(【8月19日 AFP】 騒乱状態となったインドネシア・西パプア州マノクワリ)
【数十年にわたって続く衝突が一気にエスカレート】
ジャワ、スマトラ、バリ、カリマンタン、スラウェシ等々、多数の島々からなるインドネシア。
その一番東(経度で言えば、日本と同じぐらい)に位置するのがニューギニア島。
ニューギニア島は日本の国土の約2倍、世界の島の中ではグリーンランドに次ぐ面積第2位という大きな島です。
西半分は独立国家のパプアニューギニアで、東半分がインドネシア領のパプア州・西パプア州となっています。
そのインドネシア領ニューギニアにおける反政府・分離独立運動と、インドネシア国軍の激しい鎮圧行動については、2月25日ブログ“インドネシア・パプア州 襲撃事件、国軍の掃討作戦で混乱も ミャンマー“ロヒンギャ”のミニ版”でも取り上げました。
その中から、下記記事を再掲しておきます。
****子ども数百人が戦闘逃れ避難か、インドネシア・パプア州****
情勢不安が続くインドネシア東部パプア州で、児童・生徒数百人が戦闘を逃れて避難したと、地元の非政府組織が明らかにした。
同地では、独立派ゲリラによって民間人の建設作業員が殺害された事件を受け、軍事的な報復措置が取られたとの報告があるものの、今のところ確認されていない。
パプア州では昨年12月、人里離れた森林地帯にあるキャンプで、政府の関連事業に携わる作業員16人が独立派ゲリラに殺害された。
これを受け、装備が貧弱かつ組織化されていないゲリラと、強力なインドネシア軍との、散発的ながらも数十年にわたって続く衝突が一気にエスカレートした。
NGOや地元の教育当局者によると、この事件後に衝突が相次いだことを受け、同州ンドゥガ県当局は400人を超える児童・生徒を、隣接するジャヤウィジャヤ県の中心地ワメナに避難させたという。
NGO「ンドゥガのための人道ボランティア」の関係者はAFPに対して、「一部の子どもたちはトラウマ(精神的外傷)を負っている」と述べ、「軍服姿の兵士らが学校にやって来た際、(恐怖で)逃げ出した子どももいた」と明かした。
兵士らが放火や嫌がらせをしたり、家畜ばかりか民間人を殺したりしているとの訴えもある中、地元住民や活動家らによると、他にも多くの住民が隣接県に避難したか、森林地帯に逃げ込んだとみられるという。
地元の軍司令官は、子どもたちが避難した事実を認める一方、理由は軍の存在ではなく、域内の教員不足だと説明している。
NGO関係者によると、授業はテントの中で行われており、子どもたちは親族の家に滞在。児童・生徒と一緒に教員約80人も避難したという。
パプア州の教会指導者や活動家らと連絡を取り合っているという、弁護士のベロニカ・コマン氏は、ンドゥガの軍事作戦で避難を余儀なくされた人々は少なくとも1000人に上ると指摘。「インドネシア政府は軍事作戦を命令したものの、国内避難民への支援は全く行っていない」と語った。 【2月24日 AFP】AFPBB News
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【強引に進められたインドネシア領編入】
パプアにおける抵抗運動は、この地をインドネシアが領土に編入して以来のものです。
****パプア紛争****
19世紀後半からニューギニア島西部(イリアンジャヤ)はオランダ領ニューギニアとしてオランダ領東インドの一部を構成していたが、太平洋戦争における日本軍の侵攻はオランダ本国の植民地における統制力を大きく弱め、ついに戦争終結間もない1949年、インドネシアは独立を手に入れた。
しかし、デン・ハーグで行われた独立をめぐる円卓会議上、オランダ側はイリアンジャヤは新生インドネシア国家に含まれないとし、将来の帰属解決を保証する一方で植民地体制を維持することとなった。
これに大きな不満を抱いたインドネシアは、1952年にオランダがイリアンジャヤの将来について先住民パプア人の自治権を優先し、インドネシアから完全に分立した新国家としての独立を認めようとしていることを知ると対抗してイリアン地方自治省を設立し、イリアンジャヤはあくまで自国領であるという認識を示した。
そして、1961年、オランダがオランダ領ニューギニアの独立を正式に認めると翌1962年から空挺部隊や魚雷艇部隊を出撃させ本格的な武力介入を開始した。
時のアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディはこの紛争の調停に乗り出し、8月15日にニューヨーク合意と呼ばれる合意を取り付けることに成功した。
