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奄美歴史年表 近世
1587 天正15 秀吉 島津征伐
1592 文禄01 文禄の役 紀州の亀井茲矩(これのりw)が、秀吉の許可を得て、琉球征服を図るが、中止を命じられる
1597 慶長02 慶長の役 (朝鮮出兵w)
1598 琉球王尚寧、明へ日本の出兵、秀吉の死去を通報
1600 慶長05 関ケ原の合戦
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1603 慶長08 家康 征夷大将軍となる 江戸幕府成立
1605 野国総官(のぐにそうかん)、福州から甘藷(かんしょ サツマイモ)をもたらす(『沖縄県の歴史』
1606 慶長11 家康 薩摩に対し琉球征討許可 島津家久(忠恒)w=初代薩摩藩主
1609慶長14 2-21島津義弘、尚寧に対して最後通牒、「日明貿易の復活を斡旋すれば出兵を中止する」
琉球征討薩軍、奄美大島北部笠利町津代M(つしろ)に来る。
奄美各地で戦闘
樺山久高 平田増宗 以下総勢3千余 船舶百余隻の編成 (3/4七島(トカラ諸島M)船頭の先導 で鹿児島山川Mを発す 3/7笠利着、伊知地季安 著 南聘紀考)
大和浜 3/15宇検焼内 16屋鈍(やどん)阿室(あむろ)平田(へだ)佐念(さねん)長柄(ながら)17宇検 久志(くし)生勝(いけがち)芦検(あしけん)西古見 嘉鉄(かてつ)
3/20徳之島 3/25沖縄着 3/27今帰仁(なきじん)城陥落
日にちは参考程度
琉球降伏 薩軍、琉球王尚寧(しょうねい)を伴って凱旋(4/16那覇港出帆)
徳川家康、島津家久に琉球をあたえ、仕置きを命じる。
1610 直川智(すなお かわち)、中国からサトウキビ苗を持ち帰り、大和浜の西浜に試植(奄美史談)
1611 慶長16 奄美5島(大島、喜界、徳之島、沖永良部、与論)が琉球王国から分離され薩摩藩の直轄領になる。
1613 慶長18 大島奉行着任 仮屋 笠利 大熊M
1615 元和元年 大阪夏の陣(豊臣氏亡ぶ)
1623 元和9年 大嶋置目之条々(おきめのじょうじょう)発布
(道之島統治の基本法、全34条)島津久元
大親役(ふうややく=琉球から遣わされた島の最高役人)廃止
「かいせん(楷船=大型貿易船)作るまじきこと」
「諸役人琉球にいたり、はちまきのゆるしを取ること停止なすべきにつき、嶋中のもの共百姓にいたるまでさうり(草履)はくべきこと」
「数年百姓未進のこと」など
元和検地「元和道之島竿」 5島計 4万3200石7斗6升?
薩摩藩は奄美諸島を直轄領とした後も、近世(江戸時代)を通じて、対外的には奄美を琉球国の一部としてあつかう。奄美に対し、当初は馴致策をとり、行政区画なども琉属時代(1266年からとする「中山世鑑」↓の記述は信用できず、はっきりした年代はわかっていない)のものをそのまま踏襲。しかし藩は奄美の人々に対し、琉球とともに日本化(薩摩化)を禁止する一方で、琉球化も禁じられ、「奄美は藩領にして藩領にあらず」という矛盾した観念は、その後、薩摩、奄美相互に植えつけられ、このことは長い歴史を通して奄美の人々の精神形成に大きな影響をおよぼしていくことになった、といわれている。
1623 儀間真常(ぎまじんじょう=琉球の五偉人の一人で、琉球王朝の産業の基礎を築いた人物)福建で製糖法を学ぶ。(儀間村の人を学ばせ、はじめて黒糖を製造(沖縄県の歴史)
直 川智の孫の嘉和知(かわち)によって、沖縄から奄美に伝えられたのは元禄((1688~1704)の始めごろ
1637 島原の乱
仮屋(藩から派遣された代官(奉行)のいるところ)、大熊から赤木名へ
1638?9 仮屋、赤木名からふたたび大熊に移転
大島奉行を代官と改める
1644 明亡び、清中国支配
1647 ポルトガル船長崎来航
1649 慶安11 仮屋 大熊から赤木名へ移す
1650 向象賢(しょうしょうけん 羽地朝秀 はねじちょうしゅう)、琉球王国の初めての正史「中山世鑑」(ちゅうざんせいかんw)を著わす。
1662 琉球砂糖奉行が置かれる 仮屋名瀬移転?
