『天地明察』で、会津藩祖「保科正之」が、安井算哲を
庇護し、全国各地での北極星の観測を命じます。
「保科正之」は徳川3代将軍「家光」の弟で、故あって
信州高遠の「保科家」に預けられ、その跡を継いだのです。
家光の代になって、会津藩祖となり、さらに4代将軍
家綱の後見となって、幕藩体制を確立した名君とされます。
明暦の大火で焼失した江戸城の天守閣再建にあたって
「天守閣の再建は無用」と決断したことが 「名君」として
話題に上っていました。
その保科正之が「安井算哲」の星の観測に関心を示し、
映画では、士分でない算哲に「九曜の紋」の入った
大小(刀)を授けます。
「保科」家の先祖は、『平家物語』には「星名党」と
して記されています。
治承四年(1180)、平家打倒に立ち上がった木曽義仲が
越後の城助職と横田河原で戦ったとき、「星名党」が
三百余騎を率いて義仲に加勢しています。
「保科」家の紋は、福島の「相馬」氏と同じく、○が
縦横三つずつ 九つ並んだ「九曜紋」です。
「九曜の紋」の謂れについては「北極星、北斗七星、
輔星の九星」であると言います。「保科正之」が
北極星の探索に関心を寄せたのも、姓の由来と関連が
あったのではと、私には思えます。
(『天地明察』ではそこまでは書かれていなかったよう
ですが)。
また、会津地方で一番多い姓は「星」。これも偶然
ですが、因縁めいたものを感じます。
また、会津藩の藩校「日新館」には「天文台」があり
ました。私は、子供の頃、その石垣に上って遊んだことが
あり、天文台など どこにでも有るものと思っていましたが、
江戸時代の日本では、天文台は会津と江戸と薩摩の三箇所
しか無かったとのことです。
それにしても「安井算哲」を小説の題材にすえた 沖方
(うぶかた)丁。すごい! やられた。悔しいでござる。
庇護し、全国各地での北極星の観測を命じます。
「保科正之」は徳川3代将軍「家光」の弟で、故あって
信州高遠の「保科家」に預けられ、その跡を継いだのです。
家光の代になって、会津藩祖となり、さらに4代将軍
家綱の後見となって、幕藩体制を確立した名君とされます。
明暦の大火で焼失した江戸城の天守閣再建にあたって
「天守閣の再建は無用」と決断したことが 「名君」として
話題に上っていました。
その保科正之が「安井算哲」の星の観測に関心を示し、
映画では、士分でない算哲に「九曜の紋」の入った
大小(刀)を授けます。
「保科」家の先祖は、『平家物語』には「星名党」と
して記されています。
治承四年(1180)、平家打倒に立ち上がった木曽義仲が
越後の城助職と横田河原で戦ったとき、「星名党」が
三百余騎を率いて義仲に加勢しています。
「保科」家の紋は、福島の「相馬」氏と同じく、○が
縦横三つずつ 九つ並んだ「九曜紋」です。
「九曜の紋」の謂れについては「北極星、北斗七星、
輔星の九星」であると言います。「保科正之」が
北極星の探索に関心を寄せたのも、姓の由来と関連が
あったのではと、私には思えます。
(『天地明察』ではそこまでは書かれていなかったよう
ですが)。
また、会津地方で一番多い姓は「星」。これも偶然
ですが、因縁めいたものを感じます。
また、会津藩の藩校「日新館」には「天文台」があり
ました。私は、子供の頃、その石垣に上って遊んだことが
あり、天文台など どこにでも有るものと思っていましたが、
江戸時代の日本では、天文台は会津と江戸と薩摩の三箇所
しか無かったとのことです。
それにしても「安井算哲」を小説の題材にすえた 沖方
(うぶかた)丁。すごい! やられた。悔しいでござる。