これによりイリアンジャヤは一旦国際連合の統治下に置かれ、1963年5月1日までにインドネシア統治に移管すること、1969年末までにイリアンジャヤの最終的な帰属をパプア人自身に決定させることが合意された。
国際連合もこれを歓迎し、早くも9月21日の国連総会決議1752において事務総長へ適切な措置の実施を求め、行政機構である国際連合暫定統治機構(UNTEA)と治安機構である西イリアン国際連合保安隊とが協力して暫定統治にあたり、1963年にニューヨーク合意に基づいてイリアンジャヤはインドネシア政府の統治を受けることとなった。
しかし、1965年の9月30日事件以降インドネシアでは軍部による独裁が強まり、インドネシア国軍のパプア人も容赦なく弾圧された。
1969年にはこれもニューヨーク合意に基づいた帰属確定のための住民投票が行われたが、インドネシア国軍により操作された投票結果を元にイリアンジャヤを西イリアン州とし、自国領への併合を完了した。
イリアンジャヤの完全独立やパプアニューギニアとの連合を目指すパプア人はなお諦めることなく自由パプア運動(略称:OPM)を設立した。
OPMはインドネシア国軍や警察を標的としたゲリラ戦、さらに、外来のインドネシア人入植者や外国人を対象とした誘拐からパプア州特別自治法を始めとするインドネシアの弾圧体制に対する様々な抗議活動、独自の国旗掲揚式典まで行い抵抗活動を展開している。
これに対しインドネシアが行った無差別暴力や表現の自由の抑圧は苛烈なものであり、1961年以降インドネシア国軍・警察によって殺害された西パプア人は10万人以上にのぼるとされている。【ウィキペディア「パプア紛争」】
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混乱のもとにもなっている1969年の“帰属確定のための住民投票”については、およそ“住民投票”と言えるものではなかったようですが、結局国際社会はこのインドネシアの強引な領土編入を容認することになっています。
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インドネシア准将のサルウォ・エディ・ウィボウォは1969年7月14日から8月2日にかけて実行された自由選択行為の計画と実行を監督した。
国際連合代表大使のオリティズ・サンズは1968年8月22日に来り、一人一票原則を繰り返し訴えたが、インドネシア側は1962年のニューヨーク協定で明記も要求もされていないとしてこれを拒否した。
1025人のパプア人の成人がニューヨーク合意にあった手続きを経て非民主的に選ばれて民族自決協議会を結成させ、「話し合い」の名の下に買収や女性の供与、銃での脅迫等も行った上で選挙が実施された。
その結果「全会一致」でインドネシアへの編入が決まったが、同年11月に行われた国際連合総会でガーナがこの行動を正当な民族自決行為と言えないと否定、15カ国がこれに同調したが、結局は正当な民族自決行為とされ、インドネシアへの編入が承認された。【ウィキペディア「自由パプア運動」】
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インドネシア領となった時点から、ボタンの掛け違えがあったように思われます。
なお、インドネシア国軍の強引な支配は、ポルトガル領だった東ティモールでも再現されています。
【軍の存在感を示す場所】
****インドネシア東端で激化、軍と武装集団の衝突****
(中略)インドネシア領としては最東端に位置するパプア州は民族的にはニューギニア高地人とメラネシア系の住民が先住民族で、インドネシア併合後は移民政策でジャワ人などが多数入植、インドネシア同化政策が進められている。
首都ジャカルタがあるジャワ島から遠隔地であることや山岳地帯が多いことなどからインドネシアでは最も開発が遅れた地域とされ、分離独立を求める武装組織「自由パプア運動(OPM)」による独立運動が、弱体化しながらも現在も続いている。
そのため外国メディアによる自由な取材活動も制限され、OPMやその分派が活動を続ける中部山岳地帯などの取材には警察当局の許可が求められることが多い。
警察官を拉致して殺害
そのパプア州で現在、2018年に発生した道路建設作業員19人の殺害事件に関連して「治安維持」を名目に増派された国軍、警察部隊と武装勢力による衝突が繰り返されていることが改めて注目される事態となっている。(中略)
