奄美 海風blog

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野百合の観察 2 断崖

2008年02月28日 | 植物

2008年2月16日
恒例、野百合の観察 1 からつづく

Torajiro meets Lily-san 2008 これは戦い?です。

徳浜の断崖 Doku-hama Precipice
かごしまロマン街道 大和村 
名音(なおん)地図

今から約800年前、鎌倉時代の大地震によってできたといわれています。

断崖(方言でガマ)の高さは、見えるところで約172メートル。
岩質は、名音珪岩(けいがん)層(5億年前

くわしくは、こちらの説明板(最後の写真)

ここは、車で通りすぎるだけではもったいない。
できれば、双眼鏡で絶壁の岩肌を観察したい。

こんなところに?思うところに、ソテツなど
いろいろな植物が自生しています。
3月になると、かれんな白百合も咲き出します。

今頃は、よく晴れた日には、海に沈む夕日を見ることができます。


映画『母べえ』を観た。ロケ地のひとつ奄美大島にて

2008年02月27日 | 映画

080227poster_2 記憶が、あいまいにならないうちに、書いておきます。

==

映画のラストシーン、

あれから、一足飛びに、時は流れて、

臨終の「母べえ」の枕元。

大人に成長した2人の娘たちが駆けつける。

妹の照美、泣きながら
「母べえ、これでやっと、天国の父べえのところへ行けるのね、よかったじゃないの」(セリフは、うろ覚えです)

しかし、母べえは、最後の力をふりしぼって首を横に振り、「・・・」

照美は、酸素マスクをはずし、耳を近づけ、その言葉を聴いた。

「母べえ、何て言ったの」

母べえの最期の言葉は、

たづねる姉初子に対し、そしてわれわれに対し
照美の口から伝えられる。

それを聴いた初子の表情、倍賞千恵子さんの一瞬の名演技も見逃せない。

この母べえの言葉を、いまここで書くわけには、いかない。

なにげない?平凡な一言だが、そのことばには、
この映画全編の母べえの思いが収斂されている、ように思われるからだ。うーむ。

エンディングの音楽を聴きながら、60歳台の吉永さんが演じた、30台の母べえの日常の一こま一こまが、じんわりと、蘇ってくる。
もう一度観ても、ひとつひとつのシーンに、いろいろな発見があることだろう。

この役は、若い役者さんでは無理だったに違いないと思わせる、吉永さんの名演が光った。

映画は、昭和15年(1940)
母べえ、父べえ、娘の初子、照美の4人家族の、しあわせな、
しかしそれが最後となる一家団欒の場面からはじまる。

長引く日中戦争のなか、文学者だった父は治安維持法違反の容疑で、幼い娘たちの目の前で、土足で踏み込んだ特高の手縄にかかる。

以後、残された家族を支える周囲の人々と、戦争一色となって行く日本の社会を、淡々と描いていく。

「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」

街のおじさん達ちのなかには、アメリカを破って、次には同盟国ドイツをたおして日本が世界一になることを無邪気に夢見る人たちもいた。

母べえは、そうした人たちとも、ごくごく普通に付き合いながら生きていくのであった。底辺で生きる、そのおじさんは、やさしかった。

しかしながら、子を思う母として、人間として、きっぱりとした・・・(以下略)

けなげに生きる母べえの後姿があぶりだすものは、戦争の悲惨さとか、愚かしさといったものだけにはとどまらない。現在のわたしたちの生き方を・・・。

映像もこれといって、凝ったふうではなく、どちらかといえば地味な印象(が、しかしよく見ると、音、光、風、小道具の配置にいたるまで、細心の配慮がなされているように、感じられる)

声高に、戦争反対を唱えるわけでも、社会批判をするでもない。

子役の二人の名演技(ふたりは、中学生と小学生くらいか)仲良しのふたりの年頃の違いと、周りの人々にたいする感受の違いなどが、コミカルながら、丹念に描かれていて、それがこの映画の大きな柱のひとつになっているのではないか。

鶴瓶さん扮する、田舎からやってきた下品なおじさん(粗野で、スケベで、そして・・・。
最期は奈良?の田舎で桜の散るころ、終戦を待たず死んでいくことになっている)は、寅さんを彷彿とさせる。このおじさんにたいする子役の反応の差もしっかりと見届けたい。

080227beach2

←龍郷町の海岸。撮影は、この後、潮が満ちるのをまって行われた。

さて、奄美ロケのシーンですが、映画のなかで、もっとも華やかなシーンになっている。東京近郊の海岸という設定ですが、母べえが、おぼれた書生、山崎を着衣のまま海に飛び込み助けるシーン。
沖合いからのカメラで、白い砂浜と、奄美独特の?稜線をもつ山が写る。アダンもソテツも、そして、テッポウ百合もそこには咲いていたはず

