「大東流合気柔術」のHPを見ると、「大東流」は
会津藩家老「西郷頼母」から「武田惣角」に伝えられたと
明記されています。
Wikipediaでは、「武田惣角」は 会津坂下町で生まれた。母は
「黒河内伝五郎」の娘・富。
とあってビックリ。「黒河内伝五郎」といえば『八重の桜』で
八重さんたちに薙刀を教えている人物ではないですか。
「六平直政」という俳優さんが演じていて、最後「山本覚馬」同様、
目が見えなくなるのですが、槍をもってユキさん一家を西軍から
守り、討ち死にします。なかなかいい役でした。
「黒河内伝五郎」は、神夢想一刀流、稲上心妙流柔術、静流と
穴沢流の薙刀術、宝蔵院流高田派の槍術、白井流手棒術、手裏剣術、
鎖鎌術、針吹術、馬術、弓術、吹矢術と武芸百般に通じ、「幕末
最強の武術家」と言われたそうです。
「武田惣角」が、その「黒河内伝五郎の娘の子」と言われると
素直に納得してしまいますが、これも「嘘」とのこと。
「合気の発見」の著者「池月映」氏によると、「武田惣角」の
実母は「農家の斉藤氏」の娘。父の後妻が「黒河内権助」の次女。
「権助」は「伝五郎」の親戚のようです。
「武田惣角」の父は「宮相撲の力士」で、「惣角」は幼少期から
相撲、柔術、宝蔵院流槍術、小野派一刀流剣術を学び、「会津の
小天狗」と称される程の腕前だった。
さらに「武田惣角」に武芸十八般を教えたのは、「西郷頼母」
ではなく、戊辰戦争後、隣りに越してきた藩士(御供番・百石)の
「佐藤金右衛門」とその孫「忠孝」。
この「池月映」氏からメールをいただき、「佐藤忠孝」の妻が
「牧原一郎(300石)」の五女「やお」と教えてくださいました。
墓石なども確認したそうです。
「牧原一郎」も「お供番」でしたから、五女を同輩の「佐藤金右衛門」の
孫に嫁がせたのでしょう。「牧原一郎」は会津戦争で、容保公が
滝沢に出陣した時、「お供番」として殿の側に仕えていました。
そして「老齢の身足手まといになっては」と自刃たのです。
「武田惣角」は藩士(士族)ではなかったために、会津藩関係の
史料には全く顔を出さず、会津では知られていません。そもそも
安政6年1(1859年)の生まれですから、戊辰戦争の時はまだ9歳の
子供でした。
本人も会津では、武術では生きられず、明治以降 各地を転々と
しています。
明治10年の「西南戦争」では西郷隆盛軍に身を投じようとした。
これも「西郷頼母」の依頼を受けて、応援に行ったなどと創作
されています。
しかし叶わず、西南戦争後は九州を皮切りに各地で武者修行。
明治21年(1888年)会津坂下町に帰り、「佐藤健四郎」の娘
コンと結婚し、一男一女が生まれますが、また家を出て、
放浪の身となった。
惣角は、請われれば何処にでも出向いて「大東流合気柔術」を
広めた[。
明治31年(1898年)霊山神社の宮司をしていた「西郷頼母」から
「御式内(御敷居内)」を学んだとするのも嘘のようです。
となると、「大東流合気柔術」は、「武田惣角」自身が創始した
ものと言えるのです。ところが戸籍上は「士族」でなかったために、
「大東流」を権威づけるため、「黒河内伝五郎」や「西郷頼母」と
「御式内」の話を創作したのではなかったのかと私には思えて
きました。
会津藩家老「西郷頼母」から「武田惣角」に伝えられたと
明記されています。
Wikipediaでは、「武田惣角」は 会津坂下町で生まれた。母は
「黒河内伝五郎」の娘・富。
とあってビックリ。「黒河内伝五郎」といえば『八重の桜』で
八重さんたちに薙刀を教えている人物ではないですか。
「六平直政」という俳優さんが演じていて、最後「山本覚馬」同様、
目が見えなくなるのですが、槍をもってユキさん一家を西軍から
守り、討ち死にします。なかなかいい役でした。
「黒河内伝五郎」は、神夢想一刀流、稲上心妙流柔術、静流と
穴沢流の薙刀術、宝蔵院流高田派の槍術、白井流手棒術、手裏剣術、
鎖鎌術、針吹術、馬術、弓術、吹矢術と武芸百般に通じ、「幕末
最強の武術家」と言われたそうです。
「武田惣角」が、その「黒河内伝五郎の娘の子」と言われると
素直に納得してしまいますが、これも「嘘」とのこと。
「合気の発見」の著者「池月映」氏によると、「武田惣角」の
実母は「農家の斉藤氏」の娘。父の後妻が「黒河内権助」の次女。
「権助」は「伝五郎」の親戚のようです。
「武田惣角」の父は「宮相撲の力士」で、「惣角」は幼少期から
相撲、柔術、宝蔵院流槍術、小野派一刀流剣術を学び、「会津の
小天狗」と称される程の腕前だった。
さらに「武田惣角」に武芸十八般を教えたのは、「西郷頼母」
ではなく、戊辰戦争後、隣りに越してきた藩士(御供番・百石)の
「佐藤金右衛門」とその孫「忠孝」。
この「池月映」氏からメールをいただき、「佐藤忠孝」の妻が
「牧原一郎(300石)」の五女「やお」と教えてくださいました。
墓石なども確認したそうです。
「牧原一郎」も「お供番」でしたから、五女を同輩の「佐藤金右衛門」の
孫に嫁がせたのでしょう。「牧原一郎」は会津戦争で、容保公が
滝沢に出陣した時、「お供番」として殿の側に仕えていました。
そして「老齢の身足手まといになっては」と自刃たのです。
「武田惣角」は藩士(士族)ではなかったために、会津藩関係の
史料には全く顔を出さず、会津では知られていません。そもそも
安政6年1(1859年)の生まれですから、戊辰戦争の時はまだ9歳の
子供でした。
本人も会津では、武術では生きられず、明治以降 各地を転々と
しています。
明治10年の「西南戦争」では西郷隆盛軍に身を投じようとした。
これも「西郷頼母」の依頼を受けて、応援に行ったなどと創作
されています。
しかし叶わず、西南戦争後は九州を皮切りに各地で武者修行。
明治21年(1888年)会津坂下町に帰り、「佐藤健四郎」の娘
コンと結婚し、一男一女が生まれますが、また家を出て、
放浪の身となった。
惣角は、請われれば何処にでも出向いて「大東流合気柔術」を
広めた[。
明治31年(1898年)霊山神社の宮司をしていた「西郷頼母」から
「御式内(御敷居内)」を学んだとするのも嘘のようです。
となると、「大東流合気柔術」は、「武田惣角」自身が創始した
ものと言えるのです。ところが戸籍上は「士族」でなかったために、
「大東流」を権威づけるため、「黒河内伝五郎」や「西郷頼母」と
「御式内」の話を創作したのではなかったのかと私には思えて
きました。