孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

フランス  ノルマンディー上陸作戦から70年 連合国爆撃による市民犠牲者に対する国家追悼式も

2014-06-06 22:14:04 | 欧州情勢

(連合軍の空襲を受け、完全に破壊されたノルマンディー近くの街、サン=ロー 当然に多くの犠牲者が出ています。写真は【2012年6月6日 デイリー・ニュース・エイジェンシー】http://dailynewsagency.com/2012/06/06/before-and-after-d-day-rare-color-xt8/

ウクライナ問題関係国首脳の言動に集まる注目
第2次世界大戦のノルマンディー上陸作戦と言えば、ナチス・ドイツに占領されていた欧州において、アメリカを中心とする連合国側が反攻を開始し、連合国勝利への道を開いた輝かしい作戦として有名です。

映画「史上最大の作戦」「プライベート・ライアン」などによって、日本でもなじみが深い作戦でもあります。

そのノルマンディー上陸作戦から70年、フランスでは記念式典が開催されていますが、ロシア・プーチン大統領、アメリカ・オバマ大統領、ウクライナ・ポロシェンコ次期大統領も出席するため、欧州情勢の懸案事項となっているウクライナをめぐる何らかの動きがあるかどうかが大きな注目を集めています。

****ノルマンディー上陸作戦70年で式典****
第2次世界大戦のノルマンディー上陸作戦から70年を記念して開かれた式典で、アメリカのオバマ大統領は「この勝利が後世の安全保障を形づくり、民主化の動きを広めた」と述べるとともに、自由のために戦うアメリカの姿勢は変わらないと強調しました。

ノルマンディー上陸作戦は第2次世界大戦中の1944年6月6日、アメリカ軍を主体とする連合軍がナチスドイツに占領されていたフランス北西部のノルマンディーの海岸から上陸したもので、70年となる6日午前、日本時間6日午後6時ごろから、フランスとアメリカによる記念式典が開かれました。

この中で、オバマ大統領は「ノルマンディーは、民主主義の足がかりとなった。われわれの勝利は、20世紀を決定づけただけでなく、後世の安全保障を形づくった」と評価しました。

そのうえで、「われわれは、かつての敵を新しい同盟国に変えるために取り組み、新たな繁栄を築いた。この70年、民主化の動きが広がった」と述べ、連合国側の勝利をたたえるとともに、自由のために戦うアメリカの姿勢は変わらないと強調しました。

このあと、現地では、オランド大統領主催による昼食会やアメリカとフランス以外の国々も参加する全体の記念式典が開かれ、ロシアのプーチン大統領やウクライナのポロシェンコ次期大統領も出席する予定です。

この機会にウクライナ情勢を巡って対立するオバマ大統領とプーチン大統領がことばを交わし、事態打開のきっかけにつながるのかどうかが注目されます。

ノルマンディー上陸作戦とは
ノルマンディー上陸作戦は第2次世界大戦中の1944年6月6日、アメリカ軍を主体とする連合軍が、ナチスドイツに占領されていたフランス北西部のノルマンディーの海岸から上陸したものです。

作戦の記録を伝えるイギリスの博物館によりますと、この日に上陸した兵士はおよそ15万6000人で、連合国側が勝利する大きな転機となった史上最大の作戦といわれています。

また、10年前の2004年に行われた60周年の記念式典では、ロシアが初めて招かれてプーチン大統領が出席し、連合国の一員としてのロシアと欧米の結束を確認する象徴的な場となったいきさつもあります。【6月6日 NHK】
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ウクライナを巡る関係国首脳間の動きについては、フランス・オランド大統領主催の夕食会が、オバマ大統領用とプーチン大統領用で時間をずらして別々に開かれるとか、“(イギリス・ロシア)両首脳は会談冒頭で握手をしなかったが、報道官はテレビカメラがいないところで握手したと述べた。”【6月6日 毎日】というように、非常に慎重な扱いになっています。

日中韓首脳が、立ち話したとか、握手したとか、しなかったとかが大きな話題となるのと同じです。

今後、対立を深めているプーチン大統領とオバマ大統領がことばを交わす機会があるのか、更には、プーチン大統領とウクライナ・ポロシェンコ次期大統領の会談が実現するのか・・・注目されています。

ノルマンディー地方の死亡者は約2万人に上り、約6割が空爆による犠牲者だった
そうしたウクライナ関連はともかく、ノルマンディー上陸作戦の本来の話でも、注目されることがあります。