1670 仮屋、赤木名から大熊に移転 このころ大熊に観音寺建つ
1672 英船長崎来航につき、島に海岸線警戒の通達出る
1673 唐船漂着、藩に護送
1675 代官仮屋大熊から赤木名金久村へ。観音堂も移る
観音寺wは、おもに鹿児島から来た島詰役人のためのもので、ノロや、ユタを信仰する一般の島の人たちへの精神的影響は、ほとんどみられなかった。(ことばや習俗の中に若干みられる、という)
1690 元禄03 嘉和知(かわち直川智の曾孫ひ孫)琉球でキビ作植え付け、製糖法を学んで島でキビ試植(1698?黒糖120斤を得る)する 1斤は600グラム(明治時代)
このころ沖永良部に代官が置かれる。与論も管轄
藩主 2代 光久wから綱貴wへ
1694 4島の与人(よひと 島役人)毎年上国制
1693 元禄06 藩に、系図、古文書を取り上げられる
喜界島に代官所を置く
1696 漂着唐船の送り先を長崎から琉球へ変更する通達
1698 元禄11 大島の船八丈島へ漂着、長さ9尋(大人が両手を一杯に広げた長さ)、幅8尺(約30~33cm)
1701 元禄14 赤穂浪士討ち入り
このころ、大島代官、ハゼノキを毎年一人5本づつ植えさせる。
(リュウキュウハゼ=ロウソクの原料、果実は別名薩摩の実とも呼ばれる。奄美自生のハゼは本土のものより実が大きく、薩摩が持ち帰ったハゼは、北上して
後に北九州、中国地方の大名の専売品になった。
そのうち幕末の西南の雄藩「長州三白(紙、塩、蝋)Gに薩州一黒」といわれる蝋の原料は、奄美から北上したリュウハゼで、薩州の一黒は、もちろん奄美の黒糖である、ということは、あまり知られているわけではない)
2月19日、ここまで、以下つづく
1701 中山世譜(ちゅうざんせいふw) 著す 琉球 蔡 鐸(さい たく 和名:志多伯天将(したはく てんしょう)
中山世譜は、全ページweb 上で見ることができる。
伊波普猷(いはふゆう)文庫 Display page images of digitized materials(Iha Fuyu Bunko) のうちの 中山世譜
↑これは、琉球大学附属図書館 University of Ryukyus Library のページ
1706 宝永3 系図文書差出命令 与人の毎年上国制廃止(以後はご祝儀の際のみ)
1708 喜界島島民、中国漂着 枦(ハゼ)山を切り開きキビ畑にすることを禁ず
(当時、枦10万本 以後、枦を禁じキビ奨励)
1709 宝永6 琉球台風飢饉 大島から藩米借りる。餓死3196人
天然痘流行
1710 藩債金34万5千両に達す
1711 薩藩士田代清方、有盛神社Mに石仏寄進
1712 正徳2 田畑佐文仁A1 開墾事業習得のため上国
1713 大島の砂糖買い入れ113万斤
琉球国由来記G成る
1719 享保4 幕府新田開発奨励
1720 与人・横目の金かんざし使用禁止
大島代官、島役人以外の紬着用を禁止
1724 幕府倹約令
1726 享保11 藩主 吉貴wから継豊wへ
道之島五島検地
1727 人口12万9642人(沖縄)
大島人口2万3605人
田畑佐文仁代々外城衆中格となる
1728 享保13 大島規模帳、物定帳、用夫改規模帳、郡奉行物定規模帳発布
買い入れ糖一斤につき三合五勺 これに対し大阪市場では、砂糖一斤の値は、米一升から一升五合はあった。
1733 元文1 大島度連方の文仁演(ぶにえん)藩庁へ越訴(民間の米の貸借に代官が不正介入 藩庁厳重処分 代官本郷伝太夫徳之島遠島 以後島役人総入れ替え 琉球系門閥家の意識、薩摩追従に変わり、ユカリッチュとしての影衰え、新興勢力の衆達(しゅうた)層が台頭)
1742 寛保2 海岸への寄りもの類取締り令 島民より武具取り上げ(喜界島代官) 唐通事設置命令
1745 延享2 大島砂糖買い上げ350万斤 貢租を換糖上納、1斤につき米3合6勺替
1748 寛延1 喜界島花良治 中里 朝戸村銀抗試掘
藩主 6代 宗信(むねのぶw) 22歳で死去
1752 宝暦2 藩主 7代 重年(しげとしw) 27歳で死去
1754 宝暦4 薩摩藩木曽川治水工事に着手、翌年完工
