4月29日、朝、父から連絡あり。洋伯父の容体があまり良くないとの報せが昨晩あって、「とりあえず東京に向かう。詳しいことが分かったら、状況をまた報せる」とのことだった。
丹の国まつりと由良川花壇展の開会式に出席し、西町アイタウン会場に行っていたころ、携帯の留守電に「洋さんが今、亡くなった。詳しいことはまた連絡する」という伝言が入っていた。東京に向かう車中で連絡があったようだった。
あまりに急なことで、まったく信じられない思いで、聞き間違いかと何度か聞き直したが、間違いなかった。
「政治家になるなら、一度、東京に出てこい。東京には良くも悪くも日本一がある。仕事は用意してやるから」と洋伯父の勧めもあり、大学卒業後の約2年間、東京で働いた。
伯父にはたくさんの人を紹介してもらい、いろいろな経験をさせてもらった。
自分には娘だけだったからか、息子のように可愛がってもらい、時間があるとしばしば呼び出してくれて、昼夜、ご飯を食べさせてもらった。
「政治家になって何をするのか?答えてみろ」と言われ、あれこれ話したら、「細かいことはどうでもいいんだよ!故郷を愛し、故郷に尽くす、それだけでいいんだよ」と叱られた。
東京での仕事は、広告代理店での月刊誌編集、「宥座の器」の連載や出版、伯父の主宰する様々な会合(日比谷一水会、丹水会、八方会など)の事務局をしながら、特に大変だったのが国民政治研究会という社団法人の事務局員として、毎週の国会議員とマスコミ人との講演を一人でセッティングし実施することだった。
「あまりにいろいろな仕事をするのは、時間も重なるし苦しいので、国民政治研究会の仕事は辞めたい」と泣き言を言ったら、「ひとつのことができるのは当たり前。いろいろなことを同時並行で走らせてできるようになってやっと一人前」と言われた。
厳しいことを言うことは少なかったので印象深いのかもしれない。実際にはほとんど怒ることはなく、やさしく寛大な伯父だった。いろいろ失敗もして、迷惑をかけたこともあったが、失敗したことに対して怒ったり責められたりすることはなかった。「いいんだよ。それは相手も悪い」と言ってくれた。
2日に上京し、お通夜に参列。3日には葬儀が行われ、あっという間に遺骨になってしまった。棺の中の顔はまるで寝ているかのようでいつもと変わらず、穏やかだった。
東京にいた頃にお世話になった方々も多く参列いただいており、懐かしい気持ちになった。もう20年も前のことなのに、そんな気がしないくらい記憶がグーッとよみがえってきた。
葬儀が進み、お別れが近づくにつれ、伯父が愛した故郷のために、期待に応えられるよう、改めて頑張らなくてはいけないなと思った。
東京に行く前と帰ってきてから、仏壇に手を合わせ、おじいちゃん、おばあちゃんにも報告した。「洋さんはもうすぐそちらに行くので、楽しみに待っていてください。また一段と賑やかになるでしょう」と。