1858年(安政5)年~59、安政の大獄。
薩摩藩主 斉彬急逝。
西郷隆盛は、勤王の僧・月照とともに、たしか鹿児島の錦江湾に身を投ずる。
ひとり死にばくらした西郷は、菊池源吾と名を改め、59年1月12日、ここへ上陸した。
その時、乗ってきた藩の黒糖運搬船「福徳丸」の、とも綱を結んだ松の木が西郷松(地図)。幾度の台風に耐えたのでしょうか。
約3年、「巨竜」西郷は三年間、ここ奄美大島竜郷(龍郷)に潜むことになった。
(以下看板書き参考)
62年1月29日、鹿児島召還のときもここから乗船。
62年6月12日、薩摩藩主島津久光公の怒りを受け、再び徳之島、のちに沖永良部へ流される。
64年(元治元年)2月11日、沖永良部から赦免召還、帰鹿の途中この地に上陸、愛加那母子と面会。
と、ここまで看板に書いてあるのを見てきて、困った。次の件、65年(慶応元年)2月26日この地より乗船し、帰鹿、愛加那との最後の別れとなる、とあった。
一年も会っている暇はなかったはず。慶応改元の勘違いか。
(1865 4月7日/慶応に改元)
インターネットは便利です。
龍郷湾のまわりは、とても景色のいいところですが、近世史の宝庫でもあるのだそうです。
奄美の郷土史の研究をする人は、西郷さんについて鹿児島へ行くと、日本史の研究もしマイ=(ねばならない)なので大変です。明治維新です。沖縄との関係にも目を向けると世界史になります。
郷土史の研究がそのまま日本史の研究になるというのは、うらやましいという見方があるそうですが、そういう見方が普通でしょうか。
西郷翁上陸の碑の後ろ側の碑文には「NHK大河ドラマ翔ぶが如く 放送記念碑」とありました。
2004.06.18
西郷南州謫居跡は、ここから1キロ少し離れています。
《余談》 江戸城の無血開城をめぐって西郷と会談した勝海舟が、謫居中の西郷を訪ねて、龍郷へ来たという話が、『海舟座談』という本にあるそうです。
「西郷松せんべい」は9日の記事になりました。
勝海舟・西郷隆盛について書かれてましたので、幕末の英雄つながりで、フォーラムの案内をさせていただきたいと思います。
今月11日に山岡鉄舟全国フォーラムを開催いたします。
関心のある方はどなたでもご参加いただけます。
http://www.tessyuu.jp
私はフォーラムには行けそうもありませんが、
これから勉強したいと思います。
一人でも多くのかたが参加され、奄美にも興味をいだいていただければ、うれしいです。
幕末の英雄つながりで。