森田童子は幸せだったのか。ファンの一人として確認してみたい。出典は『兄弟』『血の歌』など。
1 恵まれない環境で森田童子は育った
(出生になかにし礼が立会う)
1953年1月15日夜9時青森市で、森田童子(中西美乃生)は、なかにし礼(中西禮三)の兄である中西正一の次女として生まれた。このとき14歳だった礼は兄家族と同居しており、生まれたとき助産婦を呼びに行っていたことを『血の歌』に記している。
(父正一の境遇)
中西正一は中西家の長男。立教大学在学中に学徒出陣し宇都宮で陸軍特攻見習士官中に終戦を迎えた。戦争で父を失い満州から引揚げてきた母、妹、弟(なかにし礼)とともに、祖母が暮らす小樽の実家で、妻を含め6名の大家族を家長として22歳の若さで背負う運命だった。
(最初の失敗がニシン漁)
1947年3月、23歳の正一は普通に働いては家族を養えないと、実家を担保に借金して増毛のニシン漁に賭け成功した。しかし、獲れたニシンを秋田県能代へ船で運べば3倍儲かると欲を出し、日本海の荒波の中、魚を失ってしまった。小樽の実家を手放し一家はさまよい始める。正一はまるで特攻のように、仕事や人生に向かって勝負を賭け、失敗し多くの借金を背負う。その数奇な人生をなかにし礼は小説『兄弟』に書きとめた。そして発端となったニシン漁は「石狩挽歌」の歌詞に込め、さすらいのテーマソングとして、礼の心の中で生涯にわたって鳴り響くことになった。
ニシン漁失敗の後、母は正一から離れ、青森市にいる自分の弟に家と仕事を世話して貰い、礼と姉の3人で平穏に暮らしていた。しかし、1952年47歳の母が脳溢血で倒れ不自由になり、三沢で米軍の通訳をしていた正一が青森市に駆けつけ、同居を再開した時に中西美乃生(森田童子)は生まれた。
(東京へ)
29歳の正一は母の古着屋を継ぐが上手くいかず、バーの経営なども失敗。1953年に大学相撲部の同級生に仕事を紹介して貰い、一家揃って品川区大井町(3部屋の借家)に転居した。童子は青森生まれだが、0歳のうちに東京に転居して育っているので、弟が運営する「森田童子オフィシャルサイト」で東京出身としているのだろう。
30歳の正一は中西家の家長として、自分の家族4人に、病気の母、7歳下の妹、14歳下の弟(礼)の3人を加えた7人の一家を支えることになる。紹介された営業の仕事を3ヶ月でやめ、一山当てようとする人と組んで、スポイトホースの製造会社、化粧品会社、廃棄物処理、ミミズの養殖、商事会社、貿易会社と次々に会社を作り、失敗した。
(困窮する生活)
礼は高校の授業料が滞り、通学定期が買えず休む日もあった。奨学金を申請し授業料は何とか確保したが、生活苦で廉価なうどんのかすをたべ、病気の母は金歯を金に換えてくれと差し出し、養子に出してくれと礼が兄に申し出るほど困窮していた。高校卒業後は、礼は品川の家を出て独立する。童子4歳の時だった。
(童子への影響)
『兄弟』には、正一の仕事ぶりに変化は無く、生活の節目節目になると必ず金が無かった。子供達の入学式、夏休み、正月、夏祭り、修学旅行、卒業式、一度も満足な思いをさせたことが無いと記されている。森田童子は、恵まれない環境で、幼少、小中学校生活を過ごした。
2 人気作詞家となった礼と再び同居
(礼はアルバイトでシャンソンと出会い訳詩を始める)
1957年高校卒業後なかにし礼は、神田の炭屋や代々木のレストランで住み込みで働き、立教大学英文科入学後は五反田の貧しいアパートで暮していた。アルバイト先のシャンソン喫茶で一日中聴かされたシャンソンに惹かれ、アテネ・フランセでフランス語を勉強し、シャンソンの訳詩を始めた。これが評判になり、訳料1曲500円が2000円にまで上がっていった。1963年新設された仏文科に転科しシャンソンで知り合った女性と結婚する。
(流行歌の作詞を始める)
