現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「必要経費」とは

2014-05-09 20:21:05 | 社会問題
配当29億円無申告、2審も外れ馬券を経費認定(読売新聞) - goo ニュース

「競馬の外れ馬券は、賞金の必要経費としては認めない」
として脱税容疑に問われた事件。裁判で「はずれ馬券の
購入費も 必要経費と認められる」とされた。当然だ。

「当たり馬券の購入代金だけが必要経費」というのなら、

生命保険の外務員が、さまざまな見込客にノヴェルティ商品や
パンフレットなどのツールを配ったり、接待したりして、
ようやく、お一人の方から契約をいただいた。とすると
「その契約に要した出費だけが“必要経費”」では、
ガソリン代、交通費、贈答用品、チラシ代、電話代など、
契約につながらなかった分は すべて“必要経費”として
認められないということになる。

商店や企業で、売れた商品に要した経費だけを算出するなど
不可能。契約につながらなかった接待費、交際費、契約を
挙げなかった社員の給料は“必要経費”として認められない? 
そんなバカなである。


「ヴェニスの商人」の話。「肉1ポンドを取り上げる」。
「肉はいいが 血は認めない」と、同じような話だ。

さて、一休さんなら、どうやって解決するだろう。

「屏風の虎」の話は明治になってから

2014-05-09 19:41:55 | 一休と虚無僧
「一休とんち話」で、有名なのは「虎退治」。

将軍様に「この屏風の虎を捕えてみよ」と言われて、
「はい、お易い御用でございます。この一休が虎を捕らえて
ごらんにいれます。さぁどうぞ、虎を屏風から追い出して
ください」と。

この話のどこが、“とんち”なのか、面白いのか判らない。
そこで、「はい虎が絵になりましたので“虎絵”ました」と、
“おやじギャグ”にしてみました。(私のオリジナルです)

この話の将軍様は、金閣寺を建てた3代将軍「足利義満」と
一般には思われているが、義満は一休が生まれた時には、
将軍職を息子の義持に譲って関白太政大臣になっている。

この4代将軍義持が、一休 17歳の時、一休のもとを
訪れた。この時「義満」は すでに亡くなっている。

その頃、一休は「西金寺」という(名前は“金”がついて
派手だが)、荒れた貧乏寺にいた。『一休年譜』では
「西金寺」の「謙翁和尚」が、「本尊に金襴の袈裟をかけて
いるという噂を耳にした将軍が、その真偽を確かめるために
来た」と書かれているが、そんなことを糾すために、
将軍が貧乏寺に わざわざ来るだろうか。役人を遣わせば
いいこと。

『年譜』では、「一休は立ったまま将軍を出迎え、“あんかべぇ”を
して追い返した」とある。時の将軍が 御自ら訪ねてきて、一介の
小坊主に 門前払いで追い返された。ただごとではない。

私は、将軍「義持」は「後小松天皇の後の天皇後継者として
一休を迎えにきた」と考える。「義持」の父「義満」は
わが子で「義持」の母違いの弟の「義嗣」を次期天皇に
しようとしていた。
「義持」にしてみれば、弟が天皇になれば、弟にかしずかな
ければならない。絶対に許しがたいことだった。それで、
義持は父「義満」を暗殺し、「義満」が行った政策をすべて
反故にし、後小松帝の子である「一休」を天皇に迎えようと
して訪ねてきた。ところが「一休」はその気がなく、将軍を
追い返した。(次期天皇は弟が即位し「称光天皇」となる)。

さてさて、一休が17歳の小坊主ながら、将軍「義持」を
追い返したという事実から、将軍様をコケにする話が創られた。

但し、それは明治以降のこと。徳川幕府が滅んで、将軍の
権威が失墜してから生まれた話。江戸時代だったら到底
許されない。明治新政府が徳川将軍家を貶めたいという
意図があって生まれた話なのだ。

