小旅行のつもりで、房州は成田山新勝寺を訪ねる。
平安初期の天慶三年(940年)二月十四日、平将門の怨霊除けとして開山した真言宗智山派の大本山で、
江戸時代からは山號を屋号に持つ市川團十郎家とも縁を結ぶ。
大本堂裏手の額堂には、
江戸を追放後一年ほど身を寄せてゐたと云ふ七代目團十郎の石像が遺り、
また大本堂に隣接する成田山公園内にはかつて、六代目市川團蔵と並ぶ七代目團十郎の銅像もあった。
(※左が六代目團蔵、右が七代目團十郎)
六代目團蔵の養子で紆余曲折波瀾萬丈の名優七代目團蔵によって建立されたものだが、第二次大戰末期の金属供出によって失はれ、
その後七代目團蔵の實子の八代目團蔵により、父を詠んだ高浜虚子の句碑を跡に建てて供養とし、現在に至る。
休憩所の壁には市川團十郎代々の紹介が連なってゐるが、
奇異なことには人災疫病のために十三代目の襲名が無期延期中のはずの一名が、そこではすでに“市川團十郎白猿(はくえん)”となりすましてゐる。
そこで、今回の小旅の記念に駄句を詠む。
疫病に 睨まれ流れし十三代 行き着く先は もはや白猿(しらざる) 李圜