ネットで『おちょろ女と虚無僧』と一緒に入手したのが
仙石騒動について書かれた小説『風聞』。著者は「丹波
元(はじめ)」氏。放送作家だそうだ。
「仙石騒動」というと、我々虚無僧愛好者は、手前味噌で
「虚無僧・友鵞(ゆうが)=神谷転(うたた)」を中心に
論じてしまうが、この小説は「家老の仙石左京と 仙石造酒」
との対立を克明に描いている。「神谷転」のことは、わずか
10数ページほどだが、実によく、「虚無僧」の実態を知り尽く
している。
「普化宗は、その宗旨と存在が特殊であるため、宗教界に
於ける力が弱く、単なる浪人の駆け込み寺的に思われがち
だった。そこで一月寺の役僧「愛璿(あいせん)」は、友鵞
(=神谷転)の一件を利用して、日頃縁の無い寺社奉行との
接触を強め、普化宗の存在を世に認めさせようとした」
「出石藩」の揉め事が大きくなればなるほど、普化宗の
存在が世間に知られる」と。
虚無僧愛好者の中には、「虚無僧は『家康公のお墨付』を
得て天下御免の・・・」などと信じて高言している人が多いが、
実態は「丹波」氏が書かれている通りだと思う。
「愛璿」の思惑は成功したかにみえるが、この後、「普化宗
とは何ぞや」の詮議が始まり、『家康公のお墨付』も偽書と
断定され、虚無僧は弾圧されるようになるのである。
「やぶへび」だったのだ。
(社)実践倫理宏正会の会長「上広栄治」氏の著書『朝の誓い』に
「時、金、心の三つの無駄を排す」という項目で「青砥藤綱」の
話が引用されています。
『太平記』の巻35にある逸話。
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鎌倉幕府の御家人で名裁判官と言われた「青砥藤綱」は、
ある夜のこと、馬で渡河するさなか、10文銭を川に落して
しまった。そこで、供の者に 松明(たいまつ)を50文で
買ってこさせ、水の中を照らして 10文銭を見つけだした。
供の者たちは、「銭10文を得るのに 50文を使っては、
得たものよりも失ったものの方が大きい、大損だ」と
笑った。しかし青砥藤綱は、「10文を無くすことは、
天下の損失。その10文を探すために、松明で50文を
使ったことは、人々の為になったのである」と。
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さてはて、鎌倉時代の話が なぜ『太平記』に出てくるのだろう。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鑑』などには「青砥藤綱」の名前は
出てこないので、そんな疑問を持ってしまう私。
調べてみました。
どうやら、「実在せず、架空の創作話」という説と「実在を
否定はできない」という程度の、不確かな存在のようです。
建武の新政から10年ほど経った興国年間に室町幕府の引付衆に
「青砥左衛門尉」なる奉行の名があるとか。
そしてまた、青砥左衛門尉は「きわめて質素に暮らし、倹約を
旨とした。他人に施すことを好み、入る俸給はすべて生活に
困窮している人々に与えた。藤綱がその職にあるときには、
役人は行いを慎み、風俗は大いに改まった」という。
私としては、役人と言えば“賄賂”がつきもの。その襟を
正させるために“理想の役人像”として、『太平記』の作家
によって創られた話と思えます。