ノルマンディー上陸作戦では、連合国側・ドイツ側双方に多大な戦死者が出ていますが、民間人犠牲者も多く出ており、しかも、その多くは連合国側の爆撃によるものでした。

****ノルマンディー上陸70周年:初の仏国家追悼 犠牲2万人****
ノルマンディー上陸作戦70周年記念式典で、連合国軍の爆撃などで死亡したフランス民間人約2万人に対する戦後初の仏国家追悼式が6日、カーン市の平和記念館で行われた。

戦後、連合国軍、独軍の犠牲にのみ焦点が当たり、民間人の正確な被害は不明だった。1990年代以降に本格的な研究が行われ、ようやく国家式典という形で結実した。

式典に出席したオランド大統領は「戦いは市民の戦いでもあった。今日ここにフランス国家として、兵士とともに全ての市民に哀悼を表す」と述べた。

上陸作戦では最初の2日間の連合国軍による市街地への空爆だけで、同地方のカーン、サンローなどの都市は大部分が破壊された。

90年代以降に多面的に歴史を捉え直す機運が高まり、地元カーン大学で民間人死亡者数の集計調査が行われた。

その結果、上陸開始後約2カ月半の戦闘で、ノルマンディー地方の死亡者は約2万人に上り、約6割が空爆による犠牲者だったと算出された。

同時期の米軍の死亡者約2万4000人に近い被害だった。戦後の研究で、市街地爆撃は、連合国軍が独軍の援軍の行路を阻み、補給や通信を断つため計画的に実施したことも明らかになっている。【6月6日 毎日】
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映画「史上最大の作戦」でも、連合国側の空爆が開始されると、降り注ぐ爆弾の中で地元ノルマンディー住民が連合国の反攻を喜び旗を打ち振る・・・といったシーンがあったように記憶しています。

しかし、その連合国側の爆撃で1万人以上の住民が犠牲になったこと、そうした民間人犠牲もいとわず連合国側が攻撃を行ったということは、記憶すべき歴史の真実でしょう。

いまでこそ“ピンポイント爆撃”とか言われるようになっていますが、日本でも広島・長崎があり、東京をはじめとする各地の空襲があり、その後のベトナムでもナパーム爆弾で村ごと焼き払うような攻撃もあり・・・・ついこの前までは、そうしたものが戦争の実態でした。

人権意識が高いフランスにあっても、自国の戦争の在り様・犠牲者を直視するには時間を要したようです。

罪もない人々の人生を破壊する戦争の恐ろしさと愚かしさ
戦争の傷跡としては、以下のような記事も。
ナチス・ドイツによる被害は、執拗に記憶にとどめられています。

****フランスが忘れない虐殺の記憶****
ナチス親衛隊に皆殺しされた村を廃墟のまま保存し続ける意味

(中略)フランスでは、ノルマンディー以外にも戦争の記憶を今に伝える場所が少なくない。なかでも象徴的なのが、フランス中南部のリムーザン地方のオラドゥール・シュル・グラヌ村。ナチス親衛隊による大虐殺の舞台となった村だ。

ノルマンディー上陸作戦直後の1944年6月10日、フランスのレジスタンス組織によるナチス司令官誘拐計画への報復としてナチス親衛隊がオラドゥール・シュル・グラヌ村を襲撃し、男性を次々に銃殺。

500人ほどの女性と子供が逃げ込んだ教会には火が放たれ、子供1人を除く全員が焼け死んだ。村はすべて焼き払われ、犠牲者642人の大半は身元さえ判別できなかった。   当時、亡命政府を率いていたシャルル・ド・ゴールは、ナチスの蛮行を後世に伝えるため、破壊された村を再建しないことを決めた。

おかげで村は今も廃墟同然の状態で保存されており、近隣には虐殺の際に住民が身に着けていたものなどを展示する博物館もある。

昨年夏にはドイツのガウク大統領がオランド仏大統領とともに村を訪れ、虐殺を生き延びた数少ない村民と面会した。さらに今年1月にはドイツの検察当局が、虐殺に加わった元ナチス親衛隊の男(88)を起訴している。  オラドゥール・シュル・グラヌ村を訪れる人は年間13万人。フランスでは、こうした「戦争ツーリズム」が一大産業となっている面もある。