そこで「屏風の虎」だが、ここに登場する将軍は、
第5代将軍「義教」がふさわしいと、私は勝手に思っている。
「義教」は「義持・義嗣」のさらに母違いの弟。

一休30代の時の将軍。義教は、ささいなことで気に障ると、
即 死罪にするという恐怖政治を行った。世阿弥の子元雅は
殺され、世阿弥は突然、佐渡に遠島となっている。

“万人恐怖”と恐れられた将軍「義教」を誰が、いかにして
諌め静めるか、それを一休に問うたのだ。一休は「管領はじめ、
幕府の要人が将軍を追い出してくれれば、捕らえてみせる」と。

その結果、赤松満祐が、将軍「義教」を室町御所から自邸に招き、
祝宴のさ中に、義教を殺した。まさに「虎」である将軍を
御所から追い出して 殺したのだ。「屏風の虎」の話を、義教の
暗殺とからめれば いっそうリアルな話になるではないか。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。



一休さんの「水飴」の話は・・・

2014-05-09 18:11:23 | 一休と虚無僧
「一休とんち話」の代表格といえば「水飴の話」。
もちろん、これは江戸時代の人の創作。

江戸時代になって刊行された仮名草紙『一休諸国物語』に
登場してくる。ところが、この話は、狂言の『附子(ぶす)』
と同じであり、『沙石集』や中国の『笑禅録』にもあるとのこと。

『沙石集』は、鎌倉時代の中期(1279~1283)に編纂された
仏教説話集。『沙石集』では「坊主と稚児」。

昨今の狂言ブームで、「水飴の話」は「一休さん」より
狂言の『附子(ぶす)』として、知られるようになった
ようだ。中学の古典教科書にも載っているとか。

「附子(ぶす)」といえば「ブス」と誰もが連想する。
「附子」とは「トリカブトの毒・漢方薬」でそうで、
不美人を「ブス」というのは、トリカブトの毒で、
神経がやられ、顔が醜い表情になるからだという。

さて、その狂言の『附子』では、「有る家の主人が、
使用人の太郎冠者と次郎冠者に、“桶の中を覗いては
いかん。臭いを嗅いだだけでも死ぬブスという毒が
はいっておる”と言いおいて外出する。そう言われると
気になる二人。扇で風を払いつつ近づいて、蓋を開けて
みれば、なんと砂糖。二人は奪い合うようにして砂糖を
なめつくしてしまった。
主人が帰宅してみると、大切にしていた茶碗と掛け軸が
めちゃめちゃに壊されている。二人は大泣きして、
“掛け軸と茶碗を壊してしまったため、死んで詫びようと、
猛毒の附子を食べたが死ねず、困っている”と言い訳するの
だが、主人は怒って“やるまいぞやるまいぞ”と、逃げる
太郎冠者と次郎冠者を追いかける」という話。

狂言の『附子』も古い『天正本』では「坊主と二人の
若い僧」だった。

「水飴」で検索してみると、古くは 発芽玄米で、後に
麦芽で作られた甘味料。(麦芽水飴)。

砂糖は江戸時代の半ばまでは、輸入に頼らざるを得ず、
金銀と取引される 大変高価なものだった。砂糖が庶民の
口に はいるようになったのは、8代将軍「吉宗」が
琉球からサトウキビを取り寄せ、栽培を奨励してから
とのこと。

狂言は大名相手の演劇だから、大変貴重で高価な「砂糖」
になっているが、江戸時代初期の『一休話』の頃までは、
「砂糖」は、一般人は見たことも口にしたこともなかった
ので「水飴」になったのだろうか。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

「失楽園」と『愛のコリーダ』

2014-05-06 14:50:20 | 虚無僧日記
「小保方晴子と理研上司の“失楽園”」という見出しに???。
“失楽園”とは「不倫」の隠語と知りました。

渡辺淳一先生の『失楽園』は、「250万部を超す大ベストセラーになり、
「失楽園」は「不倫」の代名詞として流行語大賞にも選ばれた」とか。

「失楽園ブーム」を巻き起こしたにしては、倫理の頽廃を牽制する
ためか、「キライ」「ワカラン」「ケシカラン」という批判の声の
方が多い気がする。世の中の人はそんなに真面目なのかと、逆に
驚く。