新婚旅行先の下田のホテルで声をかけられた石原裕次郎から訳詩ではなく流行歌を書けと勧められる。1964年シャンソンの訳詩をみたポリドールレコードの松村慶子デレクターから、小澤音楽事務所所属の菅原洋一「 I Really Don't Want to Know 」の訳詩を依頼される。この『知りたくないの』が大ヒットし作詞家デビューとなった。その頃、シャンソン訳詩は1000曲になり、歌謡曲の歌詞も売れ始めた。
(一躍人気作詞家に)
1968年暮れになると、ヒット曲の印税収入で中野に15部屋の家を新築し、礼が中西家を支えることになる。病気の母、正一家族5人(姉、童子、弟)、礼、弟子4人と中西家は11人で同居生活を再開した(兄との同居や作詞家など方向性の違いが理由で妻と離婚)。その年は「天使の誘惑」で日本レコード大賞受賞、NHK紅白で3曲歌われ作詞家として輝いた。
(礼の家に童子は再び同居)
1968年、森田童子は15歳の高校1年生で、30歳にして人気作詞家となったなかにし礼と再び同居することとなった。学園紛争中でもあり、ギターやピアノで音楽に親しみ、詩を書くことなど習ったことは既述のとおり。なお、礼と松村慶子デレクターは、1974年秋に正一に相談し、21歳の森田童子をレコードデビューさせている。
3 前田亜土と結婚へ
(童子の配偶者)
前田亜土(本名 前田正春)
1938年北海道阿寒生まれ。なかにし礼と同い年。(1939年3月生まれという情報もある)
1953年1月青森市生まれの森田童子(中西美乃生)とは、15歳離れている。
2009年10月31日没(71歳)
武蔵野美術大学西洋画科卒 イラストレーター、舞台美術家(劇団表現座で舞台装置担当)
(前田亜土となかにし礼)
1968年前田亜土(正春)は、中村メイコと神津カンナの詩集の表紙イラストを担うなど、30歳にして人気イラストレーターとなっていた。
1969年なかにし礼は、これまでの膨大な数の作詞や訳詩のなかから74編を精選した詩集「エメラルドの伝説(For Ladies 22)」を出版した。
その記念詩集の表紙のコラージュ・イラストレーションを担当したのが、前田亜土である。
なお「エメラルドの伝説」というタイトルは、作詞なかにし礼、作曲村井邦彦で1968年に発売されたザ・テンプターズ(リードボーカル:萩原健一)の最大ヒット曲の題名である。(表紙)
(前田亜土との出会い、礼との別れ)
なかにし礼の自宅は十分な広さがあり、仕事の打合せの場として使っていた。打合せに来た前田亜土が、学園紛争中で自宅にいた中西美乃生と面識を持ったのではないか。
そして1971年10月、礼が石田ゆり(由利子)と再婚する際、正一は倒産し借金の夜逃げ同然で礼の家を出て行く。家が崩壊していく混乱の中で、高校を中退していた童子(18歳)は恋人の元へ走って行き同棲を始めた。父親なんてこの世に存在しなくていいとでも言うように(『血の歌』より)。
この恋人を前田亜土と考えると合点がいく。不安定で貧しかった父に代わり、若くして大きな仕事を成し遂げるイラストレーターと出会い、幸せな日々を送り始めたと思うと、安心する。
4 正一の借金で苦しむなかにし礼
(兄が借金を次々とつくり、弟が返す)
会社を作っては倒産を繰り返す正一のせいで、弟のなかにし礼は兄の借金返済の肩代わりを繰り返す人生だった。
正一は、金のありそうな人に「一緒に仕事をやろう」と押出しのある雰囲気で信用させ、相手が工面した金を使い会社がつぶれる、そのくり返しだった。
礼の再婚が決まりその財産を相続できなくなると直ぐに手を打ち6千万円の生命保険に本人に無断で加入したり、礼の実印を持ち出して自分の借金の連帯保証人にするなど、印税収入のある弟を利用し放題だった。
1973年、正一はゴルフ場開発の儲け話に乗り、礼の実印を勝手に持ち出して会社を作り新聞広告で会員を募集したが無認可事業で失敗。負債総額4億円。それに自分の借金2億円を被せて6億円。それを全て弟の礼に被せて自分は失踪した。とんでもないことだ。なかにし礼はとうとう倒産してしまう。
(借金返済の苦難)
