奄美 海風blog

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『溟い海』 くらいうみ 藤沢周平(著) 葛飾北斎が主人公 広重に嫉妬する

2009年06月30日 | 本と雑誌

090630book 「お、先生じゃねえか」

一度行きすぎた足音が戻ってきて、そういうのを聞いた。

北斎は、聞えないふりをした。

いい書き出し。

日が沈むところで、両国橋の上を、人の行き来が混みはじめている。

「神田川の落ち口のあたり、旅籠町からお蔵にかけて秋の日は、すでに薄青い翳(かげ)を落していた。」

映画館で映画を見ているような、葛飾北斎の絵を見ているような、と言うか歌川(安藤)広重gogoleの東海道五十三次の絵を横長画面で見ているような、印象的な描写。読後に、もう一度読むと、これから始る話をあらかた言い当てているような書き出し。

「先生よう、身投げの思案かね」
ようやく北斎はふり向いた。

しかし、せかいの北斎先生に向かって、何ってぇいう言い草だい、鎌次郎、ち思うね。

葛飾 北斎gogole( かつしか ほくさい。〈1760年-1849年〉)江戸時代に活躍した浮世絵師。

橋の上で、そう呼んだのは、鎌次郎という若いならず者。養子に出した北斎の長男、富之助のダチで以前、となりに住んでいた。

この鎌次郎や、富之助に捨てられ乳飲み子をかかえた、お豊が、ちょこ、ちょこっと登場して、北斎の癖のあ人物像を浮かびあがらせるとともに、読者にきびきびした時間の経過を感じさせる。その手法は、ひじょうに緻密だ。2度、3度と読んでみる価値があるだろう。

北斎  養家を飛び出してから、絵師として世に出るまでの、無頼と背中合せだった辛い日々を悔いるつもりは毛頭ない。名を知られてからも、絵師などというものは、所詮やくざな商売と居直って、ふてぶてしく世の中を渡ってきた。だが、そうして得た名声が、江戸の片隅の鏡研ぎ師の、律儀な日々の営み以下のものでしかないという思いが、北斎の中にある。

「あれは座興さ」
「世間は、そうは見ませんよ、先生」
新兵衛(版元)は、ロもとの微笑を消すと、遠いものを眺めるような眼で、北斎の巨躯を見た。
「とくに我々の仲間はね」辛辣な言い方だった。
新兵衛の眼に、北斎はその時、画壇の拒否を見たのだった。

これとよく似た場面は、一茶が江戸の師匠成美に、独特の貧乏句を添削された時に言われた会話の中にもある。(というか藤沢周平の作品には、権力や中央から距離を置いた(以下略)

錦絵で世に出ようとするなら、一にも二にも絵そのものが問われる。
人の胆をつぶすような画技も、それで浴びる世間の喝采も無縁なのだ、と新兵衛の眼は言っている。

 だが新兵衛は、彼からみれば醜悪にさえ見える人気取りに北斎を駆りたてたものを知らない。
 それが、四十を過ぎてなお無名だった男が、世間を相手に試みた必死の恫喝(どうかつ)だったことを、だ。・・・
 
たとえそのために、画壇に異端視されようと、また卑俗な処世術のゆえに二流扱いされようと、無名であるよりはいい。

しかし、北斎は黙った。・・・・

弁明をためらわせるものが、奥深いところにあった。無名でいることに耐え難かったのは事実である。だが、そのためにした曲技じみた画技の披露に苦痛はなかった。むしろ快感がうずいていたと言ってよい。

それを北斎は新兵衛に言うことは出来ない。それは、なぜか人に言うべきことでない気がしたのである。

奄美には、芸術をこころざす、いろいろな若者が(そうでない人も)おとづれますが、やはり、このテーマは話題になるのです。

つい、田中一村と比べてしまいます。

話は飛びますが、関連して、岡本太郎の言葉

このブログ2009年6月 5日 (金曜日)
クワズイモとビロウ

(母の)岡本かの子の芸術があれだけ陶酔的な自我を貫いていながら、塵ほども狭
さ、一個人の卑小さ、みだらさを感じさせない理由はそこにある。絶対に私小説ではないのである。しかもあれくらい徹底的に個人的立場に立っている文学はないのだが。

 さてこのような、ただごとでない人間の幅と、神秘をはらんだ、芸術に対して、何故、
あえて私が無縁だと宣言し、過去のものとして否定するのか。そこにこそ言いたいポイントがある。
 第一に、かの子文学に対して私が指摘する点は、何といっても文壇的な気配があるということである。

