現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

合気道の祖「武田惣角」とは

2013-07-04 16:49:13 | 会津藩のこと
大東流合気柔術」のHPを見ると、「大東流」は
会津藩家老「西郷頼母」から「武田惣角」に伝えられたと
明記されています。

Wikipediaでは、「武田惣角」は 会津坂下町で生まれた。母は
「黒河内伝五郎」の娘・富。

とあってビックリ。「黒河内伝五郎」といえば『八重の桜』で
八重さんたちに薙刀を教えている人物ではないですか。

「六平直政」という俳優さんが演じていて、最後「山本覚馬」同様、
目が見えなくなるのですが、槍をもってユキさん一家を西軍から
守り、討ち死にします。なかなかいい役でした。

「黒河内伝五郎」は、神夢想一刀流、稲上心妙流柔術、静流と
穴沢流の薙刀術、宝蔵院流高田派の槍術、白井流手棒術、手裏剣術、
鎖鎌術、針吹術、馬術、弓術、吹矢術と武芸百般に通じ、「幕末
最強の武術家」と言われたそうです。

「武田惣角」が、その「黒河内伝五郎の娘の子」と言われると
素直に納得してしまいますが、これも「嘘」とのこと。


「合気の発見」の著者「池月映」氏によると、「武田惣角」の
実母は「農家の斉藤氏」の娘。父の後妻が「黒河内権助」の次女。
「権助」は「伝五郎」の親戚のようです。


「武田惣角」の父は「宮相撲の力士」で、「惣角」は幼少期から
相撲、柔術、宝蔵院流槍術、小野派一刀流剣術を学び、「会津の
小天狗」と称される程の腕前だった。

さらに「武田惣角」に武芸十八般を教えたのは、「西郷頼母」
ではなく、戊辰戦争後、隣りに越してきた藩士(御供番・百石)の
「佐藤金右衛門」とその孫「忠孝」。

この「池月映」氏からメールをいただき、「佐藤忠孝」の妻が
「牧原一郎(300石)」の五女「やお」と教えてくださいました。
墓石なども確認したそうです。

「牧原一郎」も「お供番」でしたから、五女を同輩の「佐藤金右衛門」の
孫に嫁がせたのでしょう。「牧原一郎」は会津戦争で、容保公が
滝沢に出陣した時、「お供番」として殿の側に仕えていました。
そして「老齢の身足手まといになっては」と自刃たのです。


「武田惣角」は藩士(士族)ではなかったために、会津藩関係の
史料には全く顔を出さず、会津では知られていません。そもそも
安政6年1(1859年)の生まれですから、戊辰戦争の時はまだ9歳の
子供でした。

本人も会津では、武術では生きられず、明治以降 各地を転々と
しています。

明治10年の「西南戦争」では西郷隆盛軍に身を投じようとした。
これも「西郷頼母」の依頼を受けて、応援に行ったなどと創作
されています。

しかし叶わず、西南戦争後は九州を皮切りに各地で武者修行。
明治21年(1888年)会津坂下町に帰り、「佐藤健四郎」の娘
コンと結婚し、一男一女が生まれますが、また家を出て、
放浪の身となった。

惣角は、請われれば何処にでも出向いて「大東流合気柔術」を
広めた[。

明治31年(1898年)霊山神社の宮司をしていた「西郷頼母」から
「御式内(御敷居内)」を学んだとするのも嘘のようです。

となると、「大東流合気柔術」は、「武田惣角」自身が創始した
ものと言えるのです。ところが戸籍上は「士族」でなかったために、
「大東流」を権威づけるため、「黒河内伝五郎」や「西郷頼母」と
「御式内」の話を創作したのではなかったのかと私には思えて
きました。

西郷頼母は合気道の祖か?

2013-07-04 13:34:09 | 会津藩のこと

「西郷頼母」と「西郷四郎」の接点として考えられているのが
「合気道」です。

「Wikipwdia」でも「四郎は、16歳で会津藩家老・西郷頼母の養子となり、
霊山神社に宮司として奉職する頼母に育てられ、頼母から柔術の
手ほどきを受ける」とあります。ネットの多くが この説を
とりあげていますが、しかし、「頼母」が霊山の宮司に
なるのは、もっと後、最晩年ですから、これは勝手な思い込みです。

「西郷頼母」は、先祖代々主君の側近に仕える身、万が一、君公が
襲われた時、咄嗟に刀を使わずに相手を倒す、防御の術「御式内」
という武術を、先祖代々継承していた。

「西郷四郎」が講道館に入門して僅かの歳月で、講道館を代表する
柔道家になれたのは、「御式内」の基礎があったからである。
彼が得意とした「山嵐」も、「御式内」の術のひとつだった。

などと まことしやかに書かれているのですが、会津通の私でも
“はてな?”です。藩の記録には「御式内」のことも、「西郷頼母」が
「御式内」の継承者であったということも全く出てきません。

これはどうやら「大東流 合気柔術」の「由緒書」に書かれている
ようで、「頼母」は「合気道」の祖のように言われています。

「西郷四郎」を開祖とする「西郷派大東流合気武術」という団体も
あるそうです。しかし、「西郷四郎」が養父「西郷頼母」から
武術を学んだという史料や伝承は皆無です。

そして「西郷頼母」と「四郎」が疎遠になったのは、「頼母」は
「四郎」に会津「御式内」を継承してもらいたかったのに、
「四郎」は「合気道」より「柔道」の道を選んだからとも
言われています。これも憶測で、小説なら面白いのですが・・・。


さらには、後継者を失った「西郷頼母」は「御式内合気術」を
会津のお抱え力士の家に生まれた「武田惣角」に伝授し、
「武田惣角」から「植芝盛平」に、植芝から「富木謙治」に
伝えられた。今日「合気道」と名乗る各流派は、この三名の
いずれかを始祖と仰いでいるというのです。

「西郷四郎」は柔道、四郎の養父「頼母」は「合気道」の祖と
いつのまにか 定説になっしまったようです。会津戦争では
“臆病者、卑怯者”といわれた「西郷頼母」が、今、合気道の
世界では“流祖”にまつりあげられているとは、あの世で
「頼母」は苦笑していることでしょう。