事件はインドネシア国内で大きく報道され、ユスフ・カラ副大統領は14日に「反撃する必要がある」と発言。リャミザード・リャクード国防相も「警察官を殺害したグループは壊滅させる」と強硬姿勢を示し、インドネシア世論は現地武装勢力に対して厳しいものになりつつある。
相次ぐ襲撃や治安部隊との衝突
(中略)地元紙「テンポ」や「ジャカルタ・ポスト」などの報道を総合すると、軍や警察の増援部隊が展開する中、同郡ではパプア人の一般住民が近隣の村落や山間部に避難したり、学校が休校したりするなど市民生活に深刻な影響が出はじめていたという。
そうした事態のさなかに起きた今回の警察官殺害事件だけに、政府や治安当局は事態を重視して「掃討作戦の徹底」を進めようとしている。
もっとも増派部隊による一般のパプア住民への尋問・捜索はこれまでも過酷を極め、放火や脅迫、暴行が横行し深刻な人権侵害が起きているとの情報もある。
国際的な人権団体「アムネスティ・インターナショナル」やパプア人の人権擁護団体、さらにキリスト教徒が多数のパプアで活動するカトリック教会関係者などは、ンドゥガ県地域を中心に多数の住民が治安部隊から逃れるため難民化しており、その結果2018年12月から2019年7月までに飢餓や治安部隊の暴行などで182人が死亡したとしている。
「軍や警察は地域の教会を占拠してそこを拠点にして武装集団捜索の名目で民家を焼き払っている。そのため多数の住民が山間部に避難せざるをえなくなっている状況だ」とパプア人人権団体関係者は指摘している。
これに対し政府側の発表によると死者は59人であり、「182人の死者説は偽情報であり、人権侵害も事実ではない」としている。
国家警察のデディ・プリセトヨ報道官も地元メディアに対して「国軍と警察は現地の地域の安定に寄与しており、我々の存在に住民は安心して生活している。人権侵害をしているのは現地の犯罪者集団であり、独立組織である」との見解を示し、双方による非難合戦、責任の押し付けが繰り返されている。
パプアのンドゥガ県やプンチャック県などの遠隔地で何が起きているのかは、地元インドネシアメディアも現地取材が困難なため、インターネットやテレビ電話などで現地治安当局者にインタビューするなどして情報を得るしかなく、実情はよく分からない、というのが正直なところだ。
インドネシア軍の侵攻で葬られた独立
パプア州と西パプア州はかつてイリアンジャヤ州と呼ばれる一つの州で、1961年に植民地支配していたオランダが独立を認めたものの、直後にインドネシアが軍事侵攻して占領。1969年に住民による「独立か、インドネシア併合か」を問う住民投票を実施したが、結果を無視してインドネシア領に併合され、以後OPMなどによる独立を求める武装闘争が今日まで続いている。
パプア州南部にあるティミカは世界的な銅・金の産出地である。米フリーポート社による銅・金の産出と精錬の一大工場地帯で部外者の立ち入りが厳しく制限された場所で、インドネシアがパプアを手放さなかった最大の理由がその豊富な地下資源にあると言われている。
こうした背景はスマトラ島北部で長らく独立武装闘争が続いたアチェ特別州も豊富な石油資源があったことと同じである。
実際に何が起きているのかは不明
インドネシア政府の姿勢をさらに強硬にしたのは8月13、14日に南太平洋のツバルで開かれた太平洋諸島フォーラム(PIF)という南太平洋の18カ国・地域が参加する国際会議に、主催国バヌアツの代表一員という形で英国在住のパプア独立武装組織の幹部が参加したことだ。
人権問題を主に伝える「ブナール・ニュース」の報道によると、インドネシア政府は外交ルートを通じてフィジーのPIF本部に口頭と書簡で「インドネシアはそもそもPIF正式メンバーではなく、パプアの問題は内政問題であり、武装勢力の参列はインドネシアに対する敵対行為である」と抗議したという。
1998年に民主化の波で崩壊したスハルト長期独裁政権の時代には、パプア地方(当時はイリアンジャヤ州)は東ティモール、アチェとともに国軍による「軍事作戦地域(DOM)」に指定され、精鋭部隊が派遣されて独立武装組織との戦闘が繰り返された。
その結果、多くの犠牲者とともに人権侵害事件が発生、国際世論の批判を浴びた。
その後、東ティモールは2002年に住民投票結果を受けて独立を果たし、アチェ特別州は2004年12月のスマトラ島沖地震・津波の甚大な被害を契機に特別自治を認める形で独立運動は終焉した。