私は真の芸術は文壇的とかいう雰囲気を潔癖なまでにかなぐり捨て、切り
捨てたものでななければならないと信じている。そして私自身はそれを実践しているつもりである。

人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。
(文庫ぎんが堂 ): 岡本 太郎 86ページ

歌川(安藤)広重の東海道五十三次の絵を初めて見る北斎

 一枚の絵の前で、北斎はふと手を休めた。
恐ろしいものをみるように、北斎は「東海道五十三次のうち蒲原」とある、その絵を見つめた。
闇と、闇がもつ静けさが、その絵の背景だった。画面に雪が降っている。寝しずまった家にも、人が来、やがて人が歩み去ったあとにも、ひそひそと雪が降り続いて、やむ気色もない。
その雪の音を聞いた、と北斎は思った。そう思ったとき、・・・

北斎は新進の若い広重の才能に嫉妬します。

そしてあの鎌次郎にたのんで、広重を襲い、腕を折ってやろうと、
とっぴょうしもないことを実行しようとするのですが、
現場の月明かりに照らされた広重の顔。
「絵には係わりのない、異質な生の人間の打ちひしがれた顔。
人生のある時絶望的につまづき、回復不能のその深傷を、隠して生きている者の顔」をみて襲撃をやめてしまう。

そのあとの溟い海

絹布の上に、一羽の海鵜(うみう)が、黒々と身構えている。羽毛は寒気にそそり立ち、裸の岩をつかんだまま、趾は凍ってしまっている。
北斎は、長い間鵜を見つめたあと、やがて筆を動かして背景を染めはじめた。はじめに蒼黒くうねる海を描いたが、描くよりも長い時間をかけて、その線と色をつぶしてしまった。漠として
暗いものが、その孤独な鵜を包みはじめていた。猛々しい眼で、鵜はやがて夜が明けるのを待っ
ているようだったが、仄かな明るみがありながら、海は執拗に暗かった。
 それが、明けることのない、誤い海であることを感じながら、北斎は太い吐息を洩らし、また
筆を握りなおすと、たんねんに絹を染め続けた。


名古屋場所 新番付

2009年06月29日 | 大相撲

七月(名古屋)場所 7月12日~7月26日 愛知県体育館

日本相撲協会 web site

旭南海 丈一郎  東十両六枚目(先場所、西十両八枚目 8勝7敗)

里山 浩作  東幕下 9 枚目(先場所 東幕下11 4勝3敗)

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先場所(五月)の成績

東幕下11 里山  尾上部屋
-●-○●--○-●-○○-- 4勝3敗

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西十両八枚目
旭南海 大島部屋
8勝7敗
初日 ● 叩き込み 春日錦
2日目 ○ 引き落とし 若天狼
3日目 ● 叩き込み 土佐ノ海
4日目 ○ 寄り切り 大翔湖
5日目 ○ 引き落とし 豊桜
6日目 ● 送り出し 海鵬
7日目 ○ 寄り切り 潮丸
中日 ○ 寄り切り 保志光
9日目 ○ 送り出し 磋牙司
10日目 ○ 上手投げ 若荒雄
11日目 ● 押し出し 玉飛鳥
12日目 ● 上手投げ 春日王
13日目 ○ 引き落とし 十文字
14日目 ● 寄り切り 霧の若
千秋楽 ● 上手投げ 琴春日


まだ明けない梅雨 奄美地方 28日

2009年06月28日 | 気象 お天気

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きょう(28日)は、奄美地方の梅雨明けの平年値(日)

だが明けない。↑↓ この空 判断に迷う。だが梅雨明けが近いでしょう。

以下の写真は、その視点で撮った。奄美市名瀬 赤崎公園 お昼ごろ。

沖縄地方はきょう梅雨明けした。平年より5日、去年より11日遅い

奄美・沖縄の梅雨明けは、すなわち本土の梅雨の本格化です。(梅雨前線の北上)

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梅雨の平均期間・平均降水量 wikipedia 梅雨より
地域   梅雨入り  梅雨明け  期間  代表地点  期間降水量