クリーム色の海岸の砂もアップで写っていた。

080227beach1  そして、ちょっとおどろいたのが東京の野上家の家の玄関には、間違いでなければ奄美でおなじみのシュロが植えられていていたような。ま、どうでもよいことですが。

まあ、勝手に解釈すれば、母べえのうしろ姿は、
おじさんにとっては、度重なる歴史の大波に翻弄されながらも、おおらかに生き抜いてきた「母なる島、奄美」のイメージにも重なるものだった。

関連記事 このブログ

Yahoo 映画 母べえ


大相撲3月場所 新番付 里山、西幕下筆頭 旭南海、東十両11枚目

2008年02月26日 | 大相撲

080226flower1

↑ スモモの花

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↑ 5ミリくらいの小さな花  なかには2ミリくらいのもある。

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リュウキュウコスミレ (白) すみれ色のものが多い

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↑ 花序(花軸についている花の配列状態)は10センチくらい  なんとかタツナミソウか?

里山、西幕下筆頭

旭南海、東十両11枚目

里山、新十両から数えて、14場所目の春場所は、幕下へ。

先場所の成績を見る(このブログ千秋楽の記事)

新番付発表のニュースは、NHK鹿児島放送局のお昼のニュースで見た。

タイトルは、「旭南海、東十両11枚目へ」だったか。

旭南海は。先場所、幕下当時の大銀杏のない写真
つづいて里山の写真は、大銀杏を結った写真で紹介された。

鹿児島県出身力士の数は、全国で、東京、大阪、愛知に次いで4番目に多いと放送された。

ウェブで調べると、東京 45人
大阪 44人
愛知 41人
鹿児島 37人だった。
北海道は13人で、現役関取り(十両以上)はいない。ちなみに沖縄は5人

全 鹿児島県出身力士37名(内奄美出身17人 青字)

十両
東十一  旭南海(きょくなんかい)徳之島天城 大島部屋google

幕下
西筆頭  里山(さとやま)笠利町 尾上部屋
西二十三  薩喜海(さつきうみ) 喜界 境川部屋
西三十七  東心山(とうしんやま)徳之島 玉ノ井部屋
西四十  福永(ふくなが) 宇検 境川部屋
東五十  立神(たちがみ) 名瀬 三保ケ関

三段目
東二    薩摩錦(さつまにしき)
東三    憲樹(けんじゅ)
西六   再田改め 若乃島(わかのしま)龍郷 放駒部屋
東三十八  薩摩力(さつまりき)
東五十一  春日波(かすがなみ)
西五十八  喜ノ国(よしのくに)喜界  境川部屋
西六十三  日高(ひだか)
東八十五  桜児龍(おうこりゅう)
西八十九  徳州山(とくしゅうざん) 徳之島天城 松ケ根部屋
西九十一  春日島(かすがしま)
西九十九  並木(なみき)

序二段
東三    壽(ことぶき) 瀬戸内 松ケ根部屋
西十六   屋久ノ島(やくのしま)
東十九   若泰山(わかたいざん)
西四十九  高木(たかき)喜界  九重部屋
西八十三  霧桜(きりざくら)
東八十五  若三浦(わかみうら)
東八十七  石原(いしはら)
西九十五  入ヶ町(いりがまち)
東百枚目  嶋瀬川(しませがわ)
東百二   玉ノ勝(たまのしょう) 名瀬 片男波部屋
東百六   北堅夢(きたけんむ)笠利  北の湖部屋
東百十二  喜乃富士(よしのふじ)喜界  中村部屋
西百十六  琴明山(ことみょうざん)
西百十七  木下(きのした)

序ノ口
西五    舛奄美(ますあまみ)名瀬  千賀ノ浦部屋
西七    高間(たかま)
西十五   北薩摩(きたさつま)
西二十六  山下(やました)
西二十七  慶(けい)瀬戸内  阿武松(おおのまつ)部屋
西二十九  朝奄美(あさあまみ)徳之島  高砂部屋

三月場所日程 goo 大相撲
3月9日~3月23日
大阪府立体育会館


ソテツについて調べる その3 輸出

2008年02月23日 | 生き物観察

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ソテツの実 方言:ナリ

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↑↓ 雌雄異株 雌株

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↑ ソテツ群生 龍郷町安木屋場(あんきゃば)地図 ここでは芭蕉の群生もみられる。初めて奄美を訪れた人に、新鮮で強烈な印象を与える。大きい写真で見る これは、おそらく自生ではなく、奄美の先祖の人々が、生きるために丹誠を込めて植えた幾百年の遺産であることも忘れてはならないだろう。

