現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

『八重の桜』 第28回

2013-07-14 22:21:50 | 「八重の桜」
籠城戦の中のエピソードが史実そのままに丁寧に
描かれる。

「鬼の官兵衛」の異名をとる「佐川官兵衛兵」。未明に
出撃のはずが、前夜 飲みすぎて寝坊するという大失態。
この辺の演技は「中村獅童」ならばこそ 見れました。
あれではもう城には戻れませんな。「なんの顔面(かんばせ)
あって、殿にまみえん」でしょう。腹切りもんです。
佐川官兵衛は、明治10年、西南戦争で、鉄砲に撃たれて
落命します。刀の時代は終わったのに、ある意味、情けない
死に方でした。官兵衛を撃った農兵は、本来なら“英雄”で
しょうが、“まことの武士を飛び道具で撃つとは卑怯者”と
仲間から非難されたとか。

あの長命寺の戦いで、私の母方の「山室金吾」も「進撃隊」の
隊長として加わり戦死しています。

八重が教えた敵弾の消火法で、山川大蔵の妻「登勢」が
吹き飛ばされ、あえなく死亡。

八重は敵の爆弾の仕組みを殿に説明する。そう あの砲弾
わが家にもありました。たしか「御薬園」に寄贈して
展示してあるはず。



至高の芸 新内の「岡本文弥」師

2013-07-14 22:04:13 | 私の尺八遍歴
「新内」といえば、1996年、101歳で亡くなられた「岡本文弥」
私の半世紀に及ぶ 長い尺八人生で、今もって忘れられないのは
「岡本文弥」師との出会い。琵琶の水藤五郎師に連れられて
文弥師の事務所を訪ねたことがありました。

これぞ、真の芸、誰もが認める至高の芸。「新内」で
無形文化財保持者、いわゆる“人間国宝”になられた。
文弥師は「人間国宝」でなく「人間骨董」ですと。

虚無僧では「人間国宝」にはなれぬべい。本物の「骨董」じゃ。

芸のすごさに感服すると同時に、日本の伝統芸に携わる人は
皆 保守的で、右翼で、自民党支持者かと思っていた私でしたが、
昭和45~6年頃の学生運動が過激だった時代に、「岡本文弥」が
根っからの「共産党」と知ったショックは強烈でした。

真の芸術家は かくあるものかと、大きく方向転換させられた
私でした。

文弥師匠の「邦楽いろは歌留多」は、芸を志す人に金言


い : 一芸一途 余念なく

ろ : 路地暮しでも、あの師匠

な : 名前売るより 芸磨け

き : 気が滅入れば 芸も滅入る

や : 野心が芸を 堕落させる

け : 芸知らぬ人の芸評 気にしない

め : 免状は 世間がくれる

み : 身にしみる あの人の芸 またききたい

す : 好きな芸でも 押し売りせず

し : 自慢より 自信

(自慢はしゃべり 自信は沈思黙考す)

か : 金追って 芸追い付かず


ある人のブログで「たった一回の出会いで、生涯懐かしむ
音楽家が一人 ここにいるのです」と。まさに私も同感です。



「新内(しんない)」って知んない?

2013-07-14 21:12:43 | 虚無僧日記
「新内(しんない)」とは・・・・・


江戸時代の中頃、京都に「宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)」
という人がおりました。彼は始め、都太夫一中の「一中節(いっちゅうぶし)」
を語っておりました。しかし、「一中節」より もっと感情を
吐き出す、抑揚の激しいフシで語りたいと、独自の芸風を作り、
「豊後節」が出来ました。 一中節 → 豊後節

宮古路豊後掾は、京都を発って、一時 名古屋にも滞在。そこで、
実際にあった心中事件を題材に《睦月連理(むつまじきれんりの
たまつばき)》を作り、江戸へ下り、江戸でも大人気を得た。

しかし、よそものの豊後節が江戸の人気をさらったのですから
風当たりも強く、また「心中物」は「心中」をそそのかすから
よろしくないと、江戸幕府から「豊後節禁止」のお触れが出ます。