そのため、現在も独立武装運動が継続されている唯一の地域であるパプアは、インドネシア政府や治安部隊にとっては「喉に刺さったトゲ」であると同時に、国軍部隊や警察が唯一「実戦」として作戦を実行できる地域として残されている。
OPMはアチェの「自由アチェ運動(GAM)」や東ティモールの「ファリンテル」などの武装組織・勢力に比べると組織も構成員、所持する武器も貧弱で、インドネシア軍が本腰を入れて掃討作戦を実行すれば間違いなく壊滅は可能と言われている。
しかし、そうしない理由が民主化の時代に武装治安組織として軍が存在感を示し、社会安定に寄与する姿を国民に示す場所、機会としてパプアが利用されているとの見方が説得力を持って指摘されているのだ。
「実際には何が起きているのか分からない」と多くのインドネシア人記者は見ている。そして「何が起きていてもおかしくない」とも断言する。(後略)【8月16日 大塚 智彦氏 JB Press】
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“インドネシアがパプアを手放さなかった最大の理由がその豊富な地下資源にあると言われている”とのことですが、もっと深層には、かつて欧州列強が支配したこの地域を統治するのはインドネシアであるとの強烈な自負があると推察されます。
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このようにインドネシアが西パプアの独立に過剰ともいえる反応を示すのには、彼らなりの理由があった。
インドネシアにおいて西パプアは、旧オランダ領東インドの後継国家であるにもかかわらず独立に際して大インドネシアが失った領土と考えられており、手続きの面からも旧宗主国から領有権交渉を一方的に打ち切られた西パプアの存在は、インドネシア政府にとって植民地主義者の象徴であった。
そして同地を「解放」することは、インドネシアによるオランダ帝国主義との戦い、そして第三世界諸国による西側諸国への抵抗の一部と考えられるようになっていた。【ウィキペディア「自由パプア運動」】
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しかし、どのような考えに基づくものであったにせよ、強権的な住民支配を正当化するものではありません。
****インドネシア領パプアで暴動、議会に放火も 独立派の拘束受け****
太平洋南西部にあるニューギニア島のうち、インドネシア領パプアで19日、暴動が発生し、地元議会の庁舎が放火された。これに先立つ土日に、パプア独立派の学生の活動家らが身柄を拘束されており、これが大規模な抗議行動につながった。
西パプア州の州都マノクワリの現場を取材したAFP記者によると、街頭デモの参加者は数千人に上ったとみられ、人口約13万人の同市全体がまひ状態に陥った。中には、店や車両に放火する、標識を倒す、政府庁舎に投石するなどの行為に及んだ参加者もいたという。
オーストラリアのすぐ北にある独立国家、パプアニューギニアと国境を接するインドネシア領パプアでは、インドネシア政府による統治への抵抗が長く続いている。
かつてオランダの植民地だったパプアは、1961年に独立を宣言。その後、国連の支援の下で行われた独立住民投票を経て、隣国インドネシアが天然資源豊富なパプアを支配下に置いた。ただこの投票には不正があったとの見方が強い。
インドネシア独立記念日の17日には、同国第2の都市スラバヤで、パプア出身の大学生43人前後が当局による催涙ガスを浴びて身柄を拘束された。
地元メディアとパプア活動家らによると、警察の機動隊が学生寮に突入し、催涙ガスを使ってインドネシア国旗を損壊したとされる学生らを強制連行したという。
警察は機動隊が催涙ガスを使用したとの報道については否定しなかったものの、学生らは短時間「取り調べを受けた」だけで釈放されたと主張している。 【8月19日 AFP】
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【首都移転が「平等と公正」「多様性の中の統一」ということであれば・・・】
インドネシア・ジョコ大統領は首都をジャワ島ジャカルタからカリマンタン島(ボルネオ)に移転することを公表しています。
「経済の平等と公正を実現することが目的だ」とも。【8月16日 ロイターより】
また、“同国の中心に位置し、国是「多様性の中の統一」にふさわしいからだ”とも。【8月17日 朝日より】
「平等と公正」「多様性の中の統一」ということであれば、パプアの現状を再度考える必要があるでしょう。