渡辺淳一は『失楽園』を執筆中に、インタビューで。

「世の中、金さえあれば、たいていのことは解決する。不倫だって
金で解決しようと思えば、なんとかなる。金が無いから“心中”と
いうことになる。その“お金”の問題も無く、“ただ愛だけで、
心中できるのか?”それがテーマです」というようなことを
話されていた。

原作では、「凛子」は、“楷書の君”と呼ばれるように、折り目正しく
清楚で凛とした女性だった。だからこそ“信じられない”ような
意外な展開になっていく。

しかし、「川島なおみ」が演じたテレビ版では、派手で奔放な女性。
これでは、そこらにありふれた ふしだらな女性の週刊誌のエロ小説と
変わらない。

『失楽園』の原作では「阿部定」事件が“柱”としてあった。
「阿部定」は愛人を殺すという猟奇事件だったが、不思議と刑は軽く、
5年で出所している。
「阿部定」を扱った大島渚の『愛のコリーダ』は、三木稔の
尺八三重奏『ソネット』と『箏譚詩集』がテーマ音楽として使われており、
私の都山流の師「古賀将之」が第二尺八を吹いている。それだけに
強い関心があり、グアム島まで行ってオリジナル版を観た。
日本ではそのままでは上映できなかったのだ。

ところで、『愛のコリーダ』の中で「定」が、汽車に乗って
“先生”のところへ金を無心に行くシーンがあった。あの“先生”は、
なんと、名古屋市議会議員で商業学校の校長「大宮五郎」とのこと。
びっくり。

5/5 急遽 尺八の代理を探す

2014-05-06 13:41:45 | 虚無僧日記
5/5は、毎年恒例の「名古屋城・古武道大会」で
詩吟の伴奏。そして、午後2時からは、津市の
「○○院」で 眞道さんの「一絃琴」の伴奏。

天気ならば予定通り事が運ぶ はずでしたが、雨が降り出し、
県体育館に移動となり、1時間遅れ。

これでは 午後に間に合わない。プログラムを見ると、
太鼓の演奏に尺八がいる。その人に詩吟の伴奏をも
頼むことにしました。

会ってみると、なんとまだ「大学生」。「詩吟の伴奏は
やったことがない」という。でも「ミファラシド」の音階を
教えると、結構上手。理解も早い。前奏とアドリブを
教えること30分。

「あとは おまかせぇ~」で、名古屋城を飛び出し、
津に向かってしまいましたが、彼、うまくできたかな?

思い起こせば、私も20歳の頃、「堀井小二朗」先生の
鞄持ちで付いていった先で、突然「君、吹いてみなさい」と。
今から思うと赤面ものですが、プロにも“最初”は
あるのです。こんなきっかけでプロになるものです。

あるジャズバンドのドラマーも言ってました。付き人を
していたら、「お前、叩いてみろ」と言われ、初めて
叩いた。それからは、聞いていたお客さんから「リズムは
こう叩くのだ」と教えられながら 覚えていったと。

私のマネージャーの「鈴花」も、今では 太鼓・鳴り物と
箏の伴奏で、しっかりギャラをいただいています。

昨日も「一絃琴と尺八」にあわせて、みごとに太鼓を
叩いてきました。その才能と努力は すごいものです。

箏、三絃の古曲に尺八は要らない?

