森田童子は年齢、氏名が謎だったが、叔父のなかにし礼が「血の歌」でその正体を明らかにした。
森田童子は1953年生まれ
本名は、前田(旧姓なかにし)美乃生(みのぶ)1953年1月15日夜9時青森市生まれ。巳年に生まれたので「みの」と、出産に立会ったなかにし礼が生まれた時刻まで正確に記している。
一方、wikiでは1952年生まれとしている。その根拠として「1980年の札幌でのコンサート会場で主催者配付のチラシ「森田童子ラフスケッチ」によると、1952年青森に生まれた彼女は、68~70年の学園闘争の激しい最中に高校生活を送り、高校を中退。72年夏、「ひとりの友人の死をきっかけに森田童子はめまぐるしく疾風のように通り過ぎていったいくつもの青春たちのかたちを振り返ってひとつづつ思い出すように歌いはじめた」を引用している。
68~70年の3年間を高校生活とするのは生まれが1952年度であるが、森田は1月15日の早生まれなので、1953年青森生まれが正しい。主催者の勘違いが現在もwikiの森田の生年月日に影響している。
詩を書くとはどういうことか
1968年、ヒット曲を連発した30歳のなかにし礼は、印税5500万円で中野に床面積110坪の家を新築し、兄の中西正一家族5人(森田童子の姉と弟を含む)、母、自分の弟子達と同居生活を始める。森田童子は期せずして、学園闘争の高校時代をなかにし礼の家で過ごすことになった。
人気作詞家のなかにし礼が、森田童子の詩や曲にどのような影響を与えたのか、次のように記されている。
「ギターを覚え、ピアノも弾けるようになっていた。長女より次女(森田童子)と波長が合い、何かにつけて可愛がった。肩を揉まれながら、詩を書くとはどういうことか、自分なりの秘密を話して聞かせていた。」(血の歌より)
高校生活も、家も崩壊していく
学園紛争が高校にまで波及し、進学校では逮捕者が出るなど学校が荒れていた。森田にとって自宅で音楽に打ち込む時間は十分あったに違いない。森田は高校を中退している。
この時期に、なかにし礼は日本レコード大賞受賞曲を2曲(68年天使の誘惑、70年今日でお別れ)、作品の総売上が1000万枚突破するなど時代の寵児だった。
一方、兄の中西正一(童子の父)は建設会社を立ち上げ、自宅新築を弟(なかにし礼)から受注したが経済的には苦しかった。森田の姉は学費をなかにし礼が負担していることも知らず、兄正一は、家族に新築費用を弟と折半したと話すなど虚構の同居生活だった。そのうえ、売れっ子の弟を保証人とし、兄は無謀な事業を展開して借金が膨らみ、会社はとうとう倒産。多額の借金取りが押し寄せる日々となった。71年10月、なかにし礼の再婚を機に、兄一家は夜逃げ同然の引越しをすることになった。童子は、父親の果たした役割(家族にうそをつき弟に多額の借金を負わせたこと)をしっかりと見ていたに違いない。家が崩壊していく混乱の中、森田童子は恋人の元へ走って行き同棲を始めた。(兄弟、血の歌より)
なかにし礼の家で過ごした3年間は、成功した叔父から音楽の教えを受ける華やかな生活から一転して、高校、友達、家族、住む家まで全てを失い、14歳年上の恋人(前田亜土:本名前田正春)の元へ走る激動の時代だった。
多感な高校時代に経験した、天国から地獄へ落ちるような激動の体験が、森田童子独特の音楽の世界観に影響したのではないか。
森田童子は歌い始めた
「72年夏、ひとりの友人の死をきっかけに森田童子はめまぐるしく疾風のように通り過ぎていったいくつもの青春たちのかたちを振り返ってひとつづつ思い出すように歌いはじめた」
この頃のフォークソングは、政治や反体制的なものを盛り込んだメッセージソングから、身の回りの出来事や恋、人間関係など個人的な歌に変化し、ニューミュージックと呼ばれた。
吉田拓郎(46年)、井上陽水(48年)、南こうせつ(49年)、大橋純子(50年)、忌野清志郎(51年)、中島みゆき・さだまさし・河島英五(52年)、森田童子(53年)、荒井由実・因幡晃・坂崎幸之助(54年)。
同世代のシンガーソングライターは、恋、夢、人生、結婚、別れなど聞く人の多くが共感する歌を作詞・作曲し、自ら歌い、若者を中心に多くの支持を得た。
森田童子は、孤独や友を歌う
友への思い、孤独、昔の暮し、別れ、挫折、悲しく色褪せていく青春を歌う。楽しい、嬉しい、聞いて元気が出るようなことはない。
ヒットメーカーのなかにし礼が「詩を書くことはどういうことか」自分なりの秘密を森田に教えたが、森田はヒット作を狙うのでは無く、自分の心の中の願望を詩に書いた。
カーリーヘアーに黒いサングラス。ジーンズ。ギターを片手にか細い声で静かに歌った。
私が森田童子を最初に知ったのは76年末か77年。
