『八重の桜』で「山本八重」の幼馴染親として しばしば登場してくる
「高木時尾」(貫地谷しほり)と「日向ユキ」(剛力彩芽)。
この二人の女性のことは、全く知りませんでしたが実在の人でした。
山本八重(1845~1932年) 享年88 (→新島八重)
高木時尾(1846~1925年) 享年75 (→藤田時尾)
日向ユキ(1851~1944年) 享年94 (→内藤ユキ)
時尾は八重の一つ年下。ユキは6歳も年下で、三人とも長命。
■「高木時尾」は、会津戦争のあと、なんと新選組の「斉藤一」
(1844~1915年)と結婚。『八重の桜』では最初から新撰組の
「土方歳三」よりも「斉藤一」ばかりが出てきていて“変だな”と
思って見ていましたが、その「斉藤一」と「八重」の幼馴染
「時尾」とが結びつくとは。まるでフィクション(作り話)のよう。
しかも、松平容保が上仲人、佐川官兵衛と山川大蔵が下仲人を
務めたとか・・。「斎藤一」は、時尾との結婚後、時尾の母方の姓
「藤田」を名乗り「藤田五郎」と改名。心機一転、生まれ変わっての
再出発を期したのでしょうか。
■「日向ユキ」は 鶴ヶ城の籠城戦の時は、城に入ることができず
栗城伝吉宅にかくまわれて終戦を迎え、会津戦争の後に、斗南に
移り住み、そこからさらに函館に移ります。
その函館で、1872年、なんと元薩摩藩士の「内藤兼備」と結婚!。
これも驚き。山川大蔵、健次郎の妹「捨松」が薩摩の「大山巌」と
結婚しますが、その二人よりもずっと先に、「ユキ」は薩摩人と
結婚。それも1872年ですから会津落城からわずか4年後のこと。
そして「八重」が50代になって、札幌を訪れたときに、ユキと
再会しています。なんとドラマチック。『八重の桜』後半もまた
楽しみです。
「高木時尾」(貫地谷しほり)と「日向ユキ」(剛力彩芽)。
この二人の女性のことは、全く知りませんでしたが実在の人でした。
山本八重(1845~1932年) 享年88 (→新島八重)
高木時尾(1846~1925年) 享年75 (→藤田時尾)
日向ユキ(1851~1944年) 享年94 (→内藤ユキ)
時尾は八重の一つ年下。ユキは6歳も年下で、三人とも長命。
■「高木時尾」は、会津戦争のあと、なんと新選組の「斉藤一」
(1844~1915年)と結婚。『八重の桜』では最初から新撰組の
「土方歳三」よりも「斉藤一」ばかりが出てきていて“変だな”と
思って見ていましたが、その「斉藤一」と「八重」の幼馴染
「時尾」とが結びつくとは。まるでフィクション(作り話)のよう。
しかも、松平容保が上仲人、佐川官兵衛と山川大蔵が下仲人を
務めたとか・・。「斎藤一」は、時尾との結婚後、時尾の母方の姓
「藤田」を名乗り「藤田五郎」と改名。心機一転、生まれ変わっての
再出発を期したのでしょうか。
■「日向ユキ」は 鶴ヶ城の籠城戦の時は、城に入ることができず
栗城伝吉宅にかくまわれて終戦を迎え、会津戦争の後に、斗南に
移り住み、そこからさらに函館に移ります。
その函館で、1872年、なんと元薩摩藩士の「内藤兼備」と結婚!。
これも驚き。山川大蔵、健次郎の妹「捨松」が薩摩の「大山巌」と
結婚しますが、その二人よりもずっと先に、「ユキ」は薩摩人と
結婚。それも1872年ですから会津落城からわずか4年後のこと。
そして「八重」が50代になって、札幌を訪れたときに、ユキと
再会しています。なんとドラマチック。『八重の桜』後半もまた
楽しみです。