詮方なく豊後掾は京都へ帰る。弟子たちの中から名人上手が出、
「常盤津」「富本」「清元」などの分派が生まれ、その一つが
「富士松」=新内の元祖です。

富士松の一門から「敦賀太夫」が独立して「鶴賀若狭掾(つるが
わかさのじょう)」を名乗る。さらに「鶴賀新内」という人が
いて、これが無類の美声でした。

「鼻に抜ける声」にたまらない味があって、誰も彼もが この
「鶴賀新内」の芸風をまねたといいます。

「鶴賀新内」の「新内節」は 当初 歌舞伎にも登場していたが、
やがて「劇場」から離れ、遊郭の吉原を舞台に「流し」という
街頭芸になっていった。これが「新内流し」。

哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、
遊里の女性たちに大いに受け、隆盛を極めた。

「新内流し」とは、二人一組で「普通三味線」と「上調子の
三味線 (高い調子で撥も小さい)」の2丁の三味線で合奏し、
三味線を弾きながら高い声で歌い、街頭を流す。

呼ばれたら座敷に上がって、または戸口に立って芸を聞かせる。
流しをすることは、修行の一つでもあった。

ということで、越後の「ゴゼ」、津軽の「ぼうさま」、そして
虚無僧も「門付け」ではありんすが、「新内」だけ 裕福な
客層を相手でござる。芸の格か。

『籠釣瓶花街酔醒 (かごつるべ さとのえいざめ)』

2013-07-14 09:44:02 | 私の尺八遍歴
9月7日 京都リーガロイヤルホテルでの「富士松松園」さんの
会で尺八伴奏を相勤めることになり申した。「松園」さんは、
毎年「新内」の会を開いてござる。お食事付きで一万円。
そういう世界にお招きいただけることは、ほんとに光栄な
ことです。

詩吟、一絃琴、ご詠歌、そして「新内」。もちろん「楽譜」
なんてございません。いつも「初(はつ)体験」。
して、出し物は?
籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)』

はて、とんと存じませぬ。ネットで調べました。何でも
でてきて便利な世の中になりました。ストーリーは


佐野の「次郎左衛門」という実直な商人が、吉原の花魁(おいらん)
「八ツ橋」に一目惚れし、吉原に通い詰めて「八ッ橋」の身請け話に
まで漕ぎつけます。ところが、今日は身請けの返事をもらいに・・・
というところで、「八ツ橋」は 心変わりをしたか「主の顔を
見るのもいやでありんす」と断り、満座で「次郎左衛門」に
恥をかかせます。その場は怒りと涙をこらえて、いったん
故郷に帰った「次郎左衛門」でしたが・・・。
「八ツ橋」への未練と屈辱 堪(こら)えがたく、四ヶ月後、
再び吉原を訪れ、「八ツ橋」刃傷に及びます。

「新内」では サワリの部分だけを 30分ほどにまとめてあるので
なぜ「八ツ橋」が心変わりしたのか、事情が判りません。そこで
衛星劇場で放映された「歌舞伎芝居」を観ました。「次郎左衛門」を
中村勘三郎。なんと疱瘡をわずらって醜いアバタ顔。これで「顔を
見るのもいや」という理由がわかりました。その花魁「八ツ橋」を
「玉三郎」。もう次郎左衛門が人目見て放心状態になるのもわかります。

美しさの中にも、遊女の哀(かな)しみと、花魁の誇りと気位の高さ、
「八ツ橋」「次郎左衛門」そのどちらにも“哀れみ”を感じる話です。


ところで「籠釣瓶(かごつるべ)」って何だべ。なんと「八ツ橋」を
斬った刀の名称でした。「籠(かご)」で作った「つるべ」は
「水が溜まらない」に掛けて「水(血)もとどまらずに はじけるほど
よく斬れる」。その刀はなんと「妖刀、村正(むらまさ)」。

家康の父と祖父が 家臣に殺された時の刀が「村正」だったことから
「徳川に仇(あだ)なす妖刀」と、江戸時代では帯刀を禁じられていたもの。

この『籠釣瓶花街酔醒』は、江戸時代の享保年間に起きた
「吉原百人斬り」事件をもとにした作品で、歌舞伎として
初演されたのは 1888年(明治21年)。そうでしょう。
江戸時代には上演できなかったでしょうな。そんな知識が
あればこそ、理解も深まり 面白いのです。

さて、ところで「歌舞伎」では、二人のやりとりの場面で
全く鳴り物がはいりません。緊張の駆け引きの場を 顔の
表情で演じるのが見所。となると、尺八はどこで入るんだべ。
ここが思案のしどころ、腕の見せ所でありんす。