NHK-FMラジオから2枚目のアルバム『マザースカイ』(76年11月発売)の曲が次々と流れていた。「ぼくたちの失敗」に衝撃を覚え、誰が歌っているかもわからず急いでラジカセに録音を取り始めた。「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」と「海を見たいと思った」は大好きな曲となり、旅に出た(後述)。
20歳の大学2年。自分の学業成績で希望学科に進級できるか、進学振り分けで専門課程が決まる不安な時期だった。情報誌ぴあで森田童子のライブ会場を探し、西荻窪ロフトに通った。早くから入店し前席に座った。観客は床に座り、膝を抱え、沈黙して、森田童子のギターと歌が自分の内面に突き刺せと聞き入っていた。年齢不詳だったが、当時24歳。4年の差でこんなに異なる世界観を持っていたと知り驚いた。
森田童子の言葉
- 私は何もできない。動けなかった。私の歌は、周囲を見ていた自分の意識の投影なんです。人も風景もどんどん変わっていく。だけど自分だけが同じ所にいるような気がして……。
- 何もしていなかった時間を、どうやって経験してきたか。こうなって欲しかった。多分こうだったんじゃないかという想いが、私の一つのエネルギーになっているんです。
- 私、寝台車って大好き、電車のゴトン、ゴトンという音が胎内の音に似てる気がして、安心できる。よく眠れるの。
- 人はそれぞれ崇高な孤独を持っていればいい。
- もし、感動を伝えるとするなら個から個へと伝わるものでしかありえない。
森田童子は、ライブハウスでも、多くを語らなかった。残した言葉は少ない。上記は、森田童子研究所から引用させてもらった。
森田童子の曲
表紙は1975年11月に発売された最初のアルバム『Good Bye』の歌詞カード。LPレコードは再生装置が無く処分した。
10曲のうち、8曲は君(あなた)とぼくを歌う。久しぶりに会った君、君の思い出、別れ。
シングルカットされたのは「さよならぼくのともだち」「まぶしい夏」。どちらも、学園紛争で疲れ、睡眠薬を飲んで亡くなった友人を歌う曲だ。レコード会社の売り出し方針だったのか。
後にテレビドラマ「高校教師」の主題歌となった「ぼくたちの失敗」は森田童子の代表作で、74年時点でデモテープがありレコードデビューのきっかけとなった曲だが、発売は76年11月の2番目のアルバム『マザースカイ』に収められた。森田童子のレコードデビューにも、なかにし礼が関わっていた(後述)。
淋しい雲は私が好きな曲の一つで、今でも時々口ずさむ。
森田童子は誤解されているが、暗い別れの歌ばかりでは無く、大好きな友を思う歌もある。
淋しい雲
いつも君のあとから長い影をふんで
いつも君のあとからついてゆきたい
どこへ行くあてもなく ぼくたちはよく歩いたよネ
夏の街の夕暮れ時は 泣きたいほど淋しくて
ぼくひとりでは とてもやってゆけそうもないヨ
君の好きなミセスカーマイケル ぼくもいいと思うヨ
夏休みが終わったらもう逢えなくなるネ
そうしたら時々 なつかしいミセスの話をしようヨ
夏の街の夕暮れ時は 泣きたいほど淋しくて
君ひとりでは とてもやってゆけそうもないから
さよならぼくのともだち
長い髪をかきあげて ひげをはやしたやさしい君は
ひとりぼっちでひとごみを歩いていたネ さよならぼくのともだち
夏休みのキャンパス通り コーヒーショップのウインドの向こう
君はやさしいまなざしでぼくを呼んでいたネ さよならぼくのともだち
息がつまる夏の部屋で 窓もドアも閉めきって
君は汗をかいてねむっていたネ さよならぼくのともだち
行ったこともないメキシコの話を 君はクスリが回ってくると
いつもぼくにくり返し話してくれたネ さよならぼくのともだち
仲間がパクられた日曜の朝 雨の中をゆがんで走る
やさしい君はそれから変わってしまったネ さよならぼくのともだち
ひげをはやした無口な君が 帰ってこなくなった部屋に
君のハブラシとコートが残っているヨ さよならぼくのともだち
弱虫でやさしい静かな君を ぼくはとっても好きだった
君はぼくのいいともだちだった さよならぼくのともだち
さよならぼくのともだち
つづく
原稿が消えてしまったりと苦労しています。真実4は、書かない方が良いのかと…。
旅行記は書いてみようかと。
楽しみにしておりますので、是非書いてくださいね😊
華やかな結婚式もなく、大変な状況下で歌うことに自分を見つけたような気がします。どこまで書いて良いのか考え中なのです。
女優似と記憶しております。20歳の頃は華やかだったんでしょうね。
当時の旅行記が出てきたので、童子の後に書こうかなと。
実はYoutubeで森田童子を聴いてみたんですよ。以前、暗くて重くて寂しくなるって感じのコメントしたかもしれません😅
二十歳の頃、聴いてらしたんですよね。私の二十歳の頃はどうだったかな?なんて考えていました。