現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「無漏路、有漏路」とは

2022-12-06 18:56:43 | 一休と虚無僧

「一休」さんの話は、大抵江戸時代以降の創作です。

現在出版されている「一休」の本」を読むと、「一休」と
言う名前について、「一休が 20歳の時に悟りを得て、

有漏路より無漏路に帰る一休み、雨降らば降れ、風吹かば吹け

と詠み、それで師から「一休」という名をもらった」などと
書かれています。しかし「一休和尚年譜」などには、そのような
記載は無く、これも江戸時代の戯作者の創作でしょう。

多くの一休研究者は

「漏」は「穢れ、煩悩」の意味で現世、「無漏路(むろじ)」は
「煩悩の消え無い悟りの世界、つまりあの世」。

そこで「この人間世界は、あの世から来て来世に行くほんの一瞬」と悟ったのだとか

「煩悩を捨て悟ったかと思っても、また煩悩が芽生えて、悟りきれぬ自分に戻る。
悟ったかと思うと、また煩悩に苦しむ。その間を行ったり来たり。
いやもう、行ったり来たりするのもやめて一休み、一休み。
雨も降ればいいさ、風も吹けばいいさ」などと解説していますが。
そもそも「有漏路より無漏路に帰る一休み」は江戸時代の人が考えたこと。

『一休和尚年譜』には書かれていないのですから、この解説は成り立ちません。

そこで私は「一休」という名は、「一は一斉、すべて」、「休は、止める」と

いう意味がありますので、「一切の迷い、悩み、苦しみを解き放つ」という強い

意志が込められた名前と解釈しました。いかがでしょうか。

ところでかつて中日新聞の夕刊に連載されていた「水軍遥かなり」(加藤廣)に
「無漏、有漏」の話が載っていました。

九鬼水軍の長となる「守隆」は、まだ童貞で女子に興味がない。
そこで爺の「武吉」が遠まわしに話しをする。

「漏は煩悩の意味、水時計という意味もあるらしい。なぜ、
漏が煩悩なのか、お考えになったことはございませぬか」と。

(はて、私も考えたことが無かった)。

「男はおなごを抱けばわかります。おなごを知らぬ男には、
千万言を費やしても、この意味わかりませぬ。解っても
実感がござらぬ、わはははは」

(ここまで読んでも、守隆同様、解らぬ私でした)

「じいは、妻を失った時は、これでもう無漏の境地に入れると
思いましたが、ひょんなことから若い後妻をもらって、考えが
変わりましたな。老骨をふるって無漏をやめ、漏らすように
したところ、不思議や、男の気力が戻りましてござる」

一休さんも77歳で盲目の「森女」に出会って「老木が甦った」と。

「有漏、有漏」で「ウロウロ」です。



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