むかし、むかし、神様が島の植物たちを召集した時、遅かったアダンよりも、さらに遅れて来たといわれるソテツ。

だから、ソテツは、風波の強い海岸の岩場や断崖絶壁に押しやられた。

厳しい環境で億万年の命を保ってきた蘇鉄は、現在、奄美から砂漠緑化のため中米などに、輸出されている。

また、観賞用としてもヨーロッパなどに輸出されていて、今後も出荷量の伸びが期待されている。

蘇鉄は、救荒植物として、また薬や土壌改良、肥料にも使われ、実(ナリ)の殻は、いぶして蚊よけなどとしても使われた。
また、実は、なり味噌の材料などの食料として現在でも重宝される。わたしたち奄美の人々の生活になくてはならない植物だった。ほかに焼酎の原料、ナリ豆腐、澱粉は乾燥後お粥の米の補足や、だんごの材料、黒砂糖とたいた、こうせんは腹病の薬など、ナリは昔は、奄美の人々にとって、さつま芋につぐ重要な食糧だったことも忘れてはならない(名瀬市誌・民俗編)

つづく      この記事は、ソテツについて調べる その2からの続きです。

そして、次回は、アダンも育たない海岸の岩場の厳しい環境に生きる蘇鉄。
その葉陰にひっそりと寄り添うように生える、リリーさんと、そしてお菊さんを追う。(リリーはソテツが好きなのか?ということを検証する)

予告1 もしやあなたは「お菊さん」?

予告2 Torajiro meets lily-san


鎌田氏、別バンド「舞天」、あす初ライブ(神奈川・日吉)

2008年02月22日 | 音楽

このブログでおなじみのコメンテータ鎌田氏らの
バンド、トランキル・オーヴァーと同時並行して
このほど誕生した新バンド ブーテン「舞天」の初ライブが、
いよいよ、明日に迫っていることが22日、あきらかになった。

これは同氏が、自身の運営する?掲示板で先月28日、新バンド名の発表と同時に明らかにしたもので、
注目されていたライブの告知方法は、記者発表のかたちをとらず、関係者の間では、今後も従来通りの方法が踏襲されるものとの見方が強まっている。

同掲示板によると、ライブの日時等は次の通り

2月23日(土) PM6:30開場 PM7:00開演

日吉   R Trip Bar にて

住所   神奈川県横浜市港北区日吉2-6-6 日吉壱番館B1F

最寄駅 東京急行東横線 日吉駅 西口 浜銀通り徒歩2分

共演   ザ・グレート・ローリングフラワー 他

地図   http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E139.38.55.6N35.33.7.1&ZM=11

TEL    045-560-3439

入場料 1ドリンク付1500円(予定。これより高くなる事ぁございません)


ソテツ(蘇鉄)について調べる その2

2008年02月21日 | 植物

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その1からつづく

↑ ガジュマル

 ガジュマルに住むケンムン(妖怪)も根元に釘を打ち込めば、住めなくなる、といわれていたらしい。鉄を産しない奄美では、鉄の呪力は大きかった?

ソテツについても

「第一の肥は鉄なり。蘇鉄の進み あしくなりたる時、根にカナクソを埋め 或いは蘇鉄に鉄釘を打ち込めば、忽ち進み立つなり。」と、いうことは、よく知られている。(南島雑話(幕末のころの奄美のことを書いた本 10日の記事へ)

鉄で蘇(よみがえ)るから、蘇鉄

いつからソテツに蘇鉄の字を当てたかのは、わからない。奄美の文献には、『沖永良部島代官系図』(道の島代官記集成)の1682年に「蘇鉄杯モ植付有之」とある、という。

広辞苑には、「鉄蕉」 「鳳尾蕉」とある。

しかし、奄美方言では、スティチ、シチチ、ヒトゥチ などさまざまあるが、ヒトゥチの「ヒトゥ」には澱粉の意味があるので「澱粉の木」という説もある。こちらの方を支持したい、気持ちだ。

ソテツ 英名 Cycad

学名 Cycas revoluta Thunb

ギリシャ語の revoluta は、反対に巻くなどの意味がある。

英語のrevolution(革命)も「回転」という意味がある

つづく・・かな

080221cherry

↑ 奄美市名瀬 朝仁(あさに)に街から、満開の桜の木が見えたので、里山につづく道を登った。この道は、上のガジュマルなど、奄美らしい植物が、いろいろあって、海が見渡せる、お気に入りの道です。


ソテツ(蘇鉄)について調べる その1

2008年02月20日 | 植物

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↑ 奄美市名瀬 赤崎公園のソテツ 散髪?してもらい、すくすくと育っている。