借金返済のため、礼は新築して4年しか住んでいない中野の自宅、北青山のビル、南青山のビルなど全財産を処分したが、3億5千万円の借金が残った。作詞家なかにし礼の印税収入は、債権者会議で、今後も含め全て法律事務所に送金することになった。それでは食べていけないので、息子を妻の大阪の実家に預けるとともに、テレビ番組、講演など日銭の稼げる仕事は何でも取組み、借金を減らしていく毎日だった。『時には娼婦のように』を作詞作曲し、自ら歌いヒット。映画にも出演。キャバレーでも歌い、借金を大きく減らすことが出来た(『兄弟』」より)。
5 中西正一と前田亜土
(風吹ジュンの報道で結婚が明らかに)
1971年頃、中西正一は、前田亜土(アド)を社長に、自分となかにし礼を取締役にした芸能事務所「アド・プロモーション」を設立していた。童子が前田亜土と同棲を始めた頃だ。
1974年9月、アド・プロモーションは所属タレントの風吹ジュンの二重契約問題でトラブルになり、週刊誌に「誘拐事件」と報じられ大きなニュースになった(幸い録音テープ等で否定され事件化はしていない)。
記事の中で「アドプロ社長の前田亜土の妻は、なかにし礼の実兄の中西正一の次女」と記され、社長の前田亜土となかにし礼との関係が書かれた。
この記事で、正一の次女である森田童子(美乃生)は前田亜土と既に結婚していたことがわかる。そして正一は人気イラストレーター、舞台美術家の前田亜土と親子の関係になっていた。
6 本名を公にできなかったもう一つの理由
「叔父の七光りで世の中に出たくない」という前田美乃生の希望と、「反体制的なイメージでデビューさせたい」という松村慶子プロデューサー(なかにしを売り出した人物)の方針で、本名を一切明らかにせず、「森田童子」としてレコードデビューすることになった(『血の歌』より)。
しかし、レコードデビューが決まったのは同じ1974年秋である。喫茶店での風吹の説得を「風吹ジュン誘拐!」と大げさに週刊誌で騒がれた直後だった。人気作詞家のなかにし礼との関係だけでなく、誘拐報道(虚偽情報があり事件化されなかった)や借金トラブルの父親中西正一の存在が、デビューの際に本名を公にしなかった理由の一つと思われる。
7 森田童子の活動
森田童子は、1975年(22歳)から1983年(30歳)にかけて6枚のアルバムを出すとともに、全国各地の小劇場でライブ公演など約10年間活動し、1983年に活動を休止する。
私がFMラジオから流れてきた童子の2枚目のアルバム『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか』を偶然耳にして衝撃を受け、西荻ロフトなどライブで歌を聴きに行くようになったのは1977年。
(母の死と兄との絶縁、借金完済)
その1977年、正一夫婦が25年間も世話していた病気の母親が73歳で亡くなった。兄への負い目がなくなった礼は、1980年(42歳)になってようやく兄と絶縁し、兄が作り出す借金から逃れた。そして3度目のレコード大賞を受賞した1980年、遂に兄が造った借金を完済した。
(童子や前田亜土への影響は)
しかし、正一の破天荒な性格や借金づくりが母の死で変わるとは思えない。1980年以降は、今度は礼の代わりに、印税収入のある実娘の森田童子に借金のしわ寄せが向かわなかったか。それが原因で童子が引退を早めることはなかったのか、ファンとして心配である。加えて正一は、社長の礼に借金を肩代わりさせたのと同様に、義理の息子の芸能事務所アド・プロモーション社長の前田亜土に借金を肩代わりさせなかったのか、心配である。
8 国分寺での生活
(国分寺に家を購入)
1982年3月、前田亜土と森田童子(美乃生)は国分寺に共有名義で1戸建てを購入する。亜土44歳、童子29歳の時だった。
公開情報の登記簿によると住宅は共有名義だが、ローンは亜土が組んでいる。童子は10年間の活動で得た収入を投じたのであろう。父親から預金を狙われることを恐れ住宅取得に充当したのかも知れない。当時の住宅ローン金利は年8%強と高く、30年間の返済総額は借入金の約3倍にも達する。
(亜土と童子の仕事)
