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10/21日 西郷どん 第39回『父、西郷隆盛』平均視聴率は12.3%。前回「傷だらけの維新」から2.1 P. up

2018年10月23日 | 歴史 民俗

5分で分かる「西郷どん」第39回『父、西郷隆盛』

10/21日「西郷(せご)どん」第39回「父、西郷隆盛」平均視聴率は12.3%。前回「傷だらけの維新」から2.1 P. up
 
「兄さあは、いくさの鬼になってしもうた」と嘆いてばかりいた従道は、フランス帰りになっていた。 
前回戊辰戦争から時代は一気に明治37年の京都市へ飛んだ。
 
西田敏行が演じる菊次郎は、43歳になっていて、京都市長に就任し、助役のインタビューに「父、西郷隆盛」の思い出を語る。原作本の冒頭はここから始まったのだった。
 
その2年前の明治35年(1902)母愛加那はもう帰らぬ人になっていた。1837年生 (65) (台湾で龍郷からの電報をうける)
 
菊次郎の話は明治2年のころから始まるが、それは菊次郎が龍郷から9歳で鹿児島西郷本家に引き取られる年である。
 
東京へ戻らねばならない西郷に養母となった糸は、もうしばらく菊次郎のそばにいてくれと頼む。寝床でそれを聞いていた菊次郎は迷う父上に
 
「東京へ行ってくりんしょれ(下さい)、父上・・自分のことより民が大事、そうでごわしたなぁ、父上、俺いもいつか父上のようになりたか、民のために働きとうございもす」
 
健気な菊次郎9歳は、涙をさそうが、菊次郎の言葉は、島の母愛加那の教えでもあった。
立派に育った菊次郎を見つめる西郷の顔は、度量の大きな糸と、立派に育てた愛加那への感謝の顔に見える。(愛加那を愛人、妾、などといったイメージでみてはいけない。大島随一の名家龍一族の娘なのだ・・)
 
ドラマはここでつづくになるのだが、その前に西郷の三弟・従道について。
 
従道は菊次郎が鹿児島に来た明治2年(1869年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。
翌年に帰国、兵部権大丞(ひょうぶごんのだいじょう)に任じられる。警察制度の確立にも尽した。
 
従道の兄さあに対するフランス土産の会話
 
「フランスにはpoliceちゅうもんがあっての」
「ポリス?」
膝をのりだし、にじるよる兄さあに、
「街の治安を守るサムライじゃ」
「ほう」
「俺いは日本の治安を守るポリスを創りたかっち思うちょおぅ」
「そいはよかぁ、そいができればサムライたちに新しか仕事を与えるこっができる」
互いに一献かたむける。(征韓論のことが頭をよぎるが、ここで多くは語るまい)
 
「兄さあ、俺いと一緒に東京へ来てくいもはんか」
。。。
「俺いは戊辰のいくさで大勢を死なせてしもた。政をする資格はなか」
。。。
「俺いもいくさは見たくなか、それにはやっぱり、戦わずして勝てるほどの強か軍がいる。政府直属の軍じゃ、そいを兄さあに創ってもらいたか。あいだけの犠牲を払ったんじゃ、あん者んたちの命を無駄にせんでくいやんせ」
と言って兄さあを連れ戻しにきたのだった。
 
「戦わずして勝てるほどの強か軍がいる」ち、この時点で非武装中立などありえないと・・。
 
帰京の説得は大久保の意をくんでのことだった。
 
従道は西南戦争では西郷軍にはつかず、菊次郎が17歳で従軍し、右足膝下から切断の重傷を負ったときに救うなど菊次郎の支えになっている。
=======
西郷菊次郎 略年譜(昔読んだ本を参考に書いたこのブログ記事のコピーです)
西郷 菊次郎(1861年(万延2年) - 1928年(昭和3年)
文久元年 万延2年(1861) 西郷隆盛と愛加那の長子として奄美大島 龍郷(たつごう)で生まれる。
西郷は35歳 愛加那25
西郷隆盛、藩主の島津斉彬(なりあきら)の急死で失脚し、奄美大島に流される。
安政六年 1859 から文久二年 1862(3年2ヶ月)龍郷潜居
半年後西郷再び遠島 徳之島に到着
3日後 愛加那 菊草(のち菊子)を産む
愛加那 徳之島の西郷を訪ねる
西郷沖ノ永良部島での遠島生活に入る
元治元年 1864 赦免 鹿児島に戻る
このとき、愛加那28歳 菊次郎4歳 菊草3歳
以来、愛加那は遂に西郷と再会することはなかった。
慶応元年(1865) 隆盛、糸子(鹿児島藩士岩山八郎太の次女)と結婚
明治2年 (1869) 鹿児島西郷本家に引き取られる。
菊草(菊子)は明治9年(1876)に同じく西郷本家に引き取られる。14歳
菊草は大山巌(いわお)の弟誠之助と結婚。経済的にめぐまれず苦労は絶えなかった。
子供4人 
明治38(1905)年 子供二人とともに京都の菊次郎のもとへ移り住む
菊草は龍郷で離れ離れになった母愛加那と、再び会うことはかなわなかった。
明治5年 (1872) 13歳でアメリカ留学
明治7年 (1874) 政府の財政難で帰国
明治10年 (1877) 17歳で 西南戦争に従軍し、右足膝下から切断の重傷を負う
東京では父隆盛の三弟で明治政府の重鎮 西郷従道(つぐみち)の世話になる。
明治13年 (1880)11年ぶり、龍郷で母と再会 なつかしい故郷の山々を見渡す。
明治18年 (1885)外務省書記生 アメリカ公使館勤務
明治20年 (1887)アメリカ留学 右足治療のため帰国
明治26年(1893)久子と結婚 十人の子宝に恵まれる
明治28年 (1895)台湾総督府参事官心得
日清戦争で日本が台湾を得たのは明治28年(1895)
明治28年 鹿児島から台湾への途次 名瀬で母と15年ぶり再会(当時の島司は笹森儀助(のち青森市長)菊次郎が生まれた龍郷の龍家本家跡近くに、笹森儀助島司 顕彰の碑がある。 県道81号 島のブルース歌碑の向かい側にある。
明治29年 (1896)台北県支庁長
明治30年(1897)台湾 宜蘭(ぎらん)庁長に就任(県知事に相当 4年半)
明治35年(1902)母 愛加那死去 1837年生 (65) (台湾で龍郷からの電報をうける)
明治37年(1904)京都市長に就任 1911年辞職
明治42年 (1908) 妹 菊子死去 1862生(46)
明治45年(1911~1920)島津家鉱業館長
昭和3年(1928)11/27 菊次郎 鹿児島で没 68歳
 