沖縄地方 5月8日ごろ 6月23日ごろ 47日 那覇市 234.7 mm
奄美地方 5月10日ごろ 6月28日ごろ 50日 奄美市 511.3 mm
九州南部 5月29日ごろ 7月13日ごろ 46日 鹿児島市 540.4 mm
九州北部 6月5日ごろ 7月18日ごろ 44日 福岡市 338.8 mm
四国地方 6月4日ごろ 7月17日ごろ 44日 高松市 201.7 mm
中国地方 6月6日ごろ 7月20日ごろ 45日 広島市 327.9 mm
近畿地方 6月6日ごろ 7月19日ごろ 44日 大阪市 296.6 mm
東海地方 6月8日ごろ 7月20日ごろ 43日 名古屋市 312.7 mm
関東・甲信地方 6月8日ごろ 7月20日ごろ 43日 東京 288.2 mm
北陸地方 6月10日ごろ 7月22日ごろ 43日 新潟市 276.4 mm
東北地方南部 6月10日ごろ 7月23日ごろ 44日 仙台市 243.8 mm
東北地方北部 6月12日ごろ 7月27日ごろ 46日 青森市 141.6 mm
北海道地方 - - - - -
小笠原諸島 - - - - -

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セミも、アカショウビンもないている。

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↑ ソテツ 雌(め)花 

受粉?が終わり、開いていた大胞子葉は、そろそろ互いにくっつきあって閉じ、中の実は見えなくなる。実はまだ青い、数ミリから一センチ(観察つづく)

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↑ そてつ 雄花 

これがしおれる頃、梅雨が明けるといわれている。なんとなく、そんな感じ。(だが個体差も大きい)

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青空に映えるソテツの葉はひじょうに美しい。

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いろいろな構図で空の青をさがして撮る。

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『三屋清左衛門残日録』(みつやせいざえもんざんじつろく)

2009年06月26日 | 本と雑誌

090626book 『三屋清左衛門残日録』(みつやせいざえもんざんじつろく)google 藤沢周平 著

初出は「別冊文藝春秋」1985-1989 172-186号で、単行本は1989年9月 1992年文春文庫

←2007 4/05 第36刷 590円+税 tsutaya

平成5年(1993年)にNHK金曜時代劇で放映された

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読んだ本すべて、日記に書くわけではないのですが、

が、しかし、また、あまりおもしろくないな、と思った本でも、こうして書くこともある。

いつもよりおもしろくないと思ったのはなぜなのか?その理由を書こうと思ったのですが・・・速読のせいかな。(田舎、都会、男性 会社中心)

この本は、4~5日かけてのんびり読んでもよかったのですが(次に早く読みたい本が控えていたので)
ネットで検索しながら、苦手の速読に挑戦、1日ちょっとで読了。読書も一応進化している。

『三屋清左衛門残日録』は、『蝉しぐれ』などとならんで、藤沢周平の円熟期代表作とされる名品であるとされるのであるが。TVや映画、舞台などではいいのかもしれない。

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清左衛門(仲代達矢)は、江戸で前藩主の用人を勤めあげ、30年前の120石を270石にまで増やして隠居した”成功者”である。

国元での隠居生活のさびしさを気遣うよくできた嫁に文句はないが、亡妻に物言うようにはいかない、息子夫婦への小さな遠慮。
”喜和がいれば・・・また別だったろう”
それで時々通いだした料亭の若いおかみとの淡い恋。

藩の執政府内の権力争いにも、たのまれてかかわってしまう。
藩内でたよるべき人物をまちがえて今は落ちぶれた昔の同輩、金井奥之助(佐藤慶) のこと。
年老いて中風にかかり体がうごかなくなった幼馴なじみの「大塚平八」(河原崎長一郎 )。
いまだ現役で仕事にいそがしい友人、佐伯熊太(財津一郎)
若いころの友、小木慶三郎の左遷の原因が、自分が藩主に話した噂話と関係あると思い込み、夢の中でも苦しむ。
など。

『残日録』とは日記のことなので今でいえばブログにあたるのだろう。

親しいものが死に、老いの現実を実感する日々。

ものがたりの最後

嫁の里江(南果歩) に、「納屋から釣竿を出してくれぬか」
「かしこまりました」
「それからな」
清左衛門は、機嫌よく、もうひとことつけ加えた。
「平八がやっと歩く練習を始めたぞ」
今日の日記は平八のことを書くぞ、と清左衛門は思った。

