一度行きすぎた足音が戻ってきて、そういうのを聞いた。
北斎は、聞えないふりをした。
いい書き出し。
日が沈むところで、両国橋の上を、人の行き来が混みはじめている。
「神田川の落ち口のあたり、旅籠町からお蔵にかけて秋の日は、すでに薄青い翳(かげ)を落していた。」
映画館で映画を見ているような、葛飾北斎の絵を見ているような、と言うか歌川(安藤)広重gogoleの東海道五十三次の絵を横長画面で見ているような、印象的な描写。読後に、もう一度読むと、これから始る話をあらかた言い当てているような書き出し。
「先生よう、身投げの思案かね」
ようやく北斎はふり向いた。
しかし、せかいの北斎先生に向かって、何ってぇいう言い草だい、鎌次郎、ち思うね。
葛飾 北斎gogole( かつしか ほくさい。〈1760年-1849年〉)江戸時代に活躍した浮世絵師。
橋の上で、そう呼んだのは、鎌次郎という若いならず者。養子に出した北斎の長男、富之助のダチで以前、となりに住んでいた。
この鎌次郎や、富之助に捨てられ乳飲み子をかかえた、お豊が、ちょこ、ちょこっと登場して、北斎の癖のあ人物像を浮かびあがらせるとともに、読者にきびきびした時間の経過を感じさせる。その手法は、ひじょうに緻密だ。2度、3度と読んでみる価値があるだろう。
北斎 養家を飛び出してから、絵師として世に出るまでの、無頼と背中合せだった辛い日々を悔いるつもりは毛頭ない。名を知られてからも、絵師などというものは、所詮やくざな商売と居直って、ふてぶてしく世の中を渡ってきた。だが、そうして得た名声が、江戸の片隅の鏡研ぎ師の、律儀な日々の営み以下のものでしかないという思いが、北斎の中にある。
「あれは座興さ」
「世間は、そうは見ませんよ、先生」
新兵衛(版元)は、ロもとの微笑を消すと、遠いものを眺めるような眼で、北斎の巨躯を見た。
「とくに我々の仲間はね」辛辣な言い方だった。
新兵衛の眼に、北斎はその時、画壇の拒否を見たのだった。
これとよく似た場面は、一茶が江戸の師匠成美に、独特の貧乏句を添削された時に言われた会話の中にもある。(というか藤沢周平の作品には、権力や中央から距離を置いた(以下略)
錦絵で世に出ようとするなら、一にも二にも絵そのものが問われる。
人の胆をつぶすような画技も、それで浴びる世間の喝采も無縁なのだ、と新兵衛の眼は言っている。
だが新兵衛は、彼からみれば醜悪にさえ見える人気取りに北斎を駆りたてたものを知らない。
それが、四十を過ぎてなお無名だった男が、世間を相手に試みた必死の恫喝(どうかつ)だったことを、だ。・・・
たとえそのために、画壇に異端視されようと、また卑俗な処世術のゆえに二流扱いされようと、無名であるよりはいい。
しかし、北斎は黙った。・・・・
弁明をためらわせるものが、奥深いところにあった。無名でいることに耐え難かったのは事実である。だが、そのためにした曲技じみた画技の披露に苦痛はなかった。むしろ快感がうずいていたと言ってよい。
それを北斎は新兵衛に言うことは出来ない。それは、なぜか人に言うべきことでない気がしたのである。
奄美には、芸術をこころざす、いろいろな若者が(そうでない人も)おとづれますが、やはり、このテーマは話題になるのです。
つい、田中一村と比べてしまいます。
話は飛びますが、関連して、岡本太郎の言葉
このブログ2009年6月 5日 (金曜日)
クワズイモとビロウ(母の)岡本かの子の芸術があれだけ陶酔的な自我を貫いていながら、塵ほども狭
さ、一個人の卑小さ、みだらさを感じさせない理由はそこにある。絶対に私小説ではないのである。しかもあれくらい徹底的に個人的立場に立っている文学はないのだが。さてこのような、ただごとでない人間の幅と、神秘をはらんだ、芸術に対して、何故、
あえて私が無縁だと宣言し、過去のものとして否定するのか。そこにこそ言いたいポイントがある。
第一に、かの子文学に対して私が指摘する点は、何といっても文壇的な気配があるということである。私は真の芸術は文壇的とかいう雰囲気を潔癖なまでにかなぐり捨て、切り
捨てたものでななければならないと信じている。そして私自身はそれを実践しているつもりである。人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。
(文庫ぎんが堂 ): 岡本 太郎 86ページ
歌川(安藤)広重の東海道五十三次の絵を初めて見る北斎
一枚の絵の前で、北斎はふと手を休めた。
恐ろしいものをみるように、北斎は「東海道五十三次のうち蒲原」とある、その絵を見つめた。
闇と、闇がもつ静けさが、その絵の背景だった。画面に雪が降っている。寝しずまった家にも、人が来、やがて人が歩み去ったあとにも、ひそひそと雪が降り続いて、やむ気色もない。
その雪の音を聞いた、と北斎は思った。そう思ったとき、・・・
北斎は新進の若い広重の才能に嫉妬します。
そしてあの鎌次郎にたのんで、広重を襲い、腕を折ってやろうと、
とっぴょうしもないことを実行しようとするのですが、
現場の月明かりに照らされた広重の顔。
「絵には係わりのない、異質な生の人間の打ちひしがれた顔。
人生のある時絶望的につまづき、回復不能のその深傷を、隠して生きている者の顔」をみて襲撃をやめてしまう。
そのあとの溟い海
絹布の上に、一羽の海鵜(うみう)が、黒々と身構えている。羽毛は寒気にそそり立ち、裸の岩をつかんだまま、趾は凍ってしまっている。
北斎は、長い間鵜を見つめたあと、やがて筆を動かして背景を染めはじめた。はじめに蒼黒くうねる海を描いたが、描くよりも長い時間をかけて、その線と色をつぶしてしまった。漠として
暗いものが、その孤独な鵜を包みはじめていた。猛々しい眼で、鵜はやがて夜が明けるのを待っ
ているようだったが、仄かな明るみがありながら、海は執拗に暗かった。
それが、明けることのない、誤い海であることを感じながら、北斎は太い吐息を洩らし、また
筆を握りなおすと、たんねんに絹を染め続けた。