==========
放送のあった21日、台湾北東部・宜蘭(ぎらん)県蘇澳(そおう)
で特急列車が脱線し、少なくとも18人が死亡し、160人以上が負傷したというニュースがあった。。
 
菊次郎は
1895年(明治28年)- 台湾台北県基隆宜蘭支庁長に就任
1897年(明治30年)- 台湾宜蘭県宜蘭庁長官に就任
1904年(明治37年)10月12日 - 2代目京都市長に就任
wikipedia

『西郷どん』第37回「江戸無血開城」の平均視聴率は9.9%

2018年10月14日 | 歴史 民俗
2週間ぶりとなった、7日放送の『西郷どん』第37回「江戸無血開城」の平均視聴率は9.9%と初の一桁台になったらしい。
第37回「江戸無血開城」は9月30日の台風24号関連ニュースの影響で放送日時が変更となった。
今日予定の特番第3弾「西郷どんスペシャル(3)」は10月月20日午後5時15分に決まったと、5日NHKが発表している。
「江戸無血開城」はドラマのクライマックスと見られていたにもかかわらず、最低視聴率に終わった要因は、話しが小むつかしく感じられたのか、それとも2週間ぶりの放送が響いたのか?
次回の特番で間があき、しらけてしまってさらなる低迷も予想される。過去2回の特番も視聴率は振るわなかった。
西郷どんではなく、西郷隆盛の重々しいイメージも少し必要なのではないのか。
次回特番のタイトルは「西郷と大久保 明治に挑んだそれぞれの道」。
そのあとはドラマはいよいよ最終章の明治編に入る。
 

西郷どん第36話「慶喜の首」23日放送の視聴率11・0% 前回から0・7p減

2018年09月25日 | 歴史 民俗
西郷どん第36話「慶喜の首」視聴率11・0% 前回から0・7p減
 
大久保の妾おゆうに作らせたという「錦の御旗」。
わりと明るいオレンジ色は戦場では安っぽく見えた。
(100円ショップで300円ほどと言えば言いすぎか)
 
今回はわりと順当に歴史をなぞった感があったが、
とんでもないと思えるような場面やセリフもあった。
 
前回から「戦いに鬼」になって執拗に「慶喜の首」を狙う
その西郷どんの大義名分「慶喜は、フランスに薩摩を売ろうとしている」だった。
 
それとは裏腹に寛永寺で謹慎する慶喜の床の間には「尊攘」の掛け軸があったし、
江戸の逃げ帰った(結局、将軍職就任から返上まで江戸にはいなかった)慶喜に対し
「フランスの力を借りて大阪湾から京を攻めっちまえばいいんです」という勝海舟の進言に、
慶喜は「その時こそ日本は終わる、日本は異国の手にわたる」と言って戦いをやめたという。
 
斉彬同様、結局「慶喜は名君であった」という流れになりそうな雰囲気だった。
西郷どん、次回「無血開城」で落とし前をつけるつもりだろうか。
 
ちなみに慶喜は、結局以下(思いつくままあげた)の誰よりも長生きした。このとき鳥羽伏見の戦いで32歳、そのご約45年を多種多様の趣味を大切に余生をエンジョイしている。
 
徳川慶喜 77歳 (大正2年)
家茂(前将軍)20 
勝海舟 75 
西郷隆盛 49 
愛加那 65 (西郷の3番目の妻糸子は84 大正11)
西郷菊次郎(西郷愛加那長男) 67 (原作では京都市長就任を前にインタビューに答える形で菊次郎が父の思い出を語るところから始まる)
大山菊子(同長女)48
一条美賀子(慶喜正室)58 
天璋院篤姫13代将軍徳川家定御台所 47 
木戸孝允 43 
井伊直弼 44 
坂本龍馬 31 
マシュー・ペリー 63
高杉晋作 27
伊東博文 68 
西郷従道 59 
徳川家康 73 
岩倉具視 57 
孝明天皇 35 
明治天皇 59 
島津斉彬 49 
島津久光 70
川口雪篷(沖永良部配流から帰還後西郷家の留守居役 書家) 73
===
教科書のような堅苦しいタイトルより、
思わせぶりのタイトルのほうが、視聴率的にもよいのではないだろうか。
最初の3か月は14パーセントもの好視聴率?を維持していた。
篤姫様は前回の予告編と同じくらいにしか登場しなかったし。
 
西郷どん
 
第1回薩摩のやっせんぼ 15.4%
第2回立派なお侍15.4%
第3回 子どもは国の宝14.2%
第4回新しき藩主14.8%
第5回相撲じゃ!相撲じゃ! 15.5%篤姫臨席の相撲大会で西郷、斉彬を投げ飛ばす。
第6回謎の漂流者15.1%ジョン万次郎の回でした。
第7回背中の母14.3%
第8回不吉な嫁14.2%
第9回江戸のヒー様14.8%
第10回篤姫はどこへ14.4%
第11回3月斉彬暗殺14.6%
第12回運の強き姫君14.1% 3月25日の放送
===========
 

9/16日『西郷どん』第35回「戦の鬼」 平均視聴率は前回より0.2ポイント下がって11.7% カステラに注目した。

2018年09月19日 | 歴史 民俗
9/16日放送『西郷どん』第35回「戦の鬼」平均視聴率は前回より0.2ポイント下がって11.7%(関東地区)
前回「西郷どん」34話。「将軍慶喜」9月9日は、関東11.9%、関西16.6%
9/2放送の第33話「糸の誓い」13.2%(関東)
 
34話は記事の投稿を忘れ、「将軍慶喜」はあっという間に大政奉還していた。
週に一度は行くことにしている書店にもいかなかった間に、西郷どんコーナー
は無く、そこに2019年の手帳が並び、大判のカレンダーもところ狭しと並べられていた。
 
