現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

尺八の元祖は「ネイ」か?

2021-02-22 19:27:27 | 尺八・一節切

尺八の元祖は、ペルシャの葦笛ネイ(ねい)だと言われている。

それ以前、エジプトでは「セピ」と呼ばれていた。
BC527年、工ンブトはペルシャ(イラン)に征服され、ペルシャでは「葦」を意味する「ナイ、ネイ」または「イネ」と呼ばれるようになり、中国に伝わって、竹で作られるようになったと。

[礼言」[詩経」などには「伊耆の葦(イヤタ)」と書かれてある。

現代でも、「ネイ」は、西アジア、中央アジア、北アフリカで吹奏されており、「ナーイ」とか「カサバ」とも呼ばれている。

 

 

 



尺八や洞簫と違う点は、歌口を斜めに切っておらず、管の上端を下唇に置くか上歯に当て、送り込む空気の量と方向を舌で調節しながら吹奏する。そのため、斜めに構える。

音質は、尺八に似ているが、尺八よりは「息(風)の音」が強く入る。

それで、この「ネイ」と「尺八」は別種の系統と私は思う。

尺八はローマの縦笛「Tibia」がシルクロードを経て中国に渡ったと私は考える。

「Tibia」は「脛の骨」の意味で、動物の骨で作られた管楽器。「Tibia(チーパ)」に「尺八」という漢字を当てたとするのが自然である。

「イネ、ナイ、ネイ、セビ」とは言語的にも結びつかない。


中近東の縦笛「ネイ」

2021-02-22 19:26:21 | 尺八・一節切

Aさんがトルコの縦笛「ネイ ney」を持ってきてくれました。
「ネイ(あるいはナーイ nay)」とは「葦」のことですが、葦で作った「竪笛」も意味します。

(トルコとイランでは「ネイ」、アラビアでは「ナーイ」)

長さは50cm~90cm。発音原理は基本的に尺八と同じで、「尺八の元祖」と言われるのですが、歌口は何もなく、ただ切断してあるだけ。吹いて音を鳴らすのは尺八よりむずかしい。

ネットで検索すると ありました。「ネイの吹き方」。
解説のように吹いても全く鳴りません。突然、音らしきものが出ました。でもすぐ 元の黙阿弥。どうやったら出たのかもわかりません。そういう楽器です。

「鳴らせるようになるまでの苦労は 世界一難しい楽器」とのことです。しかし「吹き口に余計な仕掛けがない分、ちょっとした口の形や当てる角度で、多彩な音の変化が付けられる」とあります。なるほど、You-tubeの映像は、吹く人、吹く曲によって、全く違う楽器のようです。

「ネイはシンプルだからこそ、色んな音が出せる。
3オクターブ近い音域を持ち、シュワシュワしたかすれた音から、ピーンと張り詰めた高音、オクターブ重ねた音を一度に出す重音奏法や、クラリネットのような音までたった一本の笛で表現できる」というのです。







唐 呂 尺八

2021-02-22 19:17:34 | 尺八・一節切

尺八的出處在貞觀盛世時,由呂才所製,十二枚,與律相協。 經魏徽向唐太宗舉薦,受到官方的肯定。 其實,以長度命名樂器,歷史上早已有之。 例如晉代荀勗與列和的對話中便有三尺二寸調笛、二尺九調笛一說。


到了宋代,尺八被人們稱為簫管。 例如:宋陳暘《樂書》:“(簫管、尺八管、中管、豎笛)簫管之製,六孔,旁一孔加竹膜焉。足黃鐘一均聲。或謂之尺八管,或謂之豎笛,或謂之中管。尺八其長數也,後世宮懸用之;豎�簒其植如�簒也;中管居長�簒、短�簒之中也。今民謂之簫管,非古之簫與管也。”
在宋人的眼中,簫管、尺八、中管、豎笛實為一物。 尺八,長一尺八寸;豎笛,直吹如古�簒;中管,居古長�簒、短�簒之間,居中而設。
  呂才在樂律方面的成就尤爲人稱道。貞觀初年(626年),他奉太宗禦詔參論樂事。此後,每逢太宗宴代從臣、賞賜閭里、賦詩抒懷之時,即命呂才依詩譜曲編舞。貞觀六年(632年),呂才相繼創作並譜曲《功成慶善舞》(後更名爲《九功舞》)、《七舞》(後更名爲《秦王破陣樂》),之後又創作了《上元舞》。不久即傳到日本、印度等國,在國内外產生了廣泛的影響。至今,齊魯樂團、陝西省歌舞劇院以及日本的藝術團體,仍在演奏《秦王破陣樂》和《唐代樂舞》。

