ここからこことこことここも過ぎると、大和村 名音(なおん)。名音からは、まもなく完成する志戸勘トンネルの上の県道の峠越えです。この峠越えのコースは、海、山の景色、道路とも迫力満点だった。
峠を下り、古い短いトンネルを過ぎると、そこが大和村今里。ここは、大熊同様、カツオ漁業で栄えたところだが、かつて1500人を数えた人口も今は過疎化で、200人ほどだという。(大和村にある11の集落全体では2,100人ほど)大和村役場のホ-ムページ
この日は豊年祭の準備か、集落と海岸を隔てて走る県道に、青年団の豊年相撲のぼりが見えた。その向かいが公民館。公民館の前の土俵からは、東シナ海の海が見える。
奄美各地の集落には、公園にブランコがあるよりも当たり前に、公民館の前庭にはこうした屋根つきの土俵がある。会場(クァイバ)はスタジアムでもあるのだ。
赤土で固められた Sumo ring には、子供の頃の思い出が詰まっている。カッタ、メダマ、クギウチ。
お砂場はいらない。「人生に必要な知恵は全てここで学べた」のだった。道路をわたれば、長い海岸。
海の見える土俵は、上がるだけでも勇壮な気分になるのだそうだ。
団塊の世代の人たちも、そろそろ敬老会に入り、この公民館の観客席(写真の白いカーテンの後ろ)に招かれて、子や孫や、そして曾孫たちの相撲を観戦するのだろう。
家の集まりの席などでは、男たちのノミカタの、料理作りや後片付けに忙しかった女性たちも、おばあちゃんになると、正装して相撲見にこの席に「行きマイ」になる。
今里は、集落から500メートルほどに迫ったところにたたづむ「立神」(たちがみ)が印象的だ。名瀬のそれと比べ、どっしりして、どこか南国の女性的な印象で、存在感がある。
他の奄美の集落にも、集落近くの沖合いに、こうした岩山が立っているところが多くあり、そこはニライ・カナイと呼ばれる豊穣の国から海を渡ってくる神様が立つところともいわれている。
シマを遠く離れて暮らす人たちにとって、毎日眺めて慣れ親しんだこの風景は目に焼きついて離れないことだろう。
シマ唄が聞こえてきそうな風景だ。
岩山の裏側にまわって見たくなった。
実際に小舟か泳いで、近くで見上げると、朝日に照らされた岩肌はとても神々しいだろうなぁと、双眼鏡を覗いてそう思った。
ドライブには双眼鏡があればなお良いです。
このあと県道は海岸沿いを離れ再び山道を登る。名瀬に引き返さず、このまま古仁屋(こにや)まで行くつもりなら、名瀬で弁当を買ってきておいた方がよいでしょう。
峠を下り、古い短いトンネルを過ぎると、そこが大和村今里。ここは、大熊同様、カツオ漁業で栄えたところだが、かつて1500人を数えた人口も今は過疎化で、200人ほどだという。(大和村にある11の集落全体では2,100人ほど)大和村役場のホ-ムページ
この日は豊年祭の準備か、集落と海岸を隔てて走る県道に、青年団の豊年相撲のぼりが見えた。その向かいが公民館。公民館の前の土俵からは、東シナ海の海が見える。
奄美各地の集落には、公園にブランコがあるよりも当たり前に、公民館の前庭にはこうした屋根つきの土俵がある。会場(クァイバ)はスタジアムでもあるのだ。
赤土で固められた Sumo ring には、子供の頃の思い出が詰まっている。カッタ、メダマ、クギウチ。
お砂場はいらない。「人生に必要な知恵は全てここで学べた」のだった。道路をわたれば、長い海岸。
海の見える土俵は、上がるだけでも勇壮な気分になるのだそうだ。
団塊の世代の人たちも、そろそろ敬老会に入り、この公民館の観客席(写真の白いカーテンの後ろ)に招かれて、子や孫や、そして曾孫たちの相撲を観戦するのだろう。
家の集まりの席などでは、男たちのノミカタの、料理作りや後片付けに忙しかった女性たちも、おばあちゃんになると、正装して相撲見にこの席に「行きマイ」になる。
今里は、集落から500メートルほどに迫ったところにたたづむ「立神」(たちがみ)が印象的だ。名瀬のそれと比べ、どっしりして、どこか南国の女性的な印象で、存在感がある。
他の奄美の集落にも、集落近くの沖合いに、こうした岩山が立っているところが多くあり、そこはニライ・カナイと呼ばれる豊穣の国から海を渡ってくる神様が立つところともいわれている。
シマを遠く離れて暮らす人たちにとって、毎日眺めて慣れ親しんだこの風景は目に焼きついて離れないことだろう。
シマ唄が聞こえてきそうな風景だ。
岩山の裏側にまわって見たくなった。
実際に小舟か泳いで、近くで見上げると、朝日に照らされた岩肌はとても神々しいだろうなぁと、双眼鏡を覗いてそう思った。
ドライブには双眼鏡があればなお良いです。
このあと県道は海岸沿いを離れ再び山道を登る。名瀬に引き返さず、このまま古仁屋(こにや)まで行くつもりなら、名瀬で弁当を買ってきておいた方がよいでしょう。