現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

八重の親友「時尾」と「ユキ」

2013-07-02 23:31:15 | 「八重の桜」
『八重の桜』で「山本八重」の幼馴染親として しばしば登場してくる
「高木時尾」(貫地谷しほり)と「日向ユキ」(剛力彩芽)。
この二人の女性のことは、全く知りませんでしたが実在の人でした。

   山本八重(1845~1932年) 享年88 (→新島八重)

   高木時尾(1846~1925年) 享年75 (→藤田時尾)

   日向ユキ(1851~1944年) 享年94 (→内藤ユキ)

時尾は八重の一つ年下。ユキは6歳も年下で、三人とも長命。

■「高木時尾」は、会津戦争のあと、なんと新選組の「斉藤一」
(1844~1915年)と結婚。『八重の桜』では最初から新撰組の
「土方歳三」よりも「斉藤一」ばかりが出てきていて“変だな”と
思って見ていましたが、その「斉藤一」と「八重」の幼馴染
「時尾」とが結びつくとは。まるでフィクション(作り話)のよう。

しかも、松平容保が上仲人、佐川官兵衛と山川大蔵が下仲人を
務めたとか・・。「斎藤一」は、時尾との結婚後、時尾の母方の姓
「藤田」を名乗り「藤田五郎」と改名。心機一転、生まれ変わっての
再出発を期したのでしょうか。


■「日向ユキ」は 鶴ヶ城の籠城戦の時は、城に入ることができず
栗城伝吉宅にかくまわれて終戦を迎え、会津戦争の後に、斗南に
移り住み、そこからさらに函館に移ります。

その函館で、1872年、なんと元薩摩藩士の「内藤兼備」と結婚!。
これも驚き。山川大蔵、健次郎の妹「捨松」が薩摩の「大山巌」と
結婚しますが、その二人よりもずっと先に、「ユキ」は薩摩人と
結婚。それも1872年ですから会津落城からわずか4年後のこと。
そして「八重」が50代になって、札幌を訪れたときに、ユキと
再会しています。なんとドラマチック。『八重の桜』後半もまた
楽しみです。



「松平容保」が「人気ナンバーワン」に

2013-07-02 12:28:51 | 「八重の桜」

「幕末人気ランキング」で、なんと「松平容保」が 123,456ポイントで
第一位。『八重の桜』で「容保」の苦衷を余すことなく描いてくれて
いますからね。美濃の高須家から養子にきて、幕末の動乱に翻弄され、
3,000人の藩士を死に追いやった“悲劇の宰相”“薄幸の美男”
ですからね。

さて、2位が「土方歳三」97,911、そして3位に「西郷頼母」83,580。

「西郷頼母」は、これまで評価はあまり良くなく「逃げ腰、弱虫、
なんでも反対の無責任。無能」という酷評もありました。それが
『八重の桜』では、西田敏行を起用してドラマで重要な位置を
占めています。

(日本生命のPR誌「経営情報」でも取上げられていました)

西郷頼母は、藩が挙国一致、全力を挙げて戦っている時に、
“足手まとい”の煙たい存在でしたから、会津籠城のさなか、
城を出ます。その理由が、実は はっきりしないなのです。


晩年に「西郷頼母」自身が書き残したは『栖雲記』には
「(殿から)軽き使者の任を仰せつかり、越後口の萱野権兵衛
長修の陣に向かった」ということになっています。

筆頭家老の「西郷」が、末席家老の「萱野」のもとに「軽き
使者の任」で使わされた。


さて、その後のことは憶測の小説話ですが、「西郷は 城から
追放され、さらに追っ手が差し向けられた。つまり刺客が送られた。

城の周りは敵に囲まれているのですから、城から出て敵に殺られる
可能性は高い。それでも無事に切り抜けた時は刺客がトドメを刺す
ように「容保」が命じた。

しかし、刺客たちは、敢えて 西郷が向かった越後口とは逆の方に
向かい、西郷を逃がしたというものです。

この話の出典を探していますが、「西郷頼母」は、主戦派からは
にらまれていたとしても、藩主「容保」が「西郷」を殺したいほど
憎んでいたとは思えません。

明治になって晩年に、容保が「日光東照宮」の宮司になった時、
「西郷」は禰宜となって「容保」に仕えているのです。
「容保」が暗殺を指示したとするなら、「容保」はどんな気持ちで
「西郷」を迎えたのでしょう。

さて『八重の桜』では、この「西郷の追放」をどのように
描くのか。次週が楽しみです。