街では2018 年 11 月 1 日(木)    (一部商品は 10 月 1 日(月))から販売を開始する、2019(平成 31)年用年賀葉書についてのご案内などという張り紙の見るようになった。
 
また、今日昼のニュースでは、大阪でおせち料理商戦がスタートした。
 
よの中もう来年モードで、2019年の大河ドラマは、日本マラソンの父といわれる金栗四三を主人公にした「いだてん」、もうすでに撮影も始まっている。
 
9月場所も中日をすぎ『西郷どん』もあっという間に、大きな山場にたどりついた。
 
西郷どんが、どうしても「慶喜を討つ」ち言って、15も歳の離れた弟信吾(従道)は「兄さあは鬼になってしもた。戦の鬼じゃ!」と何度も驚きなげく。(しかし、こうして従道は兄の苦手な清濁併せ呑むことを覚えたのかも知れない)
 
龍馬暗殺疑惑(ドラマでは、明らかに」説にみえた)、
江戸薩摩藩邸の焼討事件(西郷が仕掛け、これをきっかけに鳥羽・伏見の戦いが始まり、戊辰戦争へ)、
御所会議での「短刀一本あれば片が付く」発言など、
武断派としての西郷の負のイメージが一気にえがかれた。
 
 
西郷は懐からカステラを取り出す龍馬を見てピストルと勘違いして身構える。
龍馬は西郷がカステイラを受け取らないので一口だけ食べ、二口目を食べようとしが、手をとめ西郷の言葉に聞き入る。
西郷が「土佐が挙兵に加わらんでも薩摩だけになっても」そしてこのあとが「俺い一人になっても討って見せる。そう決めた」と言うのを聞き、二口目を食べるのをやめる。

そして「おまんとは乗る船がちがうようじゃ」
と言って歯型のついたカステイラを置いて部屋を出ていった。
畳の上の包み紙に残されたそのカステイラが大写しになる。

「俺い一人になっても討って見せる。
西郷は「慶喜を討つ」ことにナゼそれほどにこだわるのか。
前回「西郷どん」34話。「将軍慶喜」で
慶喜とロッシュのあいだでそのような密約(フランスに薩摩を割譲する)
話を西郷が知ったようなシーンがあったが、
3年前には、5年も奄美の島々で暮らし、島での薩摩の圧政を見た西郷は、誰よりその可能性を肌身で感じていたのかも知れない。実際ドラマでは防衛訓練も指導した。江戸っ子たちよりも早くペーリーの黒船を見た島んちゅの話も西郷は聞いているかもしれない。
 
余談ですが、会津、庄内両藩が戊辰戦争を前にプロイセン(ドイツ)との提携を模索したことを物語る文書をドイツの文書館で確認した
という2011年2月7日のニュースもある 維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認 朝日デジタル
 
さて、ドラマでは近江屋事件(坂本龍馬と中岡慎太郎、山田藤吉暗殺事件)が起こり
西郷や大久保、信吾らの前にお龍(おりょう楢崎 龍)が、西郷に向かって、あんたが龍馬を殺した、と怒鳴り込み
「あん人はなあ、・・・」「この窮屈な世の中を変えて、ただ商いがしたかっただけなんや」「船で世界の海を旅したかっただけなんや、なんで殺されなあかんのんや」
何が新しい時代や。こんなことになるんなら、そんなもんこんでええ」とたんかを切って立ち去る。
そこには、龍馬が立ち去ったときと同じく「ええじゃないか」の喧騒が。
 
 
・・・話がまとまらなくなってきた。
カステラは卵と小麦粉、砂糖、水飴を混ぜ合わせた生地を焼いて作る。
 

の時代の砂糖と言えば、奄美とつながる。
龍馬 カステラで検索すると龍馬のスイーツ男子としての一面がわかる。
龍馬は、海援隊の仲間たちとカステラを作り、商売をしようとしたかどうがはわからないが、現在「海援隊カステラ」が長崎で販売されているらしい。
 
話は8/26日放送『西郷どん』第32回「薩長同盟」に飛ぶ。
 
ドラマでは、薩長の若き留学生達が、が異国の地でともに苦労を分かち合う姿にスポットが当てられたが、原作ではスポットは「商売」であったところが面白い。
 
「西郷どん」林真理子著 上製版後編p111
「砂糖をやってみる気はなかか」
西郷は龍馬に持ちかける。
「薩摩には黒糖がある。そして船も。奄美大島はどこへ出るにも便利なところじゃ。ここに生糸と茶も集める。そいで上海まで持っていって売ってくれんじゃろか」
龍馬「商人は嫌いじゃなかったがですか」
「商人が嫌いなのではなか。武士が商人の真似ごとをすっとが好きではなか。じゃっとん考えてみっと、貿易などというものは商いの最たるもんかもしれんな」
これは西郷を知るためにも重要なセリフに思える。
龍馬「まっこと」
西郷「・・・大きな金が入ってくるからだけでなか。海の向こうの硝子玉のような目をした連中もおいたちと同じように生糸や綿や茶を欲しがる。そげん考えると何やら愉快な気持ちになってくるではなかか。海の向こうにもおいたちとそう変わりない人間が暮らしちょっと思えば、戦などつまらなぬことに思えてくる」 (ドラマでは西郷は常に非戦、反戦をこころがけている)
このあたりは西郷の5年にもおよぶ気候風土、文化の違う島での体験知見が生きているような。
龍馬「まっこてそうなんがです」
龍馬「・・・戦をせんように武器は備えておかんといかん。ましてや国内の戦など・・・」
龍馬の考えは憲法前文のいう「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するだけでは、「われらの安全と生存を保持」できないということだろうか。
 
関連このブログ
 
龍馬はカステラ商人ではなく、武器商人だったという説もあるが、
お龍がいうようにしたかったあた苦しい世の中を商売で変えるという点では
一貫していたといえる。
堅苦しい武士の世界で生きる西郷とも、ここまでは意見が一致していたのである。
龍馬は新しい世の中には必要な人だったが、自分は龍馬を救えんかったと、西郷は、お龍にわびる。
 
 