2014-05-06 12:58:30 | 虚無僧日記
「教えて!」のコーナーに「尺八ばかり優遇されるのはなぜ?」
という質問がありました。内容は、タイトルとは多少意味が違って、

「尺八は、独特の“間”や、“当たり”“かすれた音”などの
ノイズ(雑音)が特徴で、本曲などの独奏曲は良いが、箏・三絃との
合奏では、その特長が邪魔になり、押し殺して演奏するくらいなら
無い方がいいではないか」という意見でした。

私も実は同感です。その前に「尺八家は優遇されている?」と
いう声に、私なりに思うことがあります。

明治以降、虚無僧が禁止され、尺八家の多くが、箏や三絃との合奏に
活路を見出し、それぞれ流派を確立してきました。

名人と云われた琴古流の「三世・荒木古童」などは、門弟に
元大名や華族、政財界の大物が多く、都山流の開祖「中尾都山」に
しても 企業の社長クラスに絶大な支持を得ていましたので、
昔の尺八家は、箏や三味線のお師匠さんのパトロン的存在でした。

ですから、社会的には、箏、三絃の師匠より優位に立って、
いばっていました。その傾向は、現代にも少し引きずっています。

でも、威張っている反面、技術的には、音程もリズムも合わない、
およそ音楽とはいえない低レベルの尺八家が多いのも事実です。


そして、やたら強く吹いて、音量ばかり自慢する人も多くいます。
質問者様が「尺八は音量の調整ができないから、箏や三絃の繊細な
表現をぶちこわす」と言っているのも、よくわかります。

かく言う私も、若い時はそうでした。やたら大きな音を出して、
妻(宮城会・大師範)に何度も注意されたのですが、全く聞く
耳を持ちませんでした。それが離婚の一つの理由でもあります。


最近は、地歌・筝曲の古典には 尺八無しの演奏が多くなった
気がします。私も「三曲合奏」の仕事はほとんど無くなりました。
仕事は「本曲」などの独奏中心です。

以前 NHK・FMラジオ「邦楽のひととき」で「梶田昌艶」先生の
『千鳥の曲』の尺八伴奏を務めさせていただいた時は、「横笛」の
ように、細く長く伸ばす節付けで、注目されました。

「何流ですか?」「あの譜面をください」との問い合わせを
何件かいただきました。

宮田耕八朗師も言っていました。「尺八が箏や三絃と全く同じ
旋律をユニゾンで吹くなんて おかしい。そんな音楽、世界中
どこにあるか!」と。

我が師「堀井小二朗」師も言ってました。「尺八は尺八家に
よって滅びる。音程もリズムも悪い。音色も汚い。それで
音ばかり大きい。嫌われて当然」と。





渡辺淳一『阿寒に果つ』

2014-05-05 21:49:38 | 虚無僧日記
『失楽園』より以前、私が、「渡辺淳一」の作品に
初めて触れたのは『阿寒に果つ』(1973)でした。

これは、渡辺淳一氏が若い時に 恋焦がれていた
一人の女性「純子」の話。「渡辺淳一記念館」には
「純子」の赤いコートが展示されているから、実在の
女性だった。

「純子」は 天才少女画家とさわがれながら、阿寒湖で
自殺して果てた。純子の死から20年経って、作家と
なった「私(渡辺淳一)」が、純子と関係のあった
五人の男性を訪ね、純子の死の直前の様子を聞きだす。

男たちはみな、“自分こそが、純子に愛されていた”と
思っていた。ところが、純子の不可解な行動からは、
純子は誰も愛してはいなかったのではないか。純子は
何を求めていたのか、なぜ自殺したのか。全く不可解。
あるいは「死ぬつもりはなく、雪の中で凍死した事故
だったのでは」と、解けぬ謎のまま終わる。

無感情で、心の内を見せず、男たちを翻弄させた純子。

実は、私も当時「純子」という女性に惚れていた。
彼女は 別の男性からもプロポーズされていた。
「女の私が、殿方のどちらかを選ぶようなことは
できませんわ。殿方の心を傷つけないためには、
死ぬしかございませんね」という言葉を残して
私から去っていった。私は彼女は、ほんとうに
死ぬ気だと思った。その後の彼女の消息は全く不明。

そんな私の体験と『阿寒に果つ』はダブって、衝撃を
受けたのでした。



「渡辺淳一」逝く 80歳

2014-05-05 21:17:08 | 虚無僧日記
渡辺淳一氏が死去 80歳 前立腺がん(デイリースポーツ) - goo ニュース


「失楽園」は 1995(平成7)年でしたか。「失楽園」を
読むためだけに「日経新聞」をとっていました。あれから、
もう20年。「失楽園」執筆の頃、渡辺先生64歳。私も、もう
その歳を通り過ぎ、まだまだ負けてませんぞ。(何が?)