葉っぱのケンキューをしている満男君(母は桜)は、これから何回かにわたって、

奄美を象徴する植物のひとつ、ソテツについて調べることにした。

日本では、沖縄から奄美、九州南端に自生するソテツ。

しかし、自生地でない、全国各地には巨大なソテツが点々としてあり、文化庁は10箇所を国の天然記念物に指定している。

その一覧と場所 

wikipedia
植物天然記念物一覧
裸子植物 ソテツ

google 日本三大ソテツ

そのルーツは、わからないが、10箇所のうち7箇所が寺院の境内、3箇所は旧家の屋敷だという。

関連記事
このブログ
2008年1月 5日 (土曜日)
『蘇鉄のすべて』 読了

つづく


奄美歴史年表 近世 その1 

2008年02月19日 | 歴史 民俗

これは勉強のための、書きかけ記事です。随時、書き加え、修正予定

記事中、リンク線のうしろの記号は

A=このブログの別の関連記事へのリンク
M=地図へのリンク
G=google 検索
W=wikipedia へのリンク(固定)
です。

奄美歴史年表 近世

1587 天正15 秀吉 島津征伐
1592 文禄01 文禄の役    紀州の亀井茲矩(これのりw)が、秀吉の許可を得て、琉球征服を図るが、中止を命じられる
1597 慶長02 慶長の役 (朝鮮出兵w)

1598 琉球王尚寧、明へ日本の出兵、秀吉の死去を通報
1600 慶長05  関ケ原の合戦

=====

1603 慶長08  家康 征夷大将軍となる 江戸幕府成立

1605 野国総官(のぐにそうかん)、福州から甘藷(かんしょ サツマイモ)をもたらす(『沖縄県の歴史』

1606 慶長11 家康 薩摩に対し琉球征討許可 島津家久(忠恒)w=初代薩摩藩主

1609慶長14 2-21島津義弘、尚寧に対して最後通牒、「日明貿易の復活を斡旋すれば出兵を中止する」 

 琉球征討薩軍、奄美大島北部笠利町津代M(つしろ)に来る。
奄美各地で戦闘 

樺山久高 平田増宗 以下総勢3千余 船舶百余隻の編成 (3/4七島(トカラ諸島M)船頭の先導 で鹿児島山川Mを発す 3/7笠利着、伊知地季安 著 南聘紀考)

大和浜 3/15宇検焼内 16屋鈍(やどん)阿室(あむろ)平田(へだ)佐念(さねん)長柄(ながら)17宇検 久志(くし)生勝(いけがち)芦検(あしけん)西古見 嘉鉄(かてつ)
3/20徳之島 3/25沖縄着 3/27今帰仁(なきじん)城陥落

日にちは参考程度

琉球降伏 薩軍、琉球王尚寧(しょうねい)を伴って凱旋(4/16那覇港出帆)

徳川家康、島津家久に琉球をあたえ、仕置きを命じる。

1610 直川智(すなお かわち)、中国からサトウキビ苗を持ち帰り、大和浜の西浜に試植(奄美史談)

1611 慶長16 奄美5島(大島、喜界、徳之島、沖永良部、与論)が琉球王国から分離され薩摩藩の直轄領になる。

1613 慶長18 大島奉行着任 仮屋 笠利 大熊M

1615 元和元年 大阪夏の陣(豊臣氏亡ぶ)

1623 元和9年 大嶋置目之条々(おきめのじょうじょう)発布

(道之島統治の基本法、全34条)島津久元

大親役(ふうややく=琉球から遣わされた島の最高役人)廃止
「かいせん(楷船=大型貿易船)作るまじきこと」
「諸役人琉球にいたり、はちまきのゆるしを取ること停止なすべきにつき、嶋中のもの共百姓にいたるまでさうり(草履)はくべきこと」
「数年百姓未進のこと」など

元和検地「元和道之島竿」 5島計 4万3200石7斗6升?

薩摩藩は奄美諸島を直轄領とした後も、近世(江戸時代)を通じて、対外的には奄美を琉球国の一部としてあつかう。奄美に対し、当初は馴致策をとり、行政区画なども琉属時代(1266年からとする「中山世鑑」↓の記述は信用できず、はっきりした年代はわかっていない)のものをそのまま踏襲。しかし藩は奄美の人々に対し、琉球とともに日本化(薩摩化)を禁止する一方で、琉球化も禁じられ、「奄美は藩領にして藩領にあらず」という矛盾した観念は、その後、薩摩、奄美相互に植えつけられ、このことは長い歴史を通して奄美の人々の精神形成に大きな影響をおよぼしていくことになった、といわれている。

1623 儀間真常(ぎまじんじょう=琉球の五偉人の一人で、琉球王朝の産業の基礎を築いた人物)福建で製糖法を学ぶ。(儀間村の人を学ばせ、はじめて黒糖を製造(沖縄県の歴史)

直 川智の孫の嘉和知(かわち)によって、沖縄から奄美に伝えられたのは元禄((1688~1704)の始めごろ

1637 島原の乱 

仮屋(藩から派遣された代官(奉行)のいるところ)、大熊から赤木名へ

1638?9 仮屋、赤木名からふたたび大熊に移転

大島奉行を代官と改める

1644 明亡び、清中国支配

1647 ポルトガル船長崎来航

1649 慶安11 仮屋 大熊から赤木名へ移す

1650 向象賢(しょうしょうけん 羽地朝秀 はねじちょうしゅう)、琉球王国の初めての正史「中山世鑑」(ちゅうざんせいかんw)を著わす。

1662 琉球砂糖奉行が置かれる 仮屋名瀬移転?