京都市長時代、妹(菊子)家族を呼び寄せ暮らした屋敷は「聖護院」内の一角/結婚間もない菊次郎と久子は新納家に2人して養子縁組で入っていた。

2018年09月07日 | 歴史 民俗
西郷菊次郎に関する新しい知見
1、菊次郎は妹の菊子、その次男・網則、次女・冬子を京都の屋敷に呼び寄せて、菊次郎家族と一緒に暮らしたのだが、その屋敷が門跡寺院「聖護院」内の一角であったのだ。
2、結婚間もない菊次郎と久子が、新納家に2人して養子縁組で入っていた。明治27年から約1年4カ月の間、菊次郎と久子は新納家の人間であったのだ。
 
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奄美大島の恩人であった新納久修(読み)にいろひさなが)は、いくつかの名を持つ。薩摩藩遣英使節団の引率、視察役の一人として鹿児島出国の際は石垣鋭之助。
wikipedia
新納 中三(にいろ ちゅうぞう/なかぞう)は、江戸時代末期(幕末)の武士。薩摩藩家老。通称の刑部でも知られる。字は久脩。諱が中三。維新後、七等判事、奄美大島島司。

明治4年(1871年)の廃藩置県で薩摩藩消滅後に退職するが、明治9年(1876年)に七等判事として新政府に出仕。その後また一時期退職したが、明治18年(1885年)奄美大島島司となり、特産品である黒糖の流通改革に従事。負債に苦しむ島民のために尽力したが、翌年に突然免官された。これは黒糖流通を独占していた鹿児島県商人による画策といわれる。しかしその後も中三は島民から救世の恩人と敬慕された。
明治22年(1889年)、没。享年58。

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いくつか下の記事 ↓26日放送『西郷どん』第32回「薩長同盟」10.4% 『24HTV』みやぞんゴール34.7%、平均視聴率は15.2%

(勝海舟が)えげれすにわたってろんどん大学というところで学んだちいうのは、
長州五傑(長州ファイブ)1863年 井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)のことだろう。主にユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)
 
西郷は「えっ、そいは本当でございもすか」と驚くが、薩摩藩遣英使節団というのもある。鹿児島中央駅前正面の「若き薩摩の群像」

3名の視察係(新納中三・五代友厚・松木弘安)と15名の留学生(薩摩藩第一次英国留学生)に通訳1名の計19人で1865年に渡英した。(長州ファイブに対して薩摩スチューデントともいわれる)
このうち新納中三は、明治18年(1885年)奄美大島島司となり、黒糖の流通改革に従事。負債に苦しむ島民のために尽力したことは、島の歴史ではよく知られている)


9/2日放送「西郷どん」第33話「糸の誓い」13・2% 前回から2・8Pアップ

2018年09月04日 | 歴史 民俗
2日放送「西郷どん」第33話「糸の誓い」13・2% 前回から2・8Pアップ
暗い幕末、あまりに暗い画面、まずしい西郷家の映像はなお暗い。
惰性でもついつい、ついつい見てしまう韓国ドラマ、「オクニョ」は日本の戦国時代16世紀中ごろの話だそうだが、登場人物の衣装も多種でカラフル、屋内、屋外とも明るい色彩に満ちているのと対照的だ。セット感に満ちている。
暗さで、低視聴率を予想したのだが、前回から2・8Pアップと健闘している。
ちなみに番組最高視聴率は、第5回「相撲じゃ! 相撲じゃ!」の 15.5パーセント 。
篤姫出演でやはりカラフルで明るい画面だった。健闘した奄美編も明るめだった。
 
今回
龍馬とお龍が薩摩に来た。そして、駐日英国公使ハリーパークスもやってきて西郷どんと会見した。
パークスもそうだが、その部下で通訳のアーネストサトウも、よく似ちょりもすな。
サトウは西郷どんが気に入りで「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしているが、しゃべるときの微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった。」一外交官の見た 明治維新 上
と述べている。
 
イギリス公使おさらい。
 
薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)1862年の時
初代の駐日英国公使であるオールコックは休暇で帰国中でジョン・ニールが代理公使として日本に着任し、薩英戦争の戦後処理にあたる。
この頃、西郷は沖永良部にいた。奄美大島に遠島中で、西郷との交流もあった重野 安繹(しげの やすつぐ 厚之丞)が一足早く帰還しており久光のお庭番になり、英大使館でのジョン・ニール側との薩英戦後和睦の談判にあたって講和に主導的役割を果たしている。
 
 
 
1864年にオールコックが公使に帰任すると、ジョン・ニールイギリスへ帰国した。
四国艦隊下関砲撃事件(1864年)、で、主導的な役割を果たしたオールコックの行動は、日本との全面戦争を避けたい英国政府の意向とあわず、オールコックは公使を解任された。
1865年パークスは、上司であるオールコックの後任公使に任命され、横浜に到着した。
 
ドラマは、1866年(慶応2年)。パークスはあのグラバーの仲介で鹿児島にやってきて
ナゼかナマコ料理を食べさせられ、ノーモアーなまこと怒ったのであった。
タイトルの「糸の誓い」とは、何だったのか、見逃した。
ちなみに原作では、京都市長の就任した奄美の息子西郷菊次郎の回想で、糸どんが奄美大島を訪れ、九歳の彼を迎えにくるシーンが語られる。
 

26日放送『西郷どん』第32回「薩長同盟」10.4% 『24HTV』みやぞんゴール34.7%、平均視聴率は15.2%

2018年09月01日 | 歴史 民俗
 
 
みやぞんゴールって何だろう?
==
 
孝明天皇による長州再征の勅命が下された。
これに対し、大久保は「非義勅命は勅命に有らず」と幕府に従おうとしない。
西郷は驚くが、例によって大久保に怒鳴られ「おはんは恐ろしか人間じゃあ」と納得。
二人連名の書付は慶喜、岩倉はじめ諸藩、公家へと広まる。
 
これは、古代中国の王朝の交代を説明する理論で、
徳を失った現王朝に天が見切りをつけたとき、革命が起きるとされた「易姓革命」論に通じる。
 
そしてこれは聖徳太子の『十七条憲法』の第三条
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、(承詔必謹)に反する。
君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)と せよと太子はいう。
 
