8月まで中日新聞に、宮城谷昌光の「新三河物語」が
連載されていた。
「三河物語」は、一心太助でお馴染みの大久保彦左衛門が
徳川家康の一代記として書き残したもの。
宮城谷の「新三河物語」は、「三河物語」に沿いながら、
大久保彦左衛門の目で徳川家康の一代記を描いていて
面白い。大久保一族は、徳川譜代の家臣として忠勤に励み、
数々の武功を挙げながら、最後は、本多正信、正純父子の
策謀で一族悉く死罪、改易となり、彦左衛門だけが 2,000石
の旗本として残る。その無念を晴らすために、彦左衛門は
晩年に「三河物語」を書き残した。
徳川家創業当時の家臣は、皆大大名にはなっていない。
本多父子もその後改易となる。創業以来苦労を供にしてきた
忠臣たちを、大名に取り立ててやるのが“情”だろうが、
家康は、それをしなかった。家臣はあくまで家臣か。為政者
としての卓見か。
会津藩祖保科将之は、秀忠の落胤として生まれ、保科家に
預けられた。信州高遠の保科家からの家臣は、会津23万石と
なっても厚遇されず、むしろ外部からの転籍組が重用された。
私の母方は高遠以来の家臣だったが100石止まり。父方は
紀州家からの転籍で、500石の側用人にまで登りつめた。
人の世の運、不運、その処し方、大久保彦左衛門の生き様に
わが先祖の苦労を重ね合わせて「新三河物語」を読んだ。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。
連載されていた。
「三河物語」は、一心太助でお馴染みの大久保彦左衛門が
徳川家康の一代記として書き残したもの。
宮城谷の「新三河物語」は、「三河物語」に沿いながら、
大久保彦左衛門の目で徳川家康の一代記を描いていて
面白い。大久保一族は、徳川譜代の家臣として忠勤に励み、
数々の武功を挙げながら、最後は、本多正信、正純父子の
策謀で一族悉く死罪、改易となり、彦左衛門だけが 2,000石
の旗本として残る。その無念を晴らすために、彦左衛門は
晩年に「三河物語」を書き残した。
徳川家創業当時の家臣は、皆大大名にはなっていない。
本多父子もその後改易となる。創業以来苦労を供にしてきた
忠臣たちを、大名に取り立ててやるのが“情”だろうが、
家康は、それをしなかった。家臣はあくまで家臣か。為政者
としての卓見か。
会津藩祖保科将之は、秀忠の落胤として生まれ、保科家に
預けられた。信州高遠の保科家からの家臣は、会津23万石と
なっても厚遇されず、むしろ外部からの転籍組が重用された。
私の母方は高遠以来の家臣だったが100石止まり。父方は
紀州家からの転籍で、500石の側用人にまで登りつめた。
人の世の運、不運、その処し方、大久保彦左衛門の生き様に
わが先祖の苦労を重ね合わせて「新三河物語」を読んだ。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。