ものがたりは「早春の光」でおわる。


奄美 龍宮伝説 夢をかなえるカメさん Yume-Kame

2009年06月24日 | 観光ポイント

奄美大島最北端 笠利崎 地図  7/22の皆既日食では、大勢の観察者でにぎわうことが予想される海岸です。海岸はとても長いです。

世界中にある(浦島太郎型の異界訪問譚) 浦島伝説google  これはあとで勉強します。

カメさんの台座 側面の説明書きをそのまま 書きます。

龍宮伝説由来について

奄美、笠利町では古来より海の彼方には恵をもたらす神の国(龍宮)があり、そこから人々に幸福がもたらされると信じてきました。これがニライカナイ伝説です。この伝説が大和の国に伝わり、浦島伝説として日本中に知れ渡ったといわれています。
奄美大島最北端のこの地には亀にまつわる伝説も残っています。そのことから神の国(龍宮)の使者であると信じられています。
ここにそのモニュメントを設置し、訪れた方々に幸せがもたらせることを願いこの伝説を長く後世に伝えるものです。

反対側左側面

夢みる「カメ」さんのおくりもの

※ 頭に触れると知恵が授かる
※ 前右足にふれると男性の願がかなう
※ 前左足にふれると女性の願がかなう
※ 後右足にふれるとお金がたまる
※ 後左足にふれると長生きできる
※ カメに子供を乗せると元気に育つ
※ おなかにふれると子供がさずかる

夢カメ ドリ亀?

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画像検索すると、ふつう浦島太郎はカメに乗っていますが、

これは、みなさんに乗っていただくため

波の上に立っています。

写真の向こうがさんご礁の海岸です。

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笠利崎灯台

 


本『リンゴが教えてくれたこと』

2009年06月23日 | 本と雑誌

090623bookリンゴが教えてくれたこと』google 木村 秋則著、日経プレミアシリーズ、850円(税別)

リンゴは農薬でつくるもの、と言われるほど
病害虫に弱いのだそうだ。

それを、農薬どころか、肥料も使わない、

常識破りの「自然栽培」に取り組んだ男の話。

「自分の歯より、リンゴの葉が大事だった」と冗談をいって屈託なくわらう木村さんは、
表紙の写真でわかるように歯がない。この本を買う決め手になった写真だ。(新書ばやりの出版界、表紙や帯に著者の写真が多くなった。ものをいうのは有名人や女性の著者ばかりではない。この著者の農作業の服装もものを言った)

木村さんの歯がないのは、リンゴができず田畑も手放し、喰えなくなって、アルバイトにキャバレーに勤めていたとき、ヤクザに殴られ、歯を失ったことが原因。

♪ 君の行く道は~果てしなく遠い~なのに、なぜ~歯をくいしばり♪

という歌をみなで歌っていた青春時代。
木村さんは、高校卒業後、勤めた川崎のメーカーを一年半で退社。
帰郷後、農業を始める。

農薬で健康を害し、無農薬 無肥料栽培を模索するのだが、10年近く無収入の苦難が待ち受けていた。
小学校の長女の作文に「お父さんの仕事はりんごつくりです。でも私はお父さんの作ったりんごを一つも食べたことがありません」
ずしんときた。
女房に「これを最後にもうやめよう」と言うと、長女は「じゃあ、今までなんで我慢してきたの」と女房は問い詰められたという。

出稼ぎ先での苦労が赤裸々に語られます。が、行間に、どこか一茶に通ずる信念のようなものが感じられる。

「あいつはバカだから付き合うな」村八分にあい、田畑も手放した。

近隣の農家のひとたちの浴びせる罵倒の言葉はつらいものがあったはずだが、
それほどのとげとげしさは感じられない。
それは、方言のせいばかりではないだろう。
それを書いている木村さんに自信もあったのだろう。
木村さんの熱意にキャバレーの女性たちも「お父さんがんばって」と
店のトイレ掃除の手伝いもするようになったという。

万策つきた木村さん、「死んでお詫びを」
と、岩木山に入る。

「この辺でいいだろう」と投げたロープが落ちた。
斜面を降りようと見上げたその時、
月光に浮かび上がるリンゴの木を見た。
輝くばかりの美しい木は、しかしリンゴではなく
ドングリの木だったのだが、
「こんな山の中でなぜ、農薬を使っていないのに、これほど葉をつけるのか」
あたりはなんともかぐわしい土のにおいに満ち溢れ、肩まである草をかきわけると、足元はふかふかとやわらく湿気があります。雨のせいではありません。クッションをしきつめたような感覚です」
「これが答えだ」と直感した。