亜土はイラストレーターのほかに舞台美術の仕事をしており、活動停止後の美乃生はその仕事を手伝っていたようだ。
(童子の印税収入をあてにしていた父)
引退10年後の1993年、テレビドラマ『高校教師』が脚光を浴び、主題歌に使われた森田童子の「ぼくたちの失敗」がCD化され再発売し、100万枚の大ヒットになった。このとき、正一が童子に電話した内容が『血の歌』に記されている。
「おめでとう。良かったね」と電話した正一に対し、童子の返事はにべもなかった。
「まだ、印税入ってないわよ」。正一は絶句した。
この会話から、正一は、過去に娘の印税収入をあてにしていたことがわかる。
CD1000円にかかる印税は、アーティストは10円(1%)、 作曲家は15円(1.5%)、 作詞家も15円(1.5%)が相場のようだ。 100万枚売れた場合、アーティストには10円 × 100万枚 = 1000万円。 作曲家には15円 × 100万枚 = 1500万円。 作詞家には15円 × 100万枚 = 1500万円。作詞・作曲・歌の印税は4000万円になる。
(1000万円の金策)
礼に絶縁され金策に窮していた正一は69歳になっていたがまだ野心を持って事業と失敗を繰り返していたのだろうか。童子に電話したときも、1000万円の金策をつきあっていた女に頼んでいた。女から断られたら、娘の印税を当てにしただろうか。弟の印税を自分の物にしていた男である。娘の印税に手を出していたとしても不思議ではない。
(著作権の管理)
1994年4月、森田童子の著作権を管理する(有)海底劇場を設立。代表は前田亜土。印税は夫の会社が管理することになる。
(父が残した2億円の借金を相続放棄)
1996年10月、父の中西正一が72歳で死去。
1997年3月、正一の妻が離婚(死後離縁)。正一が残した借金が2億円もあった。それを遺族が背負わないよう、妻、童子達3人の子が小樽の本籍から籍を抜いて遺産相続放棄をする。その後は弟の礼に回ってくるので、礼にも相続放棄の手続を急ぐよう兄嫁から連絡を受けたことが『兄弟』に書かれている。
(再び高校教師。童子が20年ぶりに収録)
引退20年後の2003年1月、テレビドラマ『高校教師』の新作が放送され、再び『ぼくたちの失敗』が主題歌として使用された。2003年版のベスト盤『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』に新規に歌唱・録音された「ひとり遊び」が収録された。「ひとり遊び」は童子の国分寺の自宅で、自らのピアノ、ギター、ハーモニカの演奏で20年ぶりに録音された(このとき童子は50歳)。
(前田亜土の死と自身の病気との闘い。そして死)
2009年10月、闘病生活をしていた夫の亜土が71歳で死去。童子は56歳。
2010年5月、朝日新聞が森田童子に取材したが「とても親しかった人との唐突な死別と、自らの病で手紙すら書けないほど憔悴している」と断る。取材時は夫の会社や自宅などの整理、自分の病と闘いながら、初めて経験する相続手続などが大変で、新聞取材にはとても応じられなかったのだと思う。
2010年6月、童子は、亜土の住宅持分と住宅ローンをようやく相続する。夫の死から半年後だ。
2013年9月、亜土から相続した30年ローンを31年半で完済。なぜ1年半も遅れたのだろうか。延滞損害金は年14%と高額で、1年半も延滞すると返済総額が増えてしまう。亜土の収入が無くなったのに亜土の残したローンを払い、自分の病気と闘っている姿を想像すると、心が痛む。
2018年4月16日死去(推定)。4月24日に森田童子は自宅で死亡しているのが見つかった。65歳だった。
9 なかにし礼が書き残したこと
森田童子は活動休止後も、亡くなるまで、本名や生年月日を明らかにしていない。本名を隠すことを決めたなかにし礼が、森田童子の出生地や生年月日、デビュー、父親の中西正一との関係を遺稿『血の歌』に残した。本名は(有)海底劇場や自宅不動産の登記簿で公表されている。