邊用自制的樂器“尺八”(因制成後,器長一尺八寸,遂命名爲尺八,此樂器當今日本仍盛行)吹奏自編


。《新唐書·呂才傳》:“貞觀(627―649)時,祖孝孫損樂律,與音家王長通、白明達更質難,不能決。太宗詔侍臣擧善音者……侍中王珪、魏微盛稱才制尺八,凡十二枚,長短不同,與律諧契”。

唐尺八

據舊唐書‧呂才傳:「能為尺八十二枚,尺八長短不同,各應律管,無不諧韻。」因此推斷為唐朝呂才所創。其“尺八十二枚”,可能是有十二支不同音律的尺八簫,可吹出不同的宮調,那就有如現今的日本尺八由一尺三寸到二尺四寸,計有十二支不同音高的尺八。或也有可能是十二支單音的排簫。

日本正倉院所收藏的唐尺八是六孔尺八,除了長度略短外,與南管洞簫完全相同。其長度有34.35、38.25、43.7、36.1、35.2、39.3、40.9公分等等不同尺寸;就此推論,很有可能唐尺八有多種尺八長度以配合不同音律。

  呂才,博州清平人。貞觀時,祖孝孫損樂律,與音家王長通、白明達更質難,不能決。太宗詔侍臣舉善音者,中書令溫彥博白才天悟絕人,聞見一接,輒窮其妙;侍中王珪、魏征盛稱才制尺八凡十二枚,長短不同,與律諧契。即召才直弘文館,參論樂事。


北条幻庵と尺八

2021-02-22 19:16:42 | 尺八・一節切

北条玄庵と一節切

 

北条早雲の3男、宗哲北条玄庵は歴代北条当主後見として重きをなし

小田原城の北、久野山に住して98歳の長寿を保って没した。

早雲は幼い3男の俊才をみて後事を恐れてたのか、はじめ僧にしようと

思ったらしい。

園城寺に学び、箱根権現の別当を務めたが、早雲の没後一族の切なる

要請ににより環俗したという。

文武両道に通じ、文人としては、連歌、茶の湯、一節切の名手であった。

各種工芸にも妙を得、玄庵作の鞍、弓矢は世に珍重された。

特に一節切は「玄庵切」と称して天下に知られ、宮中よりもご所望が

あったという。

玄庵はまた一節切の名手、連歌師の宗長にも学び、宗牧とも親交があった

ようである。

 

早雲と一休

ここで玄庵の父、早雲についてもう少し検証しよう。

北条早雲は伊勢新九郎長氏、氏茂、また盛時とも名乗り、入道して

早雲庵宗瑞と号した。父は伊勢氏の一族で伊勢備中守盛貞といい、

備中国荏原荘(現岡山県井原市)の地頭であった。

36歳のとき、応仁の乱がおきる。翌応仁2年、妹が上洛していた

今川義忠に見初められて、駿河に輿入れすることになり、随行して

駿河に下る。

45歳のとき、妹婿の今川義忠が横死する。妹北川殿と義忠との間に

生まれた龍王丸はまだ6歳、新九郎は自分が政務を代行することで

その場を収め、器量を認められた。

その後文明11年(1479)京都に残り、建仁寺と大徳寺で禅修業を

している。一休が文明13年88歳で亡くなっているので、ひょっと

したら、新九郎と一休は最晩年に会っているかもしれない。

文明9年(1477)に宇治の朗庵が尺八と釣具をもって、京都から

鎌倉の建長寺まで旅をしたとの記述あり興味深い。

北条玄庵も若いころ一休の弟子、連歌師紫屋軒宗長や、宗牧と交流している。

 

