「正倉院展」を見た翌日、「なら仏像館」へ向いました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/43/ee44d0a9203f48acabc86914bba862bf.jpg)
15時頃、博物館のあたりはたくさんの人出でした![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/1b/a2755733552c27bb0c24af6c32c93c68.jpg)
正倉院展を見ようとしている人たちの列![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/4e/a2808acada88919219e7f68a975ee4a7.jpg)
30分待ちです![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/09/d698fa730702bc523a56434eae83e9ec.jpg)
なら仏像館の案内看板
珠玉の仏たち
なら仏像館![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/6f/62b3e74206fbc66dc63c0b18ef5fd2ed.jpg)
珠玉の仏たちが展示されている中で、印象に残ったのは、
●釈迦如来立像(出山釈迦立像) 室町時代 痩せ細った人間の姿のお釈迦様です。
●兵庫・浄土寺の阿弥陀如来立像 鎌倉時代 快慶作 大きくて、スラッとしていて、輝いていました。
でした。
なら仏像館
------------------------------------------------------------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA_(%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B8%82)より引用
浄土堂
浄土寺浄土堂(「阿弥陀堂」とも言う)は重源によって建てられたもので、本尊として快慶作の阿弥陀三尊の巨像を安置する。堂は建久5年(1194年)に上棟し、同8年(1197年)に完成供養を行ったと記録されている。渡宋経験のあった重源は、大仏殿をはじめとする東大寺諸堂の復興や各地の別所寺院の建築に際し、当時の中国(宋)の最新式の建築様式を採用した。これが現代において大仏様(かつては天竺様とも呼んだ)と呼ばれる建築様式で、鎌倉時代以後の寺院建築に大きな影響を与えたが、重源が手がけた大仏様建築で現存するものは他に東大寺南大門と同寺開山堂のみである。
堂は方三間〈正面・側面とも1辺に柱が4本立ち、柱間が3つあるという意味)の単純な平面構成になるが、1つの柱間が約6メートルもあり、内部空間は広大である。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり、四角錐状の屋根形)、本瓦葺きで、平面の大きさの割に立ちが低いことと、屋根の形づくる線にほとんど反りがなく直線的であることが特色である。比較的地味な外観に比し、堂内部は貫(ぬき)、梁(はり)などの構造材をそのまま見せたダイナミックな構成になっている。天井を張らず、屋根裏に空間をつくらず、構造材をそのまま見せて装飾を兼ねていること、貫(複数の柱を貫通する水平材)を多用することなどが大仏様建築の特色である。
阿弥陀三尊像
浄土堂中央の須弥壇に安置される。仏師快慶の代表作。巨大な三尊像で、阿弥陀如来は像高5m30cm(須弥壇を含めると7m50cm)、両脇侍の像高は各々3m70cmある。(右・観音菩薩、左・勢至菩薩)快慶は重源とは近い関係にあり、熱烈な阿弥陀信者だったことが知られている。快慶の作品には像高3尺(約1メートル)の阿弥陀像が多いが、本作は珍しい大作である。3体とも立像であり、各像の立つ蓮華座の下には雲が表されていて僅かに阿弥陀三尊が前に傾いてることから西方極楽浄土から飛雲に乗って来迎する情景を表現したものである。また中央の阿弥陀如来像の特徴として、人々に差し伸べられているのは右手、ほかの阿弥陀仏が左手なのとは逆の造りで、爪は長く伸びている。作風には当時流行の宋風が顕著である。 浄土寺の阿弥陀三尊の脇侍は左右逆配置である、この配置は密教寺院に存在する様で「阿唎多羅陀羅尼阿嚕力経」や「観自在最勝心明経第九品」などの「密教系経典には右観自在・左大勢至とす」云々の記述がある。
浄土堂は境内の西、すなわち極楽浄土の位置する側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立つ。堂の背後の蔀戸(しとみど、建物の内側または外側へ跳ね上げる形式の戸)を開け放つと背後からの光が入るようになっており、晴れた日の夕刻には堂内全体が朱赤に深く輝くように染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現すという劇的な光の演出効果を備えている。その際、遠方の溜池群が西方の光を運び込む装置として機能することまで、作者重源は巧みに計算していたという意見もある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/43/ee44d0a9203f48acabc86914bba862bf.jpg)
