ついに出た。『死ぬのは「がん」に限る。ただし、治療は
せずに。大往生したけりゃ 医療とかかわるな』という
長いタイトルの本。著者は医師の「中村仁一」氏。
●本人で治せないものを、他人である医者に治せるはずがない
●ワクチンを打ってもインフルエンザにはかかる
●解熱剤で熱を下げると、治りは遅れる
●「がん」で死ぬんじゃない、「がん治療」で死ぬのだ。
●「早期発見の不幸」「手遅れの幸せ」
●「がん」はあの世からの“お迎えの使者”
●極限時容態では痛みは感じない。
●手遅れのがんでも苦痛なしに死ねる
●医者にとって年寄りは大事な「飯の種」。
●年寄りはどこか具合の悪いのが正常
●“年のせい”と割り切った方が楽
逐一、私が日頃 思っている通りだ。
母も同じ意見。すっかり足腰が弱って歩けない母に、
「そろそろ、葬式の準備しておいてよ」と言うと、
「まだまだ死ねない、死なない」だと。
「死んでも医者に行かない」と言い張る母。
「母親の介護をせず、 医者にも連れていかなかった」
として私は「母親虐待」で逮捕されかねない。
おそろしや、おそろしや。
ある人から聞いたは。「恋は下心。愛は真心だ」と。
ほほう、たしかに字を見れば、恋は下に心。
愛は真ん中に心がある。
辞書をひいてみた。
【悪】【怨】【慰め】も下心があるかもしれない。
【恩】【意】【志】・・・・。案外 当てはまるようだ。
【恵】も【慈】も下心か。
【恋】は「亦(また)、下心」だ。恋心は何度も芽生える。
【悲】は「心に非ず」だ。同情して悲しんでいるフリ。
【惹】は「若い下心」
【愛】の他にも「真心」の字があった。【慶】【憂】これは真心からか。
「糸へんに半分と書いて 絆」。だから「絆」とは 本来弱いもの。
すぐ切れるようなもの。だから、東日本大震災後、さかんに
「絆を“強く”と」あえて“強く”と付け足して言われるようになった。
と、以前にブログで書きましたっけ。その時、ダークダックスの歌に
『絆』という曲があるのは知りませんでした。
「絆とは、お互い半分ずつの糸を結び合うから」とか。なるほど。
結び目の強いか弱いかですな。
ついでに2番は「にんべんに半分と書いて伴う」。
「人は半人前だから 二人で寄り添って生きていこう」と
いうのですか。なるほど。
『絆(きずな)』
【作詞】藤 公之介
【作曲】森田 公一
糸へんに半分と書いて 絆と読みます
お互いに 半分ずつの糸を
結びあうからです
糸の太さは人それぞれ
顔の違いと同じです
固いか 緩いか 程々か
その結び目が 大事です
※君がいたから 青春だった
君がいるから あたたかい
人は誰でも そんな友達
探し求めて 旅をする
にんべんに半分と書いて 伴うと読みます
人はみな 半人前が二人
道づれだからです
一人でできる ことと言えば
互いに たかが 知れてます
一人の旅より 二人旅
触れ合う肩が 語り合う
※繰り返し x 2
「苦しい」と「苦(にが)い」は同じ字なんですね。
「若い」うちは、「苦(にが)い」経験もし、「苦しむ」ものですな。
「若い」という字は「苦しい」字に似ている。そんな歌詞の歌がありました。
ネットで検索してみたら、「アン真理子」の『悲しみは駆け足でやってくる』という
曲でした。
1969年のヒット曲。「70年安保闘争」の真っ只中。私も失恋中で
苦しい青春時代でしたから、「若いという字は 苦しい字に似てるわ
涙が出るのは 若いというしるしね」と、そこだけ口ずさんでいました。
【歌詞】
明日という字は 明るい日と書くのね
あなたとわたしの明日は 明るい日ね
それでも 悲しい日も来るけど
だけどそれは 気にしないでね
二人は若い 小さな星さ
悲しい歌は知らない
若いという字は 苦しい字に似てるわ
涙が出るのは 若いというしるしね
それでも ときどき 楽しい日も来るけど
またいつかは 涙をふくのね
二人は若い 小さな星さ
悲しい歌は知らない。
ついでに、
「辛い」という字は、「幸せ」から一本抜いた字。
だから、今「辛い」のは、「幸せ」になる一歩手前
なんですってさ。
新聞の三面記事は、災害、交通事故、犯罪による死亡事件が
ずらりと並ぶ。‘死’は日常茶飯事。 でも、誰しも
「自分だけは、自分の身内だけは・・(今日は死なない)」と
思って生きている。もし、身内の者が突然に亡くなれば、
驚き 嘆き悲しむ。そんな気持ちに整理をつける言葉が
「定命(じょうみょう)」。
「瀬戸内寂聴」のもとへは、そうした悲しみを抱えた
多くの人が訪れる。寂聴さんは、一応「それは悲しい
ことですね」「辛いですね」と受け入れる。
その後で、「人は生まれた時から、いつ死ぬか、寿命は
決まっているの。それを“定命(じょうみょう)”と言います。
長生きしたいと思っても、お迎えがくれば行かなければ
ならない。死にたいと思っても、お迎えが来なければ 死ねないの。病気であっても、事故であっても、
自殺でも、みな 定命だと思いなさい」と。
そう、犯罪や交通事故に巻き込まれて死ぬのも、その人の
「運命」。生まれたときから、そうやって死ぬように
運命づけられていると思えば、あきらめもつく。
寂聴さん。こんなことまで。
子供を亡くして嘆き悲しむ母親に、「良かったじゃないの。
子供なんて 大きくなったら、親の言うことなんかきかなく
なって、あなたを困らせたかも。そんな苦労をせずに、
一番いい思い出の時に 亡くなったんだもの」と、明るく
笑いとばす。
これは、寂聴さんだから言える。あのキャラだから
言えるのであって、私が言ったら、かえって恨まれそう。
そして、寂聴さんは言う。
「お子さんの魂は、ずっと あなたの側にいて、あなたを
見守ってくれているわ」と。
「人は死んだら“成仏”と言ってね、みな 仏様になるの。
仏様になったんだから、悪いことなんか 絶対しないの。
よく世間では、悪い霊が憑いている。徐霊するために
この壷を買いなさい、なんて言う人がいるけど、亡くなった
人が悪いことはしません。
私なんか、男がみな先に逝ってしまったけれど、一人
亡くなるたびに、私はどんどん幸せになったわ。みな
私より先に死んで、私を守ってくれているのよ」。
「死んだら みな仏になる」というのは「天台宗」の考え。
同じ密教でも「真言密教」は、道教が色濃くはいって
いるから、“先祖供養をしないと、祟りがある”などといい、
施餓鬼を大切にする。
禅宗は「死んだら終わり、霊など存在しない」ときっぱり。
さて 私は この三者三様の中を行ったり着たり ウロウロ
しておるが、「定命」だけは信じる。