍起になる。犬猿の仲といわれる文治派石田三成と武断派加藤清正の、そうともいえない仲をうかがわせる演出がおもしろい。