宝暦治水事件w 幕命による、岐阜 木曽川、長良川、揖斐川Mの分流工事(幕府による薩摩藩財政弱体化策)。犠牲者多数 藩負債激増 総奉行、平田靱負(ひらたゆきえ)w
幕末の薩摩藩による討幕運動の大きな伏線となる また、以後藩財政建て直しに奄美の砂糖収奪強化が図られる
1755 宝暦05 凶年、餓死者三千余
1756 重豪(しげひでw)、8代藩主となる 89歳で死去 学問 「蘭癖」大名 放漫財政 浪費家 11代斉彬(なりあきらw)の曽祖父(ひいじいさん)、家督をゆずったあとも実権をもちつづける
奄美に多数の遠島人を出した1809年の近思録崩れ事件w、
のちに、奄美にかかわる財政改革を行った下級武士調所広郷(ずしょひろさとw)の重用など
1758 宝暦09 大島砂糖樽取調べ始まる。 徳之島から大島への逃散続出。
1766 明和3 徳之島定式糖73万斤
1767 大島白糖製造始まる
1770 彗星現れる(徳之島院家前録帳)
1771 カムチャツカから脱走のイスパニア人大島へ寄航 伊須浦へオランダ船漂着
17772 安永01 宗門手札改め
1777 安永6 大島、喜界、徳之島砂糖総買い入れ(第一次砂糖総買い入れ制=租税糖以外の余計糖の他への売買を禁じ、すべて藩で買い上げ、その代価として百姓の日常必需品はを藩から支給する二重搾取)実施)
砂糖不作、大飢饉 大津波 笠利間切で、たばこ栽培、他にも広まる。
御徒(かち)目付得能佐平次大島へ着く(島状視察)、その著書『丁酉(ひのととり)大島紀行』に、農村の「家々の労(つかれ)言うもさらなり。腰打ちかけて足を休むる家なく、渇きさえ忍び兼ねるほどなり』
1778 諸禁令、諸規則数十カ条通達 ノロが渡琉し免許を受けるのを禁止 得能佐平次、引合米帳を焼き捨てる(徳政令?)
1779 得能佐平次再下島 遊日を禁止
遊日(島に古くから伝わる年中行事で仕事を休む日)は、年間35日ほど。
薩摩藩は、島の貧しさの原因をを、藩の搾取のはなはだしさにあるとはせす、島民の怠惰にあるとした。薩摩藩は奄美の砂糖に寄りかかるあまり、近世300年を通じ、自領の農業地盤整備への社会資本の投入を怠った。粗放農業といわれる砂糖キビ単作の強制を幕末近くまでまぬかれた沖永良部島を除き、奄美の農民は、水田の土づくりなどによって培われた日本人の勤勉な農民的体質の形成が不十分なまま近代をむかえなければならなかった。島民の体験は封建治下の植民地支配という世界史の中でも唯一の実例である。そのj傷跡は今でも完全に消えているわけではない。しかし歴史とは皮肉なもので、過酷な砂糖専売制度の維持は、一方で藩の手先として末端の多数の島役人たちの間に、他の薩摩藩領のどの地方にも劣らない読み書きそろばんなどの初等教育の普及をもたらした。このことは明治以後、奄美から多数のすぐれた人材を排出し、人材の島と呼ばれる基礎となった。これらの島民の教育にあたった薩摩藩から送り込まれた多数の知識人遠島人の果たした役割も見逃せない。
砂糖専売制による、いわゆる黒糖地獄は、このあとのことであり、それは維新後も見られ、悲惨を極めるのであるが、その歴史の進み行きは、奄美人対薩摩人という単純な図式だけでは決してとらえることは出来ない、であろう(後述)。
1780(安永9) 徳之島から大島への逃散者200人を連れ戻す。払棄令
1781(天明01)国淳切腹事件
砂糖豊作 カンバツ 台風5度 大凶年
天明7年まで全国的大飢饉 琉球や国許から米取り寄せる
1785(天明5)田畑氏、藩命により龍の一字姓へ
徳之島白糖250』斤定式
1786 アカヒゲg 15羽献上命令
1787(天明07) 島津 斉宣(しまづ なりのぶw)第9代藩主に。島津氏第26代当主、天璋院(篤姫 てんしょういんあつひめg)の祖父
第一次砂糖惣買入れ制解除
1789 (寛政1)派遣役人3人発狂 天然痘流行
大島に白糖試作命令(1893製造中止)
1795 (寛政7)龍郷村沖に無人の異国船
1796 大島砂糖買い入れ460万斤
1797 初めての津口横目36人
1799 大島砂糖460万斤定式となる
吟味役、蔵方目付、百姓御救のため来島、大島巡視
1800(寛政12)仮屋を赤木名から伊津部へ移す。
1801(享和元年) 初めて白糖係役人を置き、白糖製造
アカヒゲ、尺八鳩の定式上納令