「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」などと言えば話が複雑になるからやめる。
 
西郷に「おい達は間違ごうちょおらん!」と叫ぶ大久保。
勅命が万民が納得できないものであると判断するのは誰なのか?主観的唯心論の陽明学のもつ毒にも通じる。また複雑になった。
さて、
ドラマの薩長同盟締結の場面では、意地をはり、互いに譲らない薩摩と長州を
竜馬がわじわじしながら見ている。現実主義の薩摩が頭を下げ、長州が負けたと認めてドラマはうまくまとまった。(それにしても伊藤俊輔(博文)の服装や立ち居振る舞いは、あまりに小物足軽風で・・・初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣になるのだからもう少し・・・)
 
原作では勝海舟が「いいですか、西郷さん。あたしからすれば薩摩と長州はよく似てますよ」
「どちらも独りよがりで、思いこんだら決して曲げない。それよりなによりあなたたちと長州は力をもっている。・・・
「長州というところは面白いですよ。こんなに長いこと攘夷攘夷と叫んでいるくせに、去年、とっくに若い者たちをえげれすに行かせているのですよ。」上製版 後編p73
 
えげれすにわたってろんどん大学というところで学んだちいうのは、
長州五傑(長州ファイブ)1863年 井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)のことだろう。主にユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)
 
西郷は「えっ、そいは本当でございもすか」と驚くが、薩摩藩遣英使節団というのもある。「若き薩摩の群像」(長州ファイブに対して薩摩スチューデントともいわれる)
3名の視察係(新納中三・五代友厚・松木弘安)と15名の留学生(薩摩藩第一次英国留学生)に通訳1名の計19人で1865年に渡英した。
 
このうち新納中三は、明治18年(1885年)奄美大島島司となり、黒糖の流通改革に従事。負債に苦しむ島民のために尽力したことは、島の歴史ではよく知られている)
 
共に関ヶ原負け組である薩摩と長州は、海舟がいうように似ているところもあるが、
原作で西郷の相思相愛の女お虎はこう言っている「祇園ではおさむらいはんとゆうたら、やはり長州のお方どす。薩摩はまるであきまへん」「薩摩のお方はケチ(吝嗇)やさかい。そこいくと長州はんは金払いがええうえに、男前どす」
 
薩長同盟締結は(1866年)。薩摩藩遣英使節団の渡英は1865年だった。
 
ドラマでは、この薩長の若き留学生達が、が異国の地でともに苦労を分かち合う姿にスポットが当てられたが、原作ではスポットは「商売」であったところが面白い。
 
上製版後編p111
「砂糖をやってみる気はなかか」
西郷は龍馬に持ちかける。
「薩摩には黒糖がある。そして船も。奄美大島はどこへ出るにも便利なところじゃ。ここに生糸と茶も集める。そいで上海まで持っていって売ってくれんじゃろか」
龍馬「商人は嫌いじゃなかったがですか」
「商人が嫌いなのではなか。武士が商人の真似ごとをすっとが好きではなか。じゃっとん考えてみっと、貿易などというものは商いの最たるもんかもしれんな」
これは西郷を知るためにも重要なセリフに思える。
竜馬「まっこと」
西郷「・・・大きな金が入ってくるからだけでなか。海の向こうの硝子玉のような目をした連中もおいたちと同じように生糸や綿や茶を欲しがる。そげん考えると何やら愉快な気持ちになってくるではなかか。海の向こうにもおいたちとそう変わりない人間が暮らしちょっと思えば、戦などつまらなぬことに思えてくる」 (ドラマでは西郷は常に非戦、反戦をこころがけている)
このあたりは西郷の5年にもおよぶ気候風土、文化の違う島での体験知見が生きているような。
龍馬「まっこてそうなんがです」
龍馬「・・・戦をせんように武器は備えておかんといかん。ましてや国内の戦など・・・」
竜馬の考えは憲法前文のいう「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するだけでは、「われらの安全と生存を保持」できないということだろうか。
====
 
 

大河ドラマ 西郷どん 第32回「薩長同盟」は26日放送

2018年08月23日 | 歴史 民俗

 
仲介役の土佐の坂本竜馬、薩摩の家老・小松帯刀(こまつ・たてわき)、西郷隆盛、大久保利通と
長州藩の木戸孝允(貫治)の四人がが顔をそろえる京の森脇町の近衛家別邸(小松が借りている、准薩摩藩邸)の「御花畑」とよばれる広大な屋敷は、
↑「西郷どん! 上製版 前・後編 – 2017/11/1
林 真理子 (著)」の後編 P117 あたりに、さらっと登場する。

原作本は、ほかに『西郷どん! 」並製版 上中下巻 – 2017/11/1
林 真理子 (著) 同じく角川の二種がある。
名瀬の書店にはまだどちらもある。

 


西郷どん:第31回「龍馬との約束」視聴率11.0% 最低の前回から0.7 p微増

2018年08月21日 | 歴史 民俗

5分で分かる「西郷どん」第31回『龍馬との約束』

↑ クリックして別ウィンドーのYoutube 版でご覧いただくことになります。

西郷どん:第31回「龍馬との約束」視聴率11.0% 最低の前回から0.7 p微増
録画を忘れてしまい、5分でわかる西郷どん31回 で見た。
再びの長州征伐へ。
長州の桂小五郎(木戸孝允)と会うべく西郷は下関へ向かおうとするが
公方様が上洛(徳川 家茂( いえもち)14代征夷大将軍が第2次長州征伐のため京へ向かう)するとの知らせを受け、急遽京へ。
約束をすっぽかされた、と西郷をなじる龍馬。
海江田 信義(有村俊斎=三弟は桜田門外で井伊直弼の首級をあげた有村次左衛門)が、西郷に頼まれた欠席の手紙を意図的に届けていなかったのだ。
龍馬の信頼もなにもかも失のうたぜよ。この時の龍馬は西郷隆盛どんに対し、すごみ過ぎ。西郷どんが小さく見える。
下関、約束、京とくると、西郷徳之島流罪の状況を思い浮かべてしまう。←あまり関係ない。
落ち込む西郷に大久保が気合一発、叫ぶ「チェスト~っ・・・ははは気張れ!」で、毎回終わるのは、ちょっとあれだなあ~。
薩長同盟は諸説あって分かりにくいが、とても5分では、あいや45分でも分かるまい、と思うところ。
次回は録画忘れずに。
 

 