1670 仮屋、赤木名から大熊に移転 このころ大熊に観音寺建つ

1672 英船長崎来航につき、島に海岸線警戒の通達出る

1673 唐船漂着、藩に護送

1675 代官仮屋大熊から赤木名金久村へ。観音堂も移る

観音寺wは、おもに鹿児島から来た島詰役人のためのもので、ノロや、ユタを信仰する一般の島の人たちへの精神的影響は、ほとんどみられなかった。(ことばや習俗の中に若干みられる、という)

1690 元禄03 嘉和知(かわち直川智の曾孫ひ孫)琉球でキビ作植え付け、製糖法を学んで島でキビ試植(1698?黒糖120斤を得る)する 1斤は600グラム(明治時代)
このころ沖永良部に代官が置かれる。与論も管轄

藩主 2代 光久wから綱貴w

1694 4島の与人(よひと 島役人)毎年上国制

1693 元禄06 藩に、系図、古文書を取り上げられる
喜界島に代官所を置く

1696 漂着唐船の送り先を長崎から琉球へ変更する通達

1698 元禄11 大島の船八丈島へ漂着、長さ9尋(大人が両手を一杯に広げた長さ)、幅8尺(約30~33cm)

1701 元禄14 赤穂浪士討ち入り

このころ、大島代官、ハゼノキを毎年一人5本づつ植えさせる。

(リュウキュウハゼ=ロウソクの原料、果実は別名薩摩の実とも呼ばれる。奄美自生のハゼは本土のものより実が大きく、薩摩が持ち帰ったハゼは、北上して
後に北九州、中国地方の大名の専売品になった。
そのうち幕末の西南の雄藩長州三白(紙、塩、蝋)Gに薩州一黒」といわれる蝋の原料は、奄美から北上したリュウハゼで、薩州の一黒は、もちろん奄美の黒糖である、ということは、あまり知られているわけではない)

2月19日、ここまで、以下つづく

1701 中山世譜(ちゅうざんせいふw) 著す 琉球 蔡 鐸(さい たく 和名:志多伯天将(したはく てんしょう) 

中山世譜は、全ページweb 上で見ることができる。

伊波普猷(いはふゆう)文庫 Display page images of digitized materials(Iha Fuyu Bunko) のうちの 中山世譜

↑これは、琉球大学附属図書館 University of Ryukyus Library のページ

1706 宝永3 系図文書差出命令 与人の毎年上国制廃止(以後はご祝儀の際のみ)

1708 喜界島島民、中国漂着  枦(ハゼ)山を切り開きキビ畑にすることを禁ず

(当時、枦10万本 以後、枦を禁じキビ奨励)

1709 宝永6 琉球台風飢饉 大島から藩米借りる。餓死3196人
      天然痘流行
1710 藩債金34万5千両に達す
1711 薩藩士田代清方、有盛神社Mに石仏寄進
1712 正徳2 田畑佐文仁A1 開墾事業習得のため上国
1713 大島の砂糖買い入れ113万斤
   琉球国由来記G成る
1719 享保4 幕府新田開発奨励
1720 与人・横目の金かんざし使用禁止
   大島代官、島役人以外の紬着用を禁止
1724 幕府倹約令
1726 享保11 藩主 吉貴wから継豊w
道之島五島検地 
1727 人口12万9642人(沖縄)
   大島人口2万3605人
   田畑佐文仁代々外城衆中格となる

1728 享保13 大島規模帳、物定帳、用夫改規模帳、郡奉行物定規模帳発布

買い入れ糖一斤につき三合五勺 これに対し大阪市場では、砂糖一斤の値は、米一升から一升五合はあった。

1733 元文1 大島度連方の文仁演(ぶにえん)藩庁へ越訴(民間の米の貸借に代官が不正介入 藩庁厳重処分 代官本郷伝太夫徳之島遠島 以後島役人総入れ替え 琉球系門閥家の意識、薩摩追従に変わり、ユカリッチュとしての影衰え、新興勢力の衆達(しゅうた)層が台頭)

1742 寛保2 海岸への寄りもの類取締り令 島民より武具取り上げ(喜界島代官) 唐通事設置命令

1745 延享2 大島砂糖買い上げ350万斤 貢租を換糖上納、1斤につき米3合6勺替

1748 寛延1 喜界島花良治 中里 朝戸村銀抗試掘

藩主 6代 宗信(むねのぶw) 22歳で死去

1752 宝暦2 藩主 7代 重年(しげとしw) 27歳で死去

1754 宝暦4 薩摩藩木曽川治水工事に着手、翌年完工

宝暦治水事件w 幕命による、岐阜 木曽川、長良川、揖斐川Mの分流工事(幕府による薩摩藩財政弱体化策)。犠牲者多数 藩負債激増  総奉行、平田靱負(ひらたゆきえ)w