小説にするとうそっぽくなりがちな場面ですが、死ぬ気で何かに取り組んだひとはわかる感覚なのだろうと思わせる。自然との対話なのだろう。

木村さんは、最終6章の「すべては観察から始る」のなかの、「植物の言葉はわからないけれど」の一節で次のように書いています。

「わたしは自然の山の姿を手本にしています。みんな独学です。というのは自然界には本に書いていないことがあまりに多いからです。」

木村さんは、図書館などの本をたくさん読まれたようですが

まあ、たしかに、インターネットなどで、簡単に机上の検索ばかりをやっていて、
自然界のことは、全て誰かによってとっくの昔に解き明かされているのだ、という感覚がとんでもない間違いなのだと思わされます。

木村さんが、「自然農法」といわずに「自然栽培」といっているのは、
抽象論によらず、現場での経済性を考えながら現実に応用可能な方法を重視しているからだろう。

実際の方法は、本を読んだり、著者の講演を聴いたり・・・。

しかし、なかなな哲学的なことも考えさせてくれるテーマでもあった。


大浜晴れ タカとった魚を上空へ

2009年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

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きょうの名瀬
23.3 ℃~ 33.4

名瀬港から車で約10分 大浜海浜公園

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潮が引いて波のない大浜 さんご礁

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大浜上空を、一羽のタカ?  両足で赤い魚をつかんでいる。

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このタカ?かなり大きい。カメラは80倍ズーム(上の大きい写真)。さかなは、刺身ができるくらいの大きさか。肉眼では魚に気づかなかった。

潮が引いたリーフのくぼみに取り残されたのだろうか。赤い色が目立ったのかもしれない。

竜宮城の海から、いきなり、こんな上空にもちあげられて、魚はもう気絶しているのかもしれない。タカ?は何度か上空を旋回していた。

弱肉強食とはいえ、陸海空といふじゃあないか。


夏近づく tebiro beach に波 グンバイヒルガオ

2009年06月20日 | 植物

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↑ グンバイヒルガオ(軍配昼顔)

梅雨は明けないが、晴れて気温が上がった。きょうの名瀬 21.6 ℃~ 29.5

手広海岸では、手元の寒暖計で32度くらい。(下に写真)

サーファーの皆さんが波乗りを楽しんでいた。

↑↓ グンバイヒルガオ(軍配昼顔)は、アダンやソテツよりも前線に出て、ひたすら海をめざしているかのよう。

海のかなたのニライカナイに、いとしい人がいるのでしょうか。

このように、つる性植物の茎が地をはうように水平方向にのびる性質を匍匐(ほふく)性、這い性ということは、すでに学んだ。(このカメラは可動式のモニタなので、このアングルでも這って撮影する必要はありません)

奄美のソテツが地球緑化に役立っている他に、

宇都宮大学で改育成され、あたらしい屋上緑化植物として注目されている、クラピアは、奄美などに自生する、つる性植物のイワダレソウを品種改良したものだという。

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この岩の上に立つと、複雑な波の動きと音で、興奮します。それに雲の動きで太陽の光が水面を走ります。今日は潮が引いて、波が去った砂浜が鏡のように山と空を写して、おもしろい写真が撮れたのですが、・・・・暑かったです。

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『大相撲の魅力』相撲アナが語りつくす

2009年06月19日 | 本と雑誌

090619book 一日に10数秒だけ、相撲を見て、ジッキョウと解説の大相撲ブログを書く。TVをデジカメで動画撮影して、何度も見て解説を加えて記事にする。あとは、見ない。結びの一番までに何か大きなできごとが起こっていないか、不安になりながら記事をアップする。(だから、ぜったい相撲通にはなれない)

それも、もう3年あまりになるのだろうか。(10秒で三年もつ。それも相撲の大きな魅力のひとつではなかろうか)

なので、この本に書かれてあることのいくらかは、ネットで検索でるのですが。

しかしやはり、本のほうが手っ取り早い。ましてや体系的な知識となると、書店に行くほうが確実だ。ネットと比べ、得られた情報の信頼性も高い。著者以外にも大勢の人の手を経て書店に並ぶのだから。

ネットで本も買えるが、やはりリアル書店で探すほうが圧倒的に刺激的でたのしい。(ある程度大きい書店でないといけないが)

この本は相撲の魅力そのものについて書かれているわけではないが相撲ブログを書くためにおおいに参考になるだろう。

『相撲アナが語りつくす大相撲の魅力』が、この本の正しいタイトルなのだろう。相撲通はどこに関心があるのか。相撲通といわれるには、やはり相撲部屋の今、昔。とくに一門についての知識が必要というのだが。