西郷どん 第30回「怪人 岩倉具視」 笑福亭鶴瓶が怪演も視聴率10.3% 番組ワースト

2018年08月14日 | 歴史 民俗

↑ パラパラとめくってみたが、妖怪岩倉には、ほんのすこししかふれていない。登場人物たちの言葉づかいもTVよりずっとやわらかだ。

=====5分で分かる「西郷どん」第30回『怪人 岩倉具視』 https://youtu.be/UUNg-oJxd2U

西郷どん 第30回「怪人 岩倉具視」 笑福亭鶴瓶が怪演も視聴率10.3% 番組ワースト
 
最低視聴率は、 岩倉具視の出番が多すぎたせいなのかも知れないな。
維新の三傑がそろって岩倉の賭場で、賭けに興じるなど、面白すぎて、おもろない、と
思われたのかも知れない。
東日本の人たちだけでなく長州のひとにも逃げられたのかも。
これまでの登場人物が、ときどき一斉に消えたり、長い間でなくなるのもさびしい。
でもま、笑福亭鶴瓶さんの顔と怪人 岩倉具視の顔は、聞いただけではピンとこなかったが
演技を見ていると、あの旧500円札の岩倉に似てくるから不思議だ。
ネットショッピングのページでは、旧札が3700円とか7000円などの数字がおどっている。
ま、あれですね、大久保や西郷が薩摩の殿からとか言って金を渡す。
それをひったくるように懐にいれる岩倉。
それっち、島津の殿が島のサトウキビを搾りにしぼって、さらに島民の必需品も高く売って商売して
儲けた金じゃないか、などと彼岸で見たりしたので楽しめたのだが。
===
いまでは教科書からも江戸時代の「士農工商」という表現は消えた(それほど身分は固定的ではなく、現実に施行された制度ではないことが1990年頃から理解されるようになった)そうだが、
官尊民卑、男尊女卑などの封建的イメージの強い(かった)鹿児島藩が
じつは、儒教では卑しいとされる金儲けや、密貿易、さらには贋金作りなど
堂々?とやっていたところが、薩摩の強さ、おもしろさで、それが維新の原動力にもなり、
これからドラマでは、攘夷、攘夷と観念論的なアブナさが見ていられない長州が描かれそうだが、アブナイ長州の原動力(長州も商売をした)がなければ欧米列強のアジア進出で阿片戦争、アロー戦争などで半植民地化の道へ突き進まざるをえなかった清国の二の舞になったかもしれない、という歴史の面白さ不思議さ。
その薩長同盟は、次の次32回で成立するという。あ、坂本龍馬も教科書から消えていくらしい。
あゝ昭和も遠くなっていく、平成最後の夏、明治維新150年。
ーーー
西郷と岩倉は、いくらか共通点もなくはない。調べてみた。
西郷は貧しい下級武士の出身とうたわれるが、西郷家は貧しくはあるが城下士で、武士人口が全国平均の2倍あまりも高い薩摩藩には、その下に外城士(郷士)や郷士格(奄美にもあるんですよ)などさらに低い身分の多くの人たちがいる。土佐藩の武士階級はやや複雑だが、商家出身で下士の坂本龍馬は裕福ではあったが身分的には西郷の方が上だろう。(西郷と岩倉は、身分が低いということと貧困にあえいだ経験を持つという意味では似ている)

一方の岩倉。名門五摂家鷹司政通へ歌道入門したり、朝廷改革の意見書を政通に提出し下級公家にすぎない岩倉具視は、朝廷首脳に発言する機会を得ているが、
これも西郷が斉彬に農政改革の意見書を提出して、大抜擢されたことと似てなくもない。大久保も久光の好きな碁をならい殿にの信頼を勝ち得ている。また、岩倉は、天皇にも親幕派と疑われ、1862年蟄居命令を受け、帰参が許される慶応3年(1867年)まで、岩倉村で5年間も蟄居生活を送ることとなるが、
西郷の島暮らしも、時間的に3年ほどの差があるが計5年ちかくにおよぶ。奄美島に安政6年(1859年)から3年半ほど、そして沖永良部島から鹿児島に帰ったのは元治元年(1864年)2月。
 
====関連記事 このブログ 西郷どん 第29回「三度目の結婚」視聴率11.6%

奄美大島 龍郷町の仏像墓 1725年ごろの奄美

2018年08月13日 | 歴史 民俗

 

奄美市名瀬から、国道58号線で龍郷町役場の前の交差点を左折して県道81号線に入りしばらく走ると、

ここへ着きます。↑ ↓

県道から別れ、西郷南洲流謫跡の方へ左折。

数十メートルで、ここ↑↓に至る。

流謫跡へ行かず、仏像墓へ左折します。

↑↓ すぐに、西郷と愛加那も利用した伝わる「愛加那の泉」イジュンゴが見えます。

愛加那の泉」から数百メートルでしょうか、道が分かれ案内板があります。↑↓

少し行くと、説明版があり、左折して未舗装の道路に入ります。

時によって道には草が生い茂っている場合があります。墓まで、あと数十メートルでしょうか。

↑ 行政機関による説明版

仏像墓

路は行き止まりで、車のUターンは時に容易ではありません。

より詳しくは 関連記事 2005年2/3日のこのブログ 仏像墓、1725年ごろの奄美

 


西郷どん 第29回「三度目の結婚」視聴率11.6%

2018年08月07日 | 歴史 民俗

奄美大島 龍郷町 西郷隆盛上陸の地前の海

 

まず、先週見逃した場面から。
「西郷はどうだった?」と勝海舟に訊かれて
坂本龍馬が、初めて会った西郷の印象を語る。
あの有名な「小さく打てば小さく響き、大きく打てば大きく・・・」
と答え、「よくわかってんじゃねえか」と勝。
「当たっちょりますか?」
「大当たりだ、小さく打ったお前が、まだまだ小さいってことだよ、はっはっはっ」
龍馬の西郷評は、考えるほど名言になってくる。
「大きく揺れちょう鐘」っちゅうのもいい。
 
今でも西郷評は揺れている。時代が混迷の度を増すごとに
西郷が語られ続けている。
龍馬の言には、うかつに西郷を語ると西郷に「試されてしまう」という含意もあるのだろう。
西郷ほど毀誉褒貶の激しい歴史上の人物はいない。と海音寺潮五郎は言っている(要出典)。
私が島の学校を卒業するころは、あまり西郷西郷ち言うと、無知だ、右翼だ
とか言われそうな雰囲気だった。
 