宗長のこと

柴屋軒宗長は文安5年(1448)駿河島田で生まれ、飯尾宗祇に師事して

連歌を学び,上京して一休に参禅、連歌界の重鎮として各地を遍歴し、晩年は

駿河の宇津山麓の丸子に住んだ。その庵を柴屋軒(さいおくけん)といい、

ここには幕末まで頓阿の一節切尺八が伝えられていた。後に柴屋寺となる。

その高弟が宗牧である。

 

早雲と興国寺

龍王丸は17歳のとき、元服し、今川氏親となり家督を継ぐ。

その功により、新九郎は愛鷹山麓の興国寺城(現沼津市根古屋)に入る。

早雲には正室小笠原氏の間に2人の子があり、玄庵の母は後室

葛山備中守の娘である。

ほかにもう一人南陽院という後室がいた。南陽院は伊豆韮山の

北条某の娘で、名門北条氏の再興を託されて縁組したと伝えられる。

早雲は明応4年(1495)小田原の大森氏を攻め滅ぼした後、小田原には

長男の氏綱を入れ、自らは韮山に住み、韮山で没している。

 

紀州興国寺は玄庵の母の実家、葛山氏の祖、葛山五郎景倫によって

創建された寺である。実朝の忠臣であった景倫は実朝の命を受けて

宋に渡るため博多に行き、まさに船出せんとするときに実朝の悲報に接し

高野山に入り、出家して願性と名乗り、実朝の菩提を弔う。

実朝の母である北条政子は景倫の忠心を賞して、紀州由良の地頭職を与える。

政子の死後、景倫は由良に西方寺を建立、心地覚心を迎えた。

覚心は信濃の人で高野山で景倫と知り合い、景倫の援助で中国に留学したのである。

建長元年(1249)覚心が渡宋するに際して、願性は実朝の遺骨を中国の雁蕩山に

埋骨するように託した。渡宋を夢見ていた実朝の願いを成就させたのである。

そして興国元年(1340)後村上天皇によって興国寺の寺号を戴いている。

 

紀州の興国寺も駿河の興国寺も共に葛山氏によって建てられている。

もう一つ葛山氏の支配する地は阿野の庄と呼ばれていた。

阿野といえば「虚鐸伝記」を伝えていたいたという阿野中納言公縄である。

後醍醐天皇の妃で後村上天皇の母は阿野廉子である。

この奇妙な偶然はどのように解釈すればいいのだろうか。

 

玄庵の一節切

玄庵の作で小田原城に展示してある一節切は全く現代の尺八と同じ太さである。

このことから玄庵は一節切から現代尺八への革新をもたらした人であると

考えられる。

すなわち一節切は竹の根の方を歌口に作るのに対して、玄庵切は根の方を下にした。

上下を逆にすることで歌口より管尻のほうが内径が狭くなり、よく鳴ったのであろう。

 

虚無僧の出現

天正18年(1590)3月、小田原城は豊臣秀吉により攻め落とされ

関八州に覇をとなえた北条家は滅亡した。

城主北条氏直は高野山に落ちて行くが、氏直は徳川家康の女婿でもあり、

家康自らが城の大手門にたち一行を並々ならぬ同情をもって見送ったという。

無血開城であったので支城も含めて膨大な家臣団が放たれた。

北条家だけでなく北条と共に西軍と戦った関東諸豪族も滅亡した。

新たな大名に召し抱えられるものあり、新地を開墾して帰農するものあり、

虚無僧の群れに投ずる者もあった。当時の時宗念仏聖集団とは似て非なる

虚無僧と称する武浪の集団が出現してきた。

 

また高野山に落ちた氏直は翌年30歳で没し、随行した武士たちは

秀吉によって焼き討ちにあっていた由良の興国寺に入り、境内に庵を結んだ。

 

小田原武士のほとんどが一節切を吹いたと相模原風土記は伝えているが

一節切が太平とともにだんだんと忘れ去られていくなかで、北条遺臣に

とっては尺八こそが昔を偲ぶよすがとなっていたのであろう。

そしてそのよりところを一休の狂雲集に求めた。

後に山本守秀という人が阿野中納言公縄に頼み、興国寺の法燈国師を

日本開祖とする「虚鐸伝記」を世に出すことになる。

玄庵の配下に浦賀水軍を率いる山本信濃守家次がおり、その子孫だろうか?