ノルマンディー上陸70周年の今年は特に盛り上がりをみせており、観光客数は推定6割増。第一次大戦最大の激戦地となったフランス北部のソンムや、ノルマンディー上陸作戦の舞台オマハ・ビーチも、オラドゥール・シュル・グラヌをはるかに上回る数の観光客を集めている。

もっとも、こうした歴史的な場所を訪れなくても、フランスでは至る所で戦争の傷跡が感じられる。どの町や村もナチスの占領という暗い過去を経験しており、身内を亡くした国民も多い。

欧州の他の国々にも惨劇の舞台となり、その後、悲しい歴史を風化させない役割を担うようになった場所は多くある。アウシュビッツやダッハウのユダヤ人強制収容所、第一次大戦中に毒ガスを使った激戦の舞台となり、充実した戦争博物館をもつベルギーのイーペル......。

ド・ゴールが望んだように、こうした場所は罪もない人々の人生を破壊する戦争の恐ろしさと愚かしさを、今も世界に訴え続けている。【6月5日 Newsweek】
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もっとも、戦争の傷跡はそうした記念館などでなくても、心ならずも残存しているものもあります。

一般市民を巻き込んだ近代戦の先駆けであり、欧州に甚大な被害をもたらした第1次世界大戦と言うと、日本では歴史の遥か彼方の出来事のようにも思えますが、ベルギーでは今も当時の化学兵器処理が続いているそうです。

****ベルギー:第一次大戦の化学兵器、今も処理****
化学兵器禁止機関(OPCW)へのノーベル平和賞授賞が決まったのを機にベルギー国防省は、同国西部で第一次世界大戦時の化学兵器を処理している施設を毎日新聞など一部報道機関に公開した。

第一次大戦の開戦から来年で100年を迎えるが、今なお年間2500発の化学兵器が確認されている。住民は「ここでは化学兵器を使った戦争が、今も暮らしに影響を与えている」と語る。

ベルギー西部の村プルキャペルにある約280ヘクタールの森に処理施設が点在する。倉庫には化学兵器とみられる赤くさびた砲弾が無造作に並ぶ。「触らないで」。担当者が叫んだ。大戦末期、資源の尽きたドイツが粗末な素材を使ったため、中身の漏れる事故が年間40件は起きているからだ。

周辺は、第一次大戦で英露仏などの「連合国」と、独、オーストリアなどの「同盟国」の戦闘が行き詰まり、両者がざんごう戦で計約14億発の砲弾を撃ち合った。
このため、今も農作業中などに砲弾が大量に見つかる。

化学兵器は全体の約4.5%、6600万発が発射されたが、不発率も30%程度と高く、100年近くたった今も年2500発、重量で7トン以上が確認されている。大半は英独軍のものだ。

砲弾はマスタードガス弾など67種類もある。中身をエックス線で確認し、化学兵器の場合、特別な処理に移る。中身が取り出せる種類の砲弾なら、分解して毒液を処理業者に委託する。

分解しにくい場合、密閉空間で安全に爆破する炉を使って処理する。現在は機器の入れ替えで処理は中断しているが、テストで動かした爆破処理のごう音が森に響いた。

ベルギーは1980年代まで見つかった化学兵器を海中投棄していたが、処理技術が確立されたため99年から本格的処理に取り組み、1万8000発の化学兵器を廃棄した。

しかし、いつ終了するか先は見えない状況だという。化学兵器禁止条約は第一次大戦での化学兵器の処理は対象にしておらず、各国の自主的な取り組みに任されている。

フランスでも大量の砲弾が見つかるが、手付かずだという。【2013年12月12日】
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正しい歴史認識というのは、自国に都合のいい歴史を我田引水するのではなく、ノルマンディー上陸作戦における連合国爆撃による地元市民の多大な犠牲、ナチス・ドイツの虐殺の爪痕、今もベルギー・フランスに残る第1次大戦当時の化学兵器・・・・こうした事実を直視し、再び同じような悲劇が起きないようにする誓いを新たにすることでしょう。

式典出席首脳がそうした歴史認識に立てば、ウクライナで衝突が起こることもないはずですが。



【追記】
“仏大統領府によると、オランド仏大統領の仲介でロシアのプーチン大統領とウクライナのポロシェンコ次期大統領が対話したという”“タス通信によると、昼食会前や記念撮影後にプーチン、オバマ、メルケルの3氏が談笑する場面もあったという”【6月6日 毎日】とのことです。
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