海音寺潮五郎はこうも言っている「大久保はフランス式の内務省を設置し、日本を一種の警察国家組織にすることを考えていたのであり、西郷は富国強兵を超えた向こうに、道義国家の建設を考えていたのです」(史伝『西郷隆盛』第一巻)西郷隆盛』 第一巻 単行本 – 2007/11/7 海音寺 潮五郎 (著)

とまあ、龍馬の言うように大きくたたいたつもりのものですが、
 
勝海舟「氷川清話」
「成程西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといつたが、坂本もなかなか鑑識のある奴だよ」
 ----
 
5分でわかる西郷どん 29回 https://youtu.be/gr5Wf9qrvvY
 
今週のシーンは、そんな西郷の大馬鹿者に、大きく響いた、三度目の嫁、糸さんとの会話。
ナゼか大久保との違いも西郷自ら語っていたので。

子ができず離縁され、出戻りとなっていた糸に、♪嫁に来ないか♪、いや「あん家に来てくれもはんか」っち言いに糸の家を一人訪ねる西郷。
あの貧乏な家にである、しかも理由は「家のもんも喜んびもす」
 
西郷糸子wikipedia 薩摩藩士である岩山八郎太直温の次女として生まれる。
元治2年(1865年)、西郷隆盛と結婚する。隆盛は3回目、糸子は再婚。
隆盛との間に寅太郎・牛次郎・酉三の子どもを産む。また、隆盛の奄美大島における島妻である愛加那(愛子)との子である菊次郎・菊(菊子)を引き取り養育した
 
実況
「糸どんさえ良ければ、あん家に来てくれもはんか?」
糸どんが来てくれたら家のもんも喜んびもす」
「吉之助さあは、昔からやさしかあー、居場所のなか私を憐れんで貰ってくれようっち
しちょっとではありもはんか?」
「いやそいは違う、おいには、おなごを憐れんだり、おなごに惚れたりしっちょう暇はなか。
そいばかりか、いつまでこん命が持つかさえわからん」
「糸どんじゃってん言うが(糸さんだから言うのだが)、おいは今、とんでもなかこつを
しようっち、しちょうお(しようとしている)、日本中がひっくり返るような・・」
「日本中がひっくり返る?」
「おいはのう、民のための国っちゅうもんを作りたか(作りたい)みんなが腹いっぱい飯を食って、笑って生きていける国を作りたかとじゃ、そんためにはどげんしてもやらんならんこつがある。一蔵どん(大久保)には分かってもらえんかった。じゃっどん糸どんならおいの志をわかってくれそうな気がして・・・一人でも分かってくれる人がいたら・・こころ強か。・・どげんな」
・・・・
「すんもはん」
「そうか、・・うん、・・・無理を言うたな」・・・・「ごちそうさん」
家に帰り、結果報告、
何っちいうだんじゃと問う、島(沖永良部)帰りの川口 雪篷
「惚れる暇はなかどん、家のもんが喜ぶっちゅうて」
「惚れる暇はなかち、はっはっはっはっは、おなごにそげな事いうたことがいちばんじゃっとが、おおばかものめが、はっはっはっはっは」ひざと床をたたいてあきれる。
弟の嫁「嘘でもおなごは惚れたと言うて欲しいですよ」
弟「父上も言うちょおられもした。まず、相手に惚れるこっちゃ!そっから夫婦は始まるっち」
みんなあ、申し訳なか
「もうよか!兄さあのやっせんぼう(役せぬ坊ー役立たず)は死ぬまでなおらん」
一同「うわっははは」
 
=====糸の実家
糸の父上(有名な俳優さんでなかところがよかった)「糸、西郷どんは、今日、旅立つそうじゃ・・よかとか?」
「いいもないも・・・」
「おはんには、すまんことをしたち、ずーっと思っちょった・・わしが決めた縁談で、つらか思いをさせてしもうて・・・」
「父上ぇ・・・」
「こんどは、・・こんどは・・・、おはんが決めたらよかっ!」
子が泣いているがなっち言って糸に、なんばっしっととな、と責める姉。
糸っ!なんよが、ぬくぬくしっちょとっとな!」(なんで、ぼっとぼっと、しているのか)
父「じゃかましかっ! 自分の子っじゃっとがっ!」正座の両膝をはげしく叩いて激怒の父上。
「糸、も、二度と会えんかも知れんどっ!」
「父上・・」
糸、西郷どん言葉を反芻する。
 
「おいはのう、民のための国っちゅうもんを作りたか(作りたい)みんなが腹いっぱい飯を食って、笑って生きていける国を作りたかとじゃ」、そんためにはどげんしてもやらんならんこつがある。一蔵どん(大久保)には分かってもらえんかった。じゃっどん糸どんならおいの志をわかってくれそうな気がして・・・一人でも分かってくれる人がいたら・・こころ強か。・・どげんな」
 
父上に深々と一礼して、糸は持ち前の健脚で甲突川河畔を駆け、懸命に西郷を追う。
いつもよく出るあの木の橋だ。
「糸どん・・・・どげん(どう)した?」
「死んだら、やっせん(役に立たない、ダメ)。待っちょります。あの家でお帰りをまっちょりもす。」
 
まあ、セリフとしては、ここらでよかろち思ったが・・・。
 
「西郷吉之助の妻として、新しか国を見たか
ふつつかものじゃっどん、よろしくお願いいたしもす」
「西郷吉之助、チェスト、気張れ~」は西田さんが言うのも、ちと、あれなんですが、
この場面の糸どんが言うと、どうなのだろう。
チェストっち、島でいう、「ちゃ、すっとごれ」という意味だろうか。
 
========視聴率 前回より0・5ポイントアップ
 
西郷どん
第29回「三度目の結婚」視聴率11.6% 吉之助に再婚話 柏木由紀が初登場! 
毎日新聞
NHK「西郷どん」異例の現象“西高東低”視聴率 局関係者も驚き
2018年8月5日 8時0分 スポニチアネックス