幕末の薩摩藩による討幕運動の大きな伏線となる また、以後藩財政建て直しに奄美の砂糖収奪強化が図られる

1755 宝暦05 凶年、餓死者三千余
1756 重豪(しげひでw)、8代藩主となる 89歳で死去 学問 「蘭癖」大名 放漫財政 浪費家 11代斉彬(なりあきらw)の曽祖父(ひいじいさん)、家督をゆずったあとも実権をもちつづける
奄美に多数の遠島人を出した1809年の近思録崩れ事件w、
のちに、奄美にかかわる財政改革を行った下級武士調所広郷(ずしょひろさとw)の重用など

1758 宝暦09 大島砂糖樽取調べ始まる。 徳之島から大島への逃散続出。

1766 明和3 徳之島定式糖73万斤

1767 大島白糖製造始まる

1770 彗星現れる(徳之島院家前録帳)

1771 カムチャツカから脱走のイスパニア人大島へ寄航 伊須浦へオランダ船漂着

17772 安永01 宗門手札改め

1777  安永6 大島、喜界、徳之島砂糖総買い入れ(第一次砂糖総買い入れ制=租税糖以外の余計糖の他への売買を禁じ、すべて藩で買い上げ、その代価として百姓の日常必需品はを藩から支給する二重搾取)実施

砂糖不作、大飢饉 大津波 笠利間切で、たばこ栽培、他にも広まる。

御徒(かち)目付得能佐平次大島へ着く(島状視察)、その著書『丁酉(ひのととり)大島紀行』に、農村の「家々の労(つかれ)言うもさらなり。腰打ちかけて足を休むる家なく、渇きさえ忍び兼ねるほどなり』

1778 諸禁令、諸規則数十カ条通達 ノロが渡琉し免許を受けるのを禁止 得能佐平次、引合米帳を焼き捨てる(徳政令?)

1779 得能佐平次再下島 遊日を禁止

遊日(島に古くから伝わる年中行事で仕事を休む日)は、年間35日ほど。

薩摩藩は、島の貧しさの原因をを、藩の搾取のはなはだしさにあるとはせす、島民の怠惰にあるとした。薩摩藩は奄美の砂糖に寄りかかるあまり、近世300年を通じ、自領の農業地盤整備への社会資本の投入を怠った。粗放農業といわれる砂糖キビ単作の強制を幕末近くまでまぬかれた沖永良部島を除き、奄美の農民は、水田の土づくりなどによって培われた日本人の勤勉な農民的体質の形成が不十分なまま近代をむかえなければならなかった。島民の体験は封建治下の植民地支配という世界史の中でも唯一の実例である。そのj傷跡は今でも完全に消えているわけではない。しかし歴史とは皮肉なもので、過酷な砂糖専売制度の維持は、一方で藩の手先として末端の多数の島役人たちの間に、他の薩摩藩領のどの地方にも劣らない読み書きそろばんなどの初等教育の普及をもたらした。このことは明治以後、奄美から多数のすぐれた人材を排出し、人材の島と呼ばれる基礎となった。これらの島民の教育にあたった薩摩藩から送り込まれた多数の知識人遠島人の果たした役割も見逃せない。

砂糖専売制による、いわゆる黒糖地獄は、このあとのことであり、それは維新後も見られ、悲惨を極めるのであるが、その歴史の進み行きは、奄美人対薩摩人という単純な図式だけでは決してとらえることは出来ない、であろう(後述)。

1780(安永9) 徳之島から大島への逃散者200人を連れ戻す。払棄令

1781(天明01)国淳切腹事件
   砂糖豊作 カンバツ 台風5度 大凶年
   天明7年まで全国的大飢饉 琉球や国許から米取り寄せる

1785(天明5)田畑氏、藩命により龍の一字姓へ
   徳之島白糖250』斤定式

1786 アカヒゲg 15羽献上命令

1787(天明07) 島津 斉宣(しまづ なりのぶw)第9代藩主に。島津氏第26代当主、天璋院(篤姫 てんしょういんあつひめg)の祖父

第一次砂糖惣買入れ制解除

1789 (寛政1)派遣役人3人発狂 天然痘流行
   大島に白糖試作命令(1893製造中止)