大相撲の魅力 google

Amazon.co.jp: 大相撲の魅力 -相撲アナが語りつくす-: 銅谷 志朗

この本は、書店入り口の奥の角、趣味の本などのコーナーで見つけた。そこは、時々思いがけないおもしろい歴史の本などを見つけることがある場所だが、めだたない場所だ。

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きょうは晴れましたが、道端のちいさなアジサイ。

つぼみから、いろいろな咲き具合のアジサイ。

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どんより曇って、水平線が黒かった。

2009年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

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とくに冬場は、荒波の押し寄せることが多い、あしけぶの海岸。

たれこんだ黒い雲が、水平線も太い黒い線で描いています。

海岸に打ち寄せる、細い縞模様のような波の線はありませんが、

カメラ位置を移動すると浅瀬にうかんだ岩場の並びが、構図にビミョウな変化をあたえます。波打ち際に並んだ無数の小さな小石のひとつひとつに神経を集中しながら、カメラ位置を上下左右に微調整します。(笑 うそです)

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『 一茶 』 藤沢周平 文春文庫

2009年06月17日 | 本と雑誌

090617book 「痩せ蛙まけるな一茶是にあり」、

      やせがえるまけるないっさこれにあり

「やれ打つな蠅(はえ)が手を摺(す)り足をする」

の、あの小林一茶googleです。

Amazon.co.jp: 一茶 (文春文庫 ふ 1-2): 藤沢 周平

「誰もほめてはくれなんだ。信濃の百姓の句だと言ぅ。だがそぅいぅおのれらの句とは何だ。絵にかいた餅よ。花だと。雪だと。冗談も休み休み言えと、わしゃの、やを(晩年の嫁の名)。森羅万象みな句にしてやった。月だの、花だのと言わん。馬から蚤虱(のみしらみ)、そこらを走りまわっているガキめらまで、みんな句に詠んでやった。その眼で見れば蚤も風流、蚊も風流・・・」

google ブックスで、もう少し読む

1763年、現、長野県上水内郡信濃町の貧農の長男として生まれた一茶は、三歳で生母を失い、八歳で迎えた継母にいじめられ、おりあわず、15歳で江戸へ奉公へ出る。

子供ころから知っている一茶の名前、有名な句。
こっけいでなんとなく庶民的。少々型破りの生活など
うすうす抱いていた一茶に対するイメージを、この小説でまたもやくつがえさせられる。

藤沢周平の描く江戸での一茶の暮らしは、あまりに貧乏だ。
これでもか、これでもかと、世俗にまみれ、生活の不安から自由になれないでいる一茶を見せつけられる。
世をすねる一茶。くどいほどの貧乏句を作っちめぇやがるのだった。「秋の風乞食は我と見くらぶる」「我庵の貧乏梅の咲きにけり」

小説は途中、俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊する一村、あ、いや一茶を描く。

これほど有名な俳諧師なのだから、少しは・・・という期待?は
小説の中で最後まで満たされない。

嫁ももらえない江戸での貧乏を切り上げ、50歳で郷里に帰っても、継母や弟との遺産相続でのトラブル。
ここでは、思いがけない、一茶の、したたかな俗人ぶりが描かれている。

老いてから次々と迎えた嫁や、その子供を次々に失っていく不幸。

醜く、老いていく一茶が描かれる。

俳聖、とか、孤高の・・とかの衣装は、この小説の一茶には似つかわしくもない。

ただの人、一茶。

しかしながら一茶は、「ただのひとのままに、非凡な人間だったと思わざるを得ない。(藤沢周平 あとがき)

さすがは、藤沢周平。
それでも、どこか、こっけいで、したたかな一茶のユーモラスで?自信をもった人生。
最後にそれが小説全編を通じて浮かび上がっていることにきずかされる。

藤沢周平自身の人生経験からもにじみ出てくるものだろう。

その一節は読んでのお楽しみ。もうすこし歳いとってから読んでもよい。

冒頭の引用は、最晩年、気立てのよい若い嫁(←それでもそんな嫁がもらえるの?)やをの無邪気な寝顔を見ながらつぶやく一茶のせりふ。

一茶は生涯、二万をこえる句を詠んだといわれる。年に二百も三百も。

この情熱こそが一茶なのかも知れない、と思わされる小説の仕立てにもまた、われわれは最後に気づかされるのである。

似ているか、一村google