                  (「一音成仏」より、抜粋)


呂氏春秋

2021-02-22 19:15:50 | 尺八・一節切

呂氏春秋(りょししゅんじゅう 繁体字: 呂氏春秋; 簡体字: 吕氏春秋; ピン音: L�・shi ch�・nqi�・; ウェード式: L�・-shih ch'un-ch'iu)とは、中国の戦国時代末期、秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた書物。呂覧(りょらん)ともいう。秦の始皇8年(紀元前239年)に完成した。十二紀・八覧・六論から構成され、26巻160篇。その思想は儒家・道家を中心としながらも名家・法家・墨家・農家・陰陽家など諸学派の説が幅広く採用され、雑家の代表的書物とされる。書名の由来は1年12ヶ月を春夏秋冬に分けた十二紀から『呂氏春秋』、八覧から『呂覧』とする。

内容 [編集]

天文暦学や音楽理論、農学理論など自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史においても重要な書物である。

なお、呂氏春秋完成後に呂不韋が一般公開し、一字でも添削ができれば千金を与えると公表し、これが「一字千金」の由来とされている。


唐 呂才 

2021-02-22 19:15:30 | 尺八・一節切

古来の中国で用いられていた縦笛は、非常に長く律管の4倍から8倍の長さのものであった。それを唐代初めのころの呂才という人が12管1組の尺八を作ったと『唐書』の呂才伝に記載されている。
そ れによると、12管それぞれには倍黄鐘から倍應鐘までの名が付けられていたという。往時の形を色濃く残していると思われる尺八が正倉院の北倉に保存されて いる。「献物帳」に記載されている「刻彫尺八」である。長さ43.7センチで、その間に3つの竹の節がある。これを唐時代の度量衡で換算すると、おおよそ 一尺八寸になる。このことから、一尺、八寸、すなわち尺八と呼ばれるようになったという説がある。この尺八の表面には、田園風景を彷彿させる花紋や樹木、 鳥、雲などが彫刻され、その田園に遊ぶ乙女たちが笛を吹いたり、琵琶をつま弾いたり、花を摘んだりと楽しそうにしている仕草が生き生きとレリーフされてい る。その美しい尺八の姿は他の保存尺八とくらべ特に有名である。
復元された刻彫尺八を吹いてみると、現在の日本の尺八のような重厚感のある音色ではなく、悠々とした雰囲気を持つ中国好みの音色が出ることがわかったのである


法隆寺の尺八

2021-02-22 19:13:48 | 尺八・一節切

3/15 NHKスペシャル『法隆寺金堂再建の謎』で
金堂の釈迦三尊像上部の天蓋(てんがい)が取り外され、
その上に飾られていた小さな菩薩像が映し出された。
その菩薩像、縦笛を吹いているのである。その縦笛の
長さは菩薩の上半身くらいあるから、身体とのバランスで
考えると2尺位の長管だ。

正倉院に保管されている8本の尺八は、みな1尺3寸以下と
短い。法隆寺にも尺八が伝来しており、今東京国立博物館蔵
だが、それは1尺4寸。

尺八は「その長さが1尺8寸なので尺八という」とする根拠は、
「唐代は大尺と小尺があって、小尺は大尺の8掛けだったので、
1尺4寸は1尺8寸×0.8 にあたる。すなわち法隆寺伝来の
尺八(1尺4寸) は小尺の1尺8寸で、ぴったり符合する」と
いうもの。だがそれでは正倉院の尺八が全部不揃いなのは
説明できない。