大島砂糖買い入れ480万斤
1804(文化元年)大島砂糖買い入れ500万斤
1805 大島砂糖買い入れ550万斤
大島代官 本田孫九郎着任
白糖方来島 以後廃止
1806 大島砂糖買い入れ600万斤
本田孫九郎 大島要文集編集 大島私孝脱稿
八月踊り禁止すべきでない旨上申する
1807(文化4)大島砂糖買い入れ650万斤
樺山久言家老、藩政改革断行-近思録(朱子学の教本党 秩父季保
1806 子当済無人島探検
1808 「近思録崩(きんしろくくず)れ」wの流人 大島へ6人 喜界4人 徳之島4人 沖永良部島1人
「文化朋党事件」「秩父崩れ」とも言われる
島津重豪の放漫財政 藩財政悪化
黍横目有度製糖用鉄綸車発明
1809(文化6)島津斉興(なりおきw) 第10代薩摩藩主
実権は祖父の島津重豪w(1833年没まで)
1816(文化13)赤木名儀志直乱心、娘のバアカナ放火犯で処刑
徳之島母間(ぼま)騒動g
前年からの疱瘡流行で死者多数、収穫激減。
出米賦課についての異議を申したて囚人となってしまった掟役を奪還するため村民63 0人余が代官所を襲撃、藩庁へ直訴(薩摩藩最大の一揆)
1818(文政1)三島(大島・喜界・徳之島、山川で砂糖総買い入れ
1819 沖永良部島にはじめて砂糖キビ植える
1827(文政10)調所広郷(ずしょひろさとw)財政改革命じられる。財政・農政・軍政
「御改革第一の根本は砂糖政策」
1830(天保1)第二次砂糖総買い入れ制施行
日本全国 お陰参りg 流行
大熊の仮屋を伊津部(名瀬)へ移す
1831 大島人口3万6千375人 徳之島1万8千963人 喜界9千272 沖永良部9千598 与論3千180
1830年~1839年までの薩摩藩全体の年平均大阪出荷額は「砂糖23万5千両、米6千両、菜種2千両」
1839(天保10)羽書制度はじまる。
砂糖密売を防ぐため貨幣の流通を禁止。羽書とは、租税として上納した残りの余計糖のうち、各人が鹿児島へ注文した日用品に対する砂糖量を差し引いた残りの手持ち砂糖に対して、役所が各人に振り出した通用手形。(羽書の貸し借りは公然と行われたため、家人の発生など島民の二極分化を急速にうながす要因になった)
1840 大阪砂糖価格下落はじまる
薩摩藩財政改革成功
琉球・奄美へ異国船来航、漂着つづく
1849(嘉永2)大島産糖約700万斤 喜界200万、徳之 島260万 琉球450万
幕府諸藩に海防強化を命令
薩藩 高崎崩れ=嘉永朋党事件=お由羅騒動wで道之島へ遠島8人 名越左源太(なごやさげんたA)大島小宿mに着く
大島払棄令
1850 この年から翌年まで凶年
1851(嘉永4)島津斉彬(なりあきらw)薩摩藩11代(島津28代)藩主へ
白糖75万斤買い重ね 凶年 大飢饉
1853 (嘉永6)ペリーw琉球に来る。後浦賀へ向かう。
沖永良部砂糖上納となる
1854 (嘉永7 安政1)神奈川で日米和親条約w締結後、帰途琉米条約
異国船御守備方 藩士数名来島 宇検
1855 龍家と牧家の争い 竜郷阿丹崎
異国軍艦三隻住用入港
琉仏修好条約締結
1857 (安政4) 与論島さとうきび植え付けはじめる
1858 島津忠義g 12代目藩主となる
日米修好通商条約g
安政の大獄gはじまる 井伊直弼
1859 (安政6)西郷隆盛g、竜郷mに潜居
1862 (文久2) 2月 西郷、大島から帰藩
7月 西郷、徳之島に流配 閏8月 沖永良部へ流配
生麦事件g=現・横浜市鶴見区生麦付近で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件
1863(文久3)薩英戦争g
重野安譯(しげのやすつぐg)大島より帰藩
1864(元治元) 犬田布騒動g 記念碑のある徳之島犬田布(いんたぶ)岬map
無実の罪(砂糖密売)で拷問を受ける農民救出のため、犬田布農民150余名が、役所を包囲、役人を追い払い戦いをいどむ。
西郷、沖永良部より、蒸気船で帰藩
桂久武g 大島より帰藩
1865(慶応元)大島に白糖製造機械4組 英人2名藩役人120人余来島
1866 琉球王封位 、道之島か貢物
1867 (王政復古の大号令g)
1868 (明治元) (五箇条御誓文発布)