2005.09.13の記事 写真散歩のすすめ』の続き。
さほど、面白いというわけでもないが、なぜか、
考える。
”フロムエーを読みながら
餃子をたべるのは、
絶対にやめて下さい!!
店主”
この店は、何屋さんなのか写真からも分からない。
なぜ、フロムエーなのか
なぜ、餃子なのか
絶対とは、なにごとか。
この店主は、
ラーメンを注文しないで、
餃子だけで長時間お店でねばっている
客を、ひごろからこころよく思っていない。
とか想像してみたところで、カイケツはしない。
果てはニッポンの教育モンダイにまで。
埒などあかない。
『散歩写真のすすめ 』 文春新書
樋口 聡 (著)
の隣にあった
『寝ながら学べる構造主義』 文春新書
内田 樹 (著)
の帯書きに
レヴィストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、
バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、
ラカンは「大人になれよ」と言っており、
フーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。
記号とは、意味するものと、意味されるもののセット。
ロランバルトの「エクリチュール」の概念。
私たちが母国語を用いるときには
それと気づかぬ「不可視の規則」に従っている。
ラングとスティル(style)文体。
ラングとはとりあえず国語のこと。
内と外から二種類の見えざる規制。
バルトが発見した第三の規制
エクリチュール(ことばづかい)
テクストとは、織り上げられたもの。
テクストはさまざまな文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。
そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣しあい、いがみあう。
しかし、この多様性が収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように
作者ではない。読者である。
テクストの統一性はその起源にではなく、その宛先にある。
読者の誕生は作者の死によって贖われなければならない。バルト「作者の死」
バルトは30年前にすでに「コピーライト」というものを原理的に否定している。
Web 上のコピペ、リンク
”何々しないで下さい”の張り紙、
書く人、言われている人、見る人。
フロムエーと餃子の関係について考える。
無意味には意味をもたない責務があった。