(『血の歌』について)
「『血の歌』が出たとき、さすが礼ちゃんと感心したわね。童子と自分が死んだあと、すべてを明らかにする。礼ちゃんらしい見事な自己演出だと思った」と語る松村慶子氏はなかにしが『血の歌』の原稿を意図的に家族の目に付きやすい場所に置き、自分の死後の出版を暗に望んでいたと考える。息子の中西康夫もそれが父の遺志だと信じ出版した。
(『ぼくたちの失敗』について)
『血の歌』では、正一の言葉として次のように記している。
堕ちていくばかりの父親と、それに振り回される家族がいた。特攻に取り憑かれ墜落を恐れながら、みずから華々しくさらなる墜落を求める父。父の背中越しに戦争の興奮、傷と孤独。童子にとって時代の儚さであり、自分の命の悲哀であったのではないか。俺がいくら自分の成功を信じたとて、呪われたように俺は失敗を続ける。森田童子の歌のとおりじゃないか。恋愛の歌ではなく、家族の歌でも学生運動の歌でもない。「ぼくたちの失敗」というのは俺の失敗のことだろう。
10 森田童子の歌の世界
森田童子の歌の世界は、幼少期のつらくて切ない経験がベースにある。人気作詞家となった叔父のなかにし礼と過ごした高校生の頃に作詞と作曲を覚えて歌に昇華した。前田亜土との幸せな生活の中で多くの作品が生まれていった。
童子の歌に出てくる「ぼく」や「君」は、自分自身、父や前田亜土のことなのだろうと思う。
「寂しい雲」
いつも君のあとから長い影を踏んで いつも君のあとからついて行きたい
君:前田亜土
「君は変わっちゃったネ」
久しぶりダネ ぼくは相変わらず甘い夢を追っています そんなぼくをあなたは子供っぽく見えるかしら とても長い時が過ぎたのネ
ぼく:中西正一
「今日は奇蹟の朝です」
不幸な時代に僕たちは目覚めた 八月の海はどこまでも青い
今日は気持ちのいい朝です 砂浜に人は黒い影を落とす
まぶしい陽射しに目眩する 今日は気持ちのいい朝です
白い雲が流れる もうすぐ夕立 僕たちは奇跡を待っています
今日は奇跡の朝です 八月の海は悲しみいっぱいに
いま聖母マリアが浮上する
僕たち:1947年の正一、礼たち
聖母マリア:大量のニシン
この歌の歌詞が何を意味しているのか長年わからなかった。なぜ聖母マリアが浮上するのか。しかし、森田童子の父親が、小樽の実家を担保に入れて借金して網元から権利を3日間借りた北海道増毛のニシン漁の最終日の1947年3月22日の未明。魚が入らず失敗したと家族全員があきらめたときに奇跡が起きて、遠くの海から大量のニシンが父の網に押し寄せる奇跡が起きた(『兄弟』)。童子は父親や叔父のなかにし礼からこの時の話を聞かされていたに違いない。
更新ありがとうございます。森田童子のこと、詳しく分かりやすく書いて下さり、引き込まれました。霧の中から彼女の人物像があらわれるようでした。
森田童子が、なかにし礼の姪で一緒に住んでいたこともあったとは、驚きました。父親の存在が彼女の心を重苦しく、生きづらくしていたのでしょうね。
「高校教師」を見ていて、森田童子の「ぼくたちの失敗」を知りました。歌番組に出場した時に、謎めいていたので、ずっと男の人だと思っていました。
森田童子作詞作曲「ぼくたちの失敗」は心に響く歌ですね。それにしても、なかにし礼の凄さにも心打たれました。
forever greenさん、ありがとうございました。
コメントありがとうございます♪
学生時代に惹かれた森田童子の歌は、切なく哀しい世界でしたが、虚構なのか実像なのか気になっていました。
実体験の厳しい環境の中から形を変えて生まれた曲だと分かり、おっしゃるように霧が晴れた気がしています。
同世代のシンガーソングライターに比べて華やかな歌手になれませんでしたが、引退後10年、20年の節目にテレビドラマの主題歌に選んだ脚本家の野島さんのおかげで広く知られるようになりました。
なかにし礼が詳しく書き残してくれたことがありがたいです。
それに礼の石狩挽歌は好きな歌です。今度増毛に行ってみようかと思っています。