15時頃、博物館のあたりはたくさんの人出でした
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/1b/a2755733552c27bb0c24af6c32c93c68.jpg)
正倉院展を見ようとしている人たちの列
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/4e/a2808acada88919219e7f68a975ee4a7.jpg)
30分待ちです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/09/d698fa730702bc523a56434eae83e9ec.jpg)
なら仏像館の案内看板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/da/f56248c8bdecc35628ac89eb8afa7840.jpg)
なら仏像館
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/6f/62b3e74206fbc66dc63c0b18ef5fd2ed.jpg)
珠玉の仏たちが展示されている中で、印象に残ったのは、
●釈迦如来立像(出山釈迦立像) 室町時代 痩せ細った人間の姿のお釈迦様です。
●兵庫・浄土寺の阿弥陀如来立像 鎌倉時代 快慶作 大きくて、スラッとしていて、輝いていました。
でした。
なら仏像館
------------------------------------------------------------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA_(%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B8%82)より引用
浄土堂
浄土寺浄土堂(「阿弥陀堂」とも言う)は重源によって建てられたもので、本尊として快慶作の阿弥陀三尊の巨像を安置する。堂は建久5年(1194年)に上棟し、同8年(1197年)に完成供養を行ったと記録されている。渡宋経験のあった重源は、大仏殿をはじめとする東大寺諸堂の復興や各地の別所寺院の建築に際し、当時の中国(宋)の最新式の建築様式を採用した。これが現代において大仏様(かつては天竺様とも呼んだ)と呼ばれる建築様式で、鎌倉時代以後の寺院建築に大きな影響を与えたが、重源が手がけた大仏様建築で現存するものは他に東大寺南大門と同寺開山堂のみである。
堂は方三間〈正面・側面とも1辺に柱が4本立ち、柱間が3つあるという意味)の単純な平面構成になるが、1つの柱間が約6メートルもあり、内部空間は広大である。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり、四角錐状の屋根形)、本瓦葺きで、平面の大きさの割に立ちが低いことと、屋根の形づくる線にほとんど反りがなく直線的であることが特色である。比較的地味な外観に比し、堂内部は貫(ぬき)、梁(はり)などの構造材をそのまま見せたダイナミックな構成になっている。天井を張らず、屋根裏に空間をつくらず、構造材をそのまま見せて装飾を兼ねていること、貫(複数の柱を貫通する水平材)を多用することなどが大仏様建築の特色である。
阿弥陀三尊像
浄土堂中央の須弥壇に安置される。仏師快慶の代表作。巨大な三尊像で、阿弥陀如来は像高5m30cm(須弥壇を含めると7m50cm)、両脇侍の像高は各々3m70cmある。(右・観音菩薩、左・勢至菩薩)快慶は重源とは近い関係にあり、熱烈な阿弥陀信者だったことが知られている。快慶の作品には像高3尺(約1メートル)の阿弥陀像が多いが、本作は珍しい大作である。3体とも立像であり、各像の立つ蓮華座の下には雲が表されていて僅かに阿弥陀三尊が前に傾いてることから西方極楽浄土から飛雲に乗って来迎する情景を表現したものである。また中央の阿弥陀如来像の特徴として、人々に差し伸べられているのは右手、ほかの阿弥陀仏が左手なのとは逆の造りで、爪は長く伸びている。作風には当時流行の宋風が顕著である。 浄土寺の阿弥陀三尊の脇侍は左右逆配置である、この配置は密教寺院に存在する様で「阿唎多羅陀羅尼阿嚕力経」や「観自在最勝心明経第九品」などの「密教系経典には右観自在・左大勢至とす」云々の記述がある。
浄土堂は境内の西、すなわち極楽浄土の位置する側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立つ。堂の背後の蔀戸(しとみど、建物の内側または外側へ跳ね上げる形式の戸)を開け放つと背後からの光が入るようになっており、晴れた日の夕刻には堂内全体が朱赤に深く輝くように染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現すという劇的な光の演出効果を備えている。その際、遠方の溜池群が西方の光を運び込む装置として機能することまで、作者重源は巧みに計算していたという意見もある。