1795 (寛政7)龍郷村沖に無人の異国船

1796 大島砂糖買い入れ460万斤

1797 初めての津口横目36人

1799 大島砂糖460万斤定式となる
   吟味役、蔵方目付、百姓御救のため来島、大島巡視

1800(寛政12)仮屋を赤木名から伊津部へ移す。

1801(享和元年) 初めて白糖係役人を置き、白糖製造
   アカヒゲ、尺八鳩の定式上納令
   大島砂糖買い入れ480万斤

1804(文化元年)大島砂糖買い入れ500万斤

1805 大島砂糖買い入れ550万斤
   大島代官 本田孫九郎着任
   白糖方来島 以後廃止

1806 大島砂糖買い入れ600万斤
   本田孫九郎 大島要文集編集 大島私孝脱稿
   八月踊り禁止すべきでない旨上申する

1807(文化4)大島砂糖買い入れ650万斤
   樺山久言家老、藩政改革断行-近思録(朱子学の教本党   秩父季保

1806 子当済無人島探検
   
1808 「近思録崩(きんしろくくず)れ」wの流人 大島へ6人 喜界4人 徳之島4人 沖永良部島1人
   「文化朋党事件」「秩父崩れ」とも言われる
   島津重豪の放漫財政 藩財政悪化

   黍横目有度製糖用鉄綸車発明

1809(文化6)島津斉興(なりおきw) 第10代薩摩藩主
       実権は祖父の島津重豪w(1833年没まで)

1816(文化13)赤木名儀志直乱心、娘のバアカナ放火犯で処刑 
   
   徳之島母間(ぼま)騒動g
   前年からの疱瘡流行で死者多数、収穫激減。
   出米賦課についての異議を申したて囚人となってしまった掟役を奪還するため村民63        0人余が代官所を襲撃、藩庁へ直訴(薩摩藩最大の一揆

1818(文政1)三島(大島・喜界・徳之島、山川で砂糖総買い入れ

1819 沖永良部島にはじめて砂糖キビ植える

1827(文政10)調所広郷(ずしょひろさとw)財政改革命じられる。財政・農政・軍政

「御改革第一の根本は砂糖政策」

1830(天保1)第二次砂糖総買い入れ制施行 

日本全国 お陰参りg 流行

大熊の仮屋を伊津部(名瀬)へ移す

1831 大島人口3万6千375人 徳之島1万8千963人 喜界9千272 沖永良部9千598 与論3千180

1830年~1839年までの薩摩藩全体の年平均大阪出荷額は「砂糖23万5千両、米6千両、菜種2千両」

1839(天保10)羽書制度はじまる。

砂糖密売を防ぐため貨幣の流通を禁止。羽書とは、租税として上納した残りの余計糖のうち、各人が鹿児島へ注文した日用品に対する砂糖量を差し引いた残りの手持ち砂糖に対して、役所が各人に振り出した通用手形。(羽書の貸し借りは公然と行われたため、家人の発生など島民の二極分化を急速にうながす要因になった)

1840 大阪砂糖価格下落はじまる
 
  薩摩藩財政改革成功

琉球・奄美へ異国船来航、漂着つづく

1849(嘉永2)大島産糖約700万斤 喜界200万、徳之   島260万 琉球450万

   幕府諸藩に海防強化を命令
  
   薩藩 高崎崩れ=嘉永朋党事件=お由羅騒動wで道之島へ遠島8人 名越左源太(なごやさげんたA大島小宿mに着く

   大島払棄令

1850 この年から翌年まで凶年

1851(嘉永4)島津斉彬(なりあきらw)薩摩藩11代(島津28代)藩主へ

   白糖75万斤買い重ね  凶年 大飢饉

1853 (嘉永6)ペリーw琉球に来る。後浦賀へ向かう。

   沖永良部砂糖上納となる

1854 (嘉永7 安政1)神奈川で日米和親条約w締結後、帰途琉米条約

異国船御守備方 藩士数名来島 宇検

1855 龍家と牧家の争い 竜郷阿丹崎

異国軍艦三隻住用入港

琉仏修好条約締結

1857 (安政4) 与論島さとうきび植え付けはじめる

1858 島津忠義g 12代目藩主となる

日米修好通商条約g

安政の大獄gはじまる  井伊直弼

1859 (安政6)西郷隆盛g、竜郷mに潜居

1862 (文久2) 2月 西郷、大島から帰藩

7月 西郷、徳之島に流配 閏8月 沖永良部へ流配

生麦事件g=現・横浜市鶴見区生麦付近で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件

1863(文久3)薩英戦争g 

重野安譯(しげのやすつぐg)大島より帰藩

1864(元治元) 犬田布騒動g 記念碑のある徳之島犬田布(いんたぶ)岬map

無実の罪(砂糖密売)で拷問を受ける農民救出のため、犬田布農民150余名が、役所を包囲、役人を追い払い戦いをいどむ。

西郷、沖永良部より、蒸気船で帰藩

桂久武g 大島より帰藩

1865(慶応元)大島に白糖製造機械4組 英人2名藩役人120人余来島

1866 琉球王封位 、道之島か貢物

1867 (王政復古の大号令g)

1868 (明治元) (五箇条御誓文発布)