『西郷どん』久々の「良回」、歴史はイマイチだが恋愛描写は秀逸…いよいよ西郷隆盛が覚醒?
ビジネスジャーナル
などの見出しがならんだ。
 

7/29日放送「西郷(せご)どん」第28話「勝と龍馬」

2018年08月01日 | 歴史 民俗
7/29日放送「西郷(せご)どん」第28話「勝と龍馬」
平均視聴率が11・1%だった。
過去最低の第16話「斉彬の遺言」11・1%に並んでしまった。
==

後半あと15分ほどのところからしか録画できず、「勝と龍馬」との面会の場面は見逃した。
第一次長州成敗の場面であろうか、征長総督の徳川慶勝(よしかつ尾張藩前々藩主)が、陣羽織姿で、自らが征長軍全権を委任し参謀格となった西郷に、よくやったとかいう場面から録画されていた

これは二人の間で事前に合意(この時西郷は、慶勝から脇差一刀を与えられている)のあった長州藩降伏のプロセスがうまくいったことに対するねぎらいの言葉であったであろうか。
 
しかし、西郷のこの長州に対する寛大な処置は慶喜の怒りを買う。
 
この西郷と慶喜の対面の場面を、今週の一場面にしよう。

「腹を切れ」怒りのあまり、慶喜は牛男、西郷に、そう言い放ってしまった。
とんでもない話だが、

これに、たいし、西郷もとんでもない行動に出た。

西郷の凄みにおののく慶喜の股の間の畳に、牛男が、刀痕も鮮やかに短刀を突き刺してしまったのであった。

期将軍と目される慶喜に対し、あわや刃傷沙汰か?
これは、無位無官の国父久光に対し「田舎者」とののしった、あの話とは、ちと違う。

島帰り(沖永良部)の西郷が、少し大人になっていたのは、7/15日放送の「西郷、京へ」(視聴率12.2%)であった。
王様に向かって、裸と言ってのける子供のような西郷の純な気持ち、それはかつて慶喜が「俺にくれ」といった「熱き心」でもあったのだが、おそろしい熱い心を見てしまい、ここで慶喜は西郷から絶縁を宣言されてしまう。
 
「西郷の短刀」と言えば思い出すのは、今から約4年後の、あの「小御所会議」。
 
大政奉還した徳川慶喜の官職の辞職と徳川家領の削封が決定され(徳川慶喜の辞官納地)
「王政復古クーデター」と呼ばれることにもなったあの会議でのこと、
紛糾で休憩に入り、
 
西郷が大久保のに漏らした「短刀一本あれば片づく」の一言が、倒幕派の計画通りに決議されることになり歴史を動かした一言となったのであった。また西郷のこの一言は、西郷に対し否定的に「武断派」のレッテルを貼る論拠のひとつのエピソードにもなっている。
 
と、話はすこし飛んだが、慶喜のまたぐらに刺したこの短刀は、
6/3日放送の第21回(「別れの唄」平均視聴率は12.0%)で、
西郷を説得するため、あろうことか奄美大島まで大久保がやってきて
愛かなに託したあの短刀なのではなかろうか。
 
それは、たしか斉彬から「なんにでも命を懸けるものではない」とかいっていただいたのでななかったか。
 
===関連記事 このブログ

22日放送「西郷どん」第27回『禁門の変』の視聴率は 12・0% 前回(西郷、京へ)から0・2ポイントダウン

2018年07月24日 | 歴史 民俗

5分で分かる「西郷どん」第27回『禁門の変』

22日放送「西郷どん」第27話(禁門の変)の視聴率は
12・0% 前回(西郷、京へ)から0・2ポイントダウン
相変わらず「展開がわかりにくい」「説明不足」「史実と違う」など、批判も多いようだ。
このあたりの幕末史は、状況が複雑で目まぐるしく変わり、登場人物も多く、
ただでさえ分かりにくい。いちいち説明していたら教科書のようでなおさらわからなくなりそうだ。
そうなると「長州力のラリアット」など描く隙間もないだろう。
==
視聴から時間が経ってしまった。
冒頭、とってつけたような展開で、西郷どんが桂小五郎と出会う。
桂小五郎といえば「逃げの小五郎」、
逃げと言えば、慶喜も鳥羽伏見では、勝利の見込みがありながらの「敵前逃亡」で有名。「二心殿」とも呼ばれている。
そして西郷だって「隠遁癖」でゆうめい。最後は島で暮らすつもりだったのでは、と思えなくもない。
あの高杉晋作だって藩を見限り、西行をもじって「西へ行く人を慕うて東行く 我が心をば神や知るらむ」と歌い、暇ももらい東へ逃げた。
日本中が尊王攘夷、倒幕 開国と、ホンネとタテマエもその時々で微妙に違う。
うっかりホンネをもらすと殺されかねない時代。
単純なやつだって、やはりあぶない。
慶喜がいうように「誰が敵か、味方がわからない」
しかし、この場合の「逃げ」は、卑怯にはけっして直結しない。
うがった見方をすれば西郷と桂のシーンは、今後の「革命」において、このことを暗示しているのかもしれない。
一橋邸を出てすぐ西郷が物乞い風の桂に言う
「侍の本懐はのう、いくさするこっちゃなか、おはんが民の暮らしを守るこっちゃ」
流血を避ける今後の西郷どんの戦いに通じるのだろうか。
桂は、維新の三傑で筆頭に挙げられる木戸孝允のことで、今回は西郷隆盛、大久保利通
と、そろった。
英傑たちはみな一筋縄の理解ではとらえられない。ということだろう。
誰も信用できなくなった慶喜が前回、西郷に「お前の熱きこころを俺にくれ」
と言ったのも、これまたうがった見方をすれば、
思想家、宗教家内村鑑三が『代表的日本人(Representative Men of Japan)』明治41年(1908)で西郷を筆頭にあげ高く評価していることに通じる。
宗教家として内村は西郷の純粋な心、まごころ、慶喜のいう熱きこころ、
に共感したのだろうと思って、冒頭の「西郷どんが桂小五郎と出会う」を今週のいち場面に選んだ。
そう思うとなかなか「美しい歴史」を描こうとしているようにも思える。
「嘘偽りのない歴史」というのもむずかしいものだ。
「りきラリアット」は気がつかなかった。あとで録画で確認しよう。
プロレスがTVのゴールデンタイムから消えてもう何十年たったのだろうか。
長州力さんは、歴史番組などでもお目にかかっている。