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この記事は、
2009年12月25日 (金曜日)
「薩摩藩」という呼称 からの続きです。
島津 重豪(しまづ しげひで)googkeは、島津氏第25代当主。薩摩藩の第8代藩主。
薩摩に暗君なしとはよく言われる。
重豪は、幕末の四賢侯(ばくまつの しけんこう)の一人に数えられる島津斉彬(なりあきら)の曽祖父にあたる。
封建社会の極北といわれた薩摩。
その担い手である青少年に対する郷中教育は、徳育と体育を特徴とした集団教育であった。
体育では、剣術などの武芸全般、山坂達者の長距離踏破などで質実剛健の気風を培い薩摩の士風が確立された。
(薩摩人の相撲好きも、これと無縁ではない。西郷隆盛の大島遠島中の相撲好きは有名である。こうした薩摩人の気風は、子どものころ例えば鹿児島から赴任してくる学校の先生、警察官などを通して、知らず知らずの内に不徹底ではあるが自分のなかにも受け継がれているのを感じる。先生は沖縄からではなく鹿児島県から赴任してくる)
こうした硬教育は、一方で「奇矯をてらい理を軽んじる蛮風」を生み出すことになる。
「泣こよかひ飛っべ」「チェストいけ」「議をいうな」
しかし、反面、薩摩人は前面に広がる大海原(環東シナ海文化圏の一翼として古来、国際社会とつながっていた)を見据えた複眼的視野を通して培われた「開明」「進取」といった精神性などもあわせもっているということは、ここで急いで付け加えておかなければならない。
「薩摩飛脚」(さつま・びきゃく)ということわざは、江戸時代、薩摩藩が国情の漏れるのを恐れて領内に入った他国の者(スパイなど)の出国を許さなかったことから、行ったきりで帰らないことのたとえとして使われ、薩摩の閉鎖的、排他的、保守的、秘密主義的土地柄をあらわしている。
特殊な言語は、他国との交流をさまたげ、井の中の蛙的な頑愚さへとつながり、このままでは将来の発展はのぞめない。
こうした状況を強く戒め、伝統的な薩摩の郷中教育に疑問を示し、薩摩の気風を一新したのが、ハイカラ殿様、島津 重豪(しまづ しげひで)であった。
しかし、これらの開化政策や、将軍家などとの閨閥作りのため藩財政は圧迫され、重豪は、領民ことに奄美などからの搾取をつづけた暴君としての側面もあったということは、前回までに学んだ。
89歳でなくなった島津 重豪(しまづ しげひで)は、薩摩藩主きっての最高齢として知られている。約80年近くも藩政に意欲を示したが、隠居したのは、思いのほか早く、天明7年(1787年)で43歳の時。
その理由は、重豪の娘茂姫(しげひめ、のちの広大院こうだいいん)の婚約者が11代将軍に就任したことがきっかけであった。( 徳川家斉とくがわ いえなり (1787年)- (1837年)
あとを継いだ九代藩主、長男の斉宣(なりのぶ)26 代当主 1787-1809 天璋院(篤姫)の祖父)は、実権を重豪に握られ、父の目を意識しながらの藩政運営だった。
文化3年(1805年)32歳の斉宣(なりのぶ)は、藩政改革を決意する。
父重豪の放漫財政や開化政策厳しく批判し、徹底した緊縮政策に転じた。
藩財政改革問題から父子の主導権争いが激化して起こった内紛が「近思録崩れ」である。
「文化朋党事件」「秩父崩れ」とも言われる「近思録崩れ」は、有名なお由羅騒動より多い77名(100名以上とも)の処分者を出し薩摩藩最大の悲劇といわれている。くわしいことはわかっていない。
さて、
内紛の命名の由来は、処分された秩父季保(ちちぶ・すえやす)らが同志を募って『近思録』読む学習会をしていたからであるが、
『近思録』とは、朱子学の教本で、儒教の実践に重きを置く。
財政改革に取り組む意思を示した斉宣が家臣らに示した『鶴亀問答』なる文書の概略は「君主の贅沢を慎み、民衆の生活を考えねばならない」という内容であった。重豪が怒るのは無理もない。
斉宣は父・重豪により近思録崩れの責任を問われ、長男・斉興に家督を譲らされて強制隠居させられ家督を長男の島津斉興(なりおき)に譲らされたた。
のちに「近思録」が西郷や大久保などの下級武士の間で読まれるようになり、重豪が寵愛し、重豪譲りの蘭癖で知られる曾孫斉彬(なりあきら)の擁立に動いたことは歴史の皮肉である。
斉宣(なりのぶ)の時代 1787-1809 の22年間の奄美の砂糖政策はどうだったのか?あとで調べる。
しかし、斉興(なりおき)もまた、藩主になったとはいえ、藩政改革などの実権は重豪に握られていたのであった。
天保4年(1833年)、重豪が亡くなると斉興(なりおき)はようやく藩政の実権を握り、重豪の代からの調所広郷(ひろさと 笑左衛門)を重用して、藩政改革に取り組んだ。
調所は、大阪商人からの藩の借金の踏み倒し(実際は廃藩置県までは、250年分割で支払らわれた)や奄美の黒糖専売制による搾取強化(合理的改革も見られる)や、清との密貿易などで薩摩藩の財政を劇的に回復したが、嘉永元年(1848年)幕府から密貿易の件で咎められ、自殺に追いやられたことは前回みた。
こんどは、嘉永2年(1849年)12月に、前回の記事でみた、お家騒動(お由羅騒動)が起こり、老中・阿部正弘の調停により、斉興は隠居し、斉彬(なりあきら28代当主 1851-1858 西郷らに慕われ、開明的な幕末の名君として知られる )が家督を継ぎ11代藩主となった。
「近思録」派の政策 wiki より
参勤交代の10年保留
殖産産業にならない新規事業の停止
琉球を通じた貿易の拡大
本来下級武士の役職である喜界島代官を一所持で勘定奉行の島津相馬(お由羅騒動で処罰された島津壱岐の父)や寄合の伊集院蔵主への下命。