現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

創作された「武田惣角」伝記

2013-07-07 16:52:57 | 会津藩のこと
合気道の達人「塩田剛三」「植芝盛平」については
知っていたが、「合気」の創設者「武田惣角」のことは
全く知らなかった。「大東流合気道」は、現在、全国に
いくつもの派があって、その元は「会津藩士 武田惣角」に
始まるという。大東流では、「武田惣角は 新羅三郎義光を
祖とする武田家の一族で、武田家滅亡後会津に土着し、
会津藩に仕えた」と言い伝えているとのこと。

それを「池月映」氏が現地を詳らかに調査して、すべて
創り話であると論破した。私としては、伝承の真偽より、
虚無僧がその開祖を中国の「普化禅師」とし、日本に
伝えたのが由良興国寺の「法燈国師覚心」、そして
虚無僧の元祖を「楠木正勝」とする伝承を創作したのと
同じ構造であることに関心がある。世を捨てた虚無僧
でも、権威付けが欲しかったのだ。

「合気道」は、古来からの日本の武道のように思われて
いるが、「武田惣角」が たえまざる研究と鍛錬の結果、
独自に編み出した比較的新しい武術であること。

しかし、彼は“農民の出”であったから、講道館柔道の
ようには世に認められず、放浪と隠遁の生涯を終えたこと。
講道館柔道が「西郷頼母」の養子「西郷四郎」で一躍
知られるようになったことからか、また偶然か「大東流
合気術」も「西郷頼母」を利用したことが実に面白い。


超人「武田惣角」

2013-07-07 10:29:20 | 会津藩のこと
池月映『武田惣角』を読むと、「武田惣角」は
隣家に越してきた「佐藤金右衛門」とその孫「忠孝」
から剣術、捕縛術などを、武田善十郎、長尾清伍から
柔術を、池上源次郎から組太刀を、中川万之丞から
易学を学んだ。密教の念力なども学んでいた。

「惣角」はただ腕っぷしが強いだけではなかった。
「読心術」「予知能力」「念力」や「気功」にも
長けていた。

「惣角」も「西郷四郎」同様、五尺(150cm)の
小男だった。それが剣の達人と試合をして、相手の
心(動き)を読み、一瞬にして、相手の“気”を
抜いて、突きを入れる。そうした超人的な神業で
耳目を集めた。

その術は、「植芝盛平」さらに「塩田剛三」
伝えられた。「塩田剛三」の映像フイルムが
残されている。何人もの大男が一斉にかかっても、
赤児の手をひねるようにカンタンに投げ飛ばされる。
体に触れずに飛ばされる者もいた。

ロバート・ケネディが、そんな塩田の演技を見て、
同行していたボディーガードと手合せをさせたところ、
身長わずか154cm、46kgの塩田が巨漢の男を
“蜘蛛がピンで留められた”ようにいともカンタンに
取り押さえられてしまったという映像もある。

「塩田剛三」の映像を通して「武田惣角」の超人的な
技を知ることができる。

「武田惣角」は、それほどの技を持ちながら、世に
出ようとせず、道場も持たず、諸国を放浪して
多くの人に技を伝え、最後は北海道に隠遁した。

「大東流」そして「新羅三郎以来の武田の術、保科
(西郷)頼母の御式内の術」などの伝承が創られる
のは、惣角の三男「時宗」が昭和28年、北海道
網走に「大東館道場」を開いた時からである。
網走は、幕末、会津藩が京都守護職を引き受けて
その任官地として幕府から賜った、会津藩領だった。





武田惣角と西郷頼母との接点

2013-07-07 09:11:41 | 会津藩のこと
「大東流合気柔術」では、「武田惣角は、新羅三郎義光を祖とする
武田の一族で、武田家滅亡後、会津に来て坂下に土着した。
惣角の父は力士。惣角は明治になって、霊山に西郷頼母を訪ね、
西郷から、会津藩に伝わる「御式内(御敷居内)」を始め
陰陽道、易、合気を習った」と。

しかし、池月映氏は、会津での実地調査で、会津では「御式内」も
「武田惣角」のことも全く知られていない。「惣角自身、会津では
何も語っていないし、足跡を残してない」とのこと。

武田惣角は明治13年(1880)と、明治31年(1898)の2回、
西郷頼母を訪ねている。最初は日光東照宮で。この時は、
せいぜい1週間の逗留で、西郷から「御式内柔術」や
「陰陽道」「易学」の奥義を習い修めることなど不可である。

明治31年(1898)、西郷頼母は霊山の宮司になっていた。
この時も、西郷頼母が武術、易学などを惣角に教えたという
記録はない。

考えられるのは、西郷は、惣角の武勇伝、経歴を聞いて、
西郷(保科)家が、新羅三郎義光を祖とする武田の一族で
武田流軍学を学んでいたことなどを話して聞かせ、惣角が
武術で身を立てていくには、一流派を名乗り、その由緒
正しきを創作すること、そして免状を発行することが、
生活の糧となることなどを入れ知恵したものと思われる。

「惣角」の家は江戸時代まで「竹田」姓で、宮相撲の
力士だった。戸籍上は「農民」であって会津藩士ではない。

明治になっても「旧士族」でない「惣角」は警察や
軍隊など、公の場で武術を教えることができなかった。

腕っぷしは滅法強いが、文字の読み書きはできなかった。
家を飛び出し、諸国放浪の生活で借金まみれだった。
そんな「惣角」に「西郷頼母」は「新羅三郎以来の
合気術」という由緒を創作することを教えたのだった。