熊本といえば「加藤清正」だが、1632年(寛永9年)清正の子・
「忠広」の時改易となり、豊前小倉城主だった細川忠利が
肥後54万石の領主として熊本城に入った。以後230年に
渡って、熊本は「細川氏」の領国だった。
1646年、細川忠興の四男「立孝」に、熊本市の南西に
突き出た宇土(うと)半島の地が与えられ「宇土藩3万石」が
できる。肥後細川家の分家(支藩)だ。
その「宇土藩」の6代目藩主「細川興文(おきのり)公」は
尺八が大好きでござった。「興文」は享保8年(1723)の生まれ。
延享2年(1745)、22歳で「宇土藩主」となり江戸に住む。
明和9年(1772)、48歳で隠居し宇土に帰り「月翁」と号す。
そして天明5年(1785)、62歳で没するまで、書画、篆刻、
俳句、茶道、などなどの趣味に生き、文化人として領民の
親しみと尊敬を集めていた。
その趣味の一つが「尺八」。藩主在任時から尺八を吹いて
いたと思えるが、表向きは公言できない。そして隠居してから、
堰を切ったように、二代黒沢琴古に師事し、国へ帰るまでの
わずか7カ月で、「琴古流本曲」18曲を習得し、尺八の
製管法までマスターした。そして「尺八譜」や「覚え書き」、
奏法や製管法について、琴古に送った質問状と琴古からの
「回答書」など貴重な史料を多く残した。
自ら製管した尺八の他、「琴古」や「古鏡」作の尺八3管が
伝来している。その他、30本余りの尺八についての詳細な
記録もある。
この「細川月翁公遺品」によって、江戸中期の虚無僧全盛期の
尺八が解明されるのである。内容は虚無僧研究会の小菅大徹師
によって『一音成仏』第20~25号に詳述されている。
「細川月翁公」は虚無僧本寺「一月寺」から「虚無僧本則
(免許状)」を得ているが、虚無僧尺八というよりは、
音楽として楽しんだようだ。1尺3寸管と2尺5寸管との
合奏なども行っている。このことは、狂言の『楽阿弥』で
長短2管の吹き合わせが、事実として行われていたことの
証明となる。
「月翁」は、尺八曲の作曲までしている。琴古流の
「鳳将雛(ほうしょうびな)」という曲は「細川月翁」の
作曲ではないかと云われている。殿様らしい、派手で雅
(みやび)な曲である。
尺八は、上は「宇土の殿様」から、下は“牢人者”、無頼の
輩まで幅広い層に愛されたのだ。
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