冬から一転初夏?、青い海戻る奄美大島

2008年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム

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↑ 奄美大島北部 笠利町太平洋側 神の子 付近の海岸

自慢の青い海と空が戻ってまいりました。

大陸からの強い寒気のふきだしに伴う筋の雲が、
広く日本列島をおおっていましたが、

西高東低の、気圧配置もいくらか緩み
奄美大島の日中の海岸は、
いきなり初夏を思わせる陽気になりました。

風もよわく、上着で海岸を歩くと、すこし汗ばむほどでした。

今日の名瀬
11.8 ~ 16.3 ℃

白い砂浜には、陸地から、いく筋もの、軍配昼顔のつるが、
最前線に向かって延びています。

おだやかに打ち寄せる波に足元をとられ、空を見上げれば、
旋回するジェット機のつばさが、
雲の隙間の太陽の光を反射させ、
はるか彼方へと、音もなく消えていきます。

こうして、永遠の宇宙の営みを繰り返す、波の音に耳をすませば、竜宮のものがたりも思い出される、2月の浜辺のなんと舌なことでありましょうか。

立つんや!Joe!

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奄美大島 山 ヒカゲヘゴ スモモ、タンカン クワズイモ movie

2008年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム

今年は、ここ2~3年と比べ、
ハゼの木の紅葉が、ほとんど目立たない
奄美大島の山です。

毎日、きのうと同じような天気がつづいています。

今日の名瀬
11.8 ~14.3 ℃

きのうの名瀬
11.8 ~13.3 ℃

夜中に冷えこんで眠られないとか
明けがた寒くて起きられないとか
と、いうことは、あまり、ありません。


恒例、野百合の観察 1 

2008年02月16日 | 植物

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さくらが満開になりだしたころ、野百合が、芽が出しているのに気づいた。今日から開花までときどき観察開始です。

思えば、このブログを始めた2004年4月は、お客様から球根でいただいた、エラブ百合の観察から始めたのだった。それは、今年も芽を出した。

ユリといえば、寅さんファンにとっては、リリーさん。

思えば、去年の今頃、YouTbe 最初の投稿は、岩場のユリの観察だった。

去年の観察によると、春場所、里山の新入幕が見え出した3月18日、中日ごろ、つぼみがふくらんだのだった。

東京のAさんは、カケロマに行く前に、寅さんの勉強しているのかなあ。奄美には、絶滅危惧種のめずらしいウケユリというのもあるよ。そのために、ツアーが組まれるほどさ。ウケユリツアーgoogle。

google 検索 ウケユリ 奄美

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奄美名瀬の街で見かけた、映画館のポスター

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映画 『母べぇ』 現在上映中 1/26から6週上映予定とある。

映画は奄美が舞台ではないが、奄美の海岸で去年ロケがあった。

↑その、ロケ開始直前の海岸の様子。2007年05月03日

吉永小百合さん、登場直前

浜辺には、アダンの林の中に、野ユリ(テッポウユリ?)が咲いていた。


寒い、寒い 8.4℃ and Youtube 2年目

2008年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム

本土からのお客さんも、「奄美も寒いですね」という一日になった。

今日の名瀬 8.4℃~12.5℃  明日はすこし上がる予報。

沖縄 石垣島でも、ここのところ寒いらしい。

寒い、寒い、寒い! 最低気温14度台続く

日本最南端の新聞社:八重山毎日新聞オンライン
2008 2月13日

↑ 寒い、を3回言うところが、ヒジョーに、こお、実感がありますな。なんとなく南の人のあたたかさと、いいますか、ゆとりが感じられます。2回だと、あれです。

北国のひとも、3回いうんでしょうか。

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YouTbe に
去年2月5日 最初の投稿をしてから、一年が過ぎた。

今日は200本目の投稿となった。↑

各動画には、それぞれにカウンターがついていて
自動的にランキングを見ることができる。
カウンターの仕組みはわからないのですが、
ある一定の傾向を読むことはできそうだ。

===

              赤字は2007年10月 7日 調べ(4か月前)

アップロードした動画:    199本161  =138

動画再生回数:      140,919回76,835 回=64,084

一本平均の再生回数:     708回477 回=231

200本中、もっとも人気?のあった動画は、

Tranquil water AmamiOshima a Meteorite Crater? 
赤尾木海岸隕石クレーター

03:37
追加日: 9 か月前  2007年05月09日
再生回数: 30,742


潮が引いて アオサ 寒さこれまで!か

2008年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム

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今日は、テル(背負いカゴ)を背負って、アオサをとる、おばあちゃんの姿は見なかった。

きょう11日(月)の名瀬
10.4 ~ 17.3 ℃

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生自然のものが、おいしそうに思える今日このごろです。シーレタスと呼ぶにふさわしいアオサの接写。

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海岸は風よわく、あつくもなく寒くもなく、リーフウォーキングにはちょうどよい天気ですが、曇り勝ちで、海の青さはいまいち。

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