日経新聞主催の「渡辺淳一講演会」にも行きました。
「歳をとったら、男も、ますます色めかなければいけない」と。
「恋せよ“乙女”でなくて、恋せよ“おとな(老人)”」

「作家として生き残っていくためには、自らの欲望と好奇心を
ギラつかせなければいけない。金がほしい、有名になりたい、
女にもてたい、家を建てたい。どの世界もスターはギラついている。
だからスターなんだね」と。

虚無僧の私、人には「欲を捨てよ」と説きながら、実は 密かに、
ギンギラギンに燃えてます。でなければ、早く老け込んで
しまうでしょう? その点で、渡辺淳一先生をみならって
生きています。それでも80歳まで生きれるだろうか。いや
80まで生きれれば もう十分ですたい。



5/5 名古屋城にて「古武道大会」

2014-05-05 07:45:52 | 虚無僧日記
ゴールデンウィーク。3、4日は東京へ行ってきました。
帰省ラッシュの中、逆なので、新幹線は座れ、ラッキー!

90歳の母は、会うなり「おまえ、ずいぶん大きくなったねぇ」と。
いや母親の方が ずいぶん 縮んで小さくなったのです。体重35kgに、
痩せ衰えていました。

5/4は 目黒の「朝起会場」へ。昨年は顔を出さなかったので、
「“どうしたか”と噂していたところ」とのこと。気にかけて
いただいていたことがうれしい。

5/5は朝から大忙し。

まずは「朝起会」で、終了後「こどもの日」の催し物。
「鯉のぼり・背比べ・金太郎」など、尺八伴奏で唱和。

9時からは、名古屋城で毎年恒例の「古武道大会」。
その開会式で、山川先生の詩吟の伴奏を務めます。

例年、快晴で暑いのに、今年は「曇り、時々雨」の予報。
さてどうなりますか。

午後からは、津の西来寺さんで法要後、眞道さんの
一絃琴と尺八演奏。

一日3件、行って参ります。


津市分部の本願寺へ

2014-05-03 09:04:16 | 虚無僧日記
津市分部(わけべ)の本願寺。ここは 創建以来尼寺。
現在の庵主(あんじゅ)さんは、一絃琴の「眞道(しんどう)」さん。

出家される前から、尺八伴奏のお仕事をいただいており、
私が今あるのは、この方のおかげ、今も大変お世話に
なってます。

昨日も5/5の演奏の下合わせに 行ってきました。
そして、いつものごとく、檀家さんが用意してくれた
山菜料理や炊き込みご飯を たらふく ごちそうになって
きました。今は、もちろん 筍(たけのこ)がメイン。
“野菜がこんなに、おいしいものとは”と、至福の時です。


食事のさなか、「猪(いのしし)が筍(たけのこ)を皆
食い荒らしてしまう」とか、「猿が畑を荒らしにくるので
困る」という話に。鹿も狸も兎も出るそうな。いったい
ここはどこ?。三重県の県庁所在地「津市内」ですぞ。

津市内とはいっても、田畑や竹林が残る のどかな田園地帯。
猿は数十匹の群れをなしてくるとのこと。

深刻な被害だが、ドラム缶を叩いても、何をしても驚かず、
逃げない。

地元、猟友会の人に駆除を頼んでも、猿は殺せないそうだ。
[鳥獣保護」かと思いきや、猿は鉄砲を向けると「殺さないで」
と、手を合わせるから、かわいそうで殺せないと。

子供を抱えていたり。背に乗せていたり。ボス猿が寺の
鬼瓦の上にまたがって、手をかざして、周囲を見回す
しぐさなどは、実に愛嬌があって面白いと。