現存する尺八がみな短いので、大尺の1尺8寸 (54cm) の
尺八は、はたして有ったのかどうかが気になるところである。

今回発見された法隆寺金堂天蓋の菩薩像が吹く尺八は、
身体とのバランスから見ても長い。そして300年くだった
宇治平等院の音声菩薩像が持つ尺八も長い。


さらに600年後の室町時代の書『体源抄』にも1尺8寸の
尺八の存在をうかがわせる記述がある。全く不可解なのだが、
この法隆寺金の菩薩像や宇治平等院の懸仏が持つ縦笛は
「中国の洞簫(どうしょう)」ではないかと思う。

「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

日記@BlogRanking


尺八の語源は「tibia 」脛骨=笛

2021-02-22 19:13:11 | 尺八・一節切

「尺八は、脛(スネ)の骨のラテン語『tibia』に、
中国で『尺八』という漢字が当てられたのだ」と
いい続けて30年。なかなか定説を覆せず、いまだに、
誰もが「一尺八寸」説を信じて疑わない。だが、

Wikipediaで「tibia」を検索すると、次の一文がある

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「Tibiaというラテン語名詞には“スネの骨”のほかに
“笛”の意味もある。「Tibia(tuba笛)」から変じたと
いう節もあるし、また古代の笛は鳥のスネの骨で作られ
ていたので、tibiaはもともとスネの骨を指すのだとも言う。

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そして、「東北大学整形外科学教室」のホームページに、
「骨」の解説で、私と類似の説が載っていた。

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かつて、人類は石器や青銅器の外に、種々の骨を道具に用いた。
殊に人の頭蓋骨は霊力が宿るものとして、祭儀に酒を盛る杯と
したりした。人骨文化と呼ばれるものである。古代エジプトでは
脛骨( sebi )で縦笛を作り、その縦笛をも「 sebi 」と呼んでいた。

それがローマに入って「 tibia 」となり、後に脛骨のラテン語
解剖名に採用されるに至った。

片や「 sebi 」は近東からシルクロードを経て唐代の中国に
伝わり、(sepa)に「尺八」の漢字が当てられた。そう言わ
れれば、日本の尺八が脛骨の形に似ているのが頷ける。「尺八の
長さは一尺八寸」と言うのは、後世のこじつけであるらしい。

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後半が違う。「尺八」を中国人は「チュィパ」と発音する。
「中国には「sebi」ではなく「tibia」から変じて「tuba
チュイパ」と伝わって「尺八」という漢字が当てられた、
というのが私の説。

ローマ時代、笛の総称は「tibia(ティピア)」だった。

脛骨(ティピア)は「チューブ」すなわち「管」。中国では、
古代「尺八」のことを「管」とも記述している。

そして、洋楽器の「チューバ」、南米の「ケーナ」も同じ
語源ではないだろうかと私は考えている。



「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。


名古屋山三郎と中村勘三郎

2021-02-22 19:12:23 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』 第16巻 風俗芸能編(1) P.321

「尾陽戯場事始」巻之上

「尾張人物誌」に曰く。「名古屋三左衛門は、古渡村の人。

幼名 山三郎。 初め 蒲生氏郷に仕え、後、森右近忠政に

仕え、禄 三千石。容顔美麗、天下の男女一目見る者あらば

必ず、心動かさざること無し。 しかし、後に浪人し、出雲の

於国という巫女と妹背の契りをなし、京都北野に踊り子を

集め、説教節に合わせて舞わせたところ、この道盛んになり、

今の世の芝居の初めなり。

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その挿絵 (名古屋山三郎か?)P.322 大小を差した侍

二人が描かれていて、その一人が、虚無僧のかぶる

天蓋のような深編み笠をかぶっている。

虚無僧の天蓋は、虚無僧独自のものではなく、元禄の頃

一般武士のかぶりものだったのだろうか。

「名古屋三左衛門」の画像検索結果

 

名古屋は「芸どころ」といわれるが、歌舞伎の中村座も

名古屋発である。

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P.325 江戸芝居は中村勘三郎を元祖とす。生国は尾張・

末広村の百姓。 源君(家康公)江戸城築城のみぎり、

材木、石など運びける中に、一人音声大にして美声で

木やり音頭を囃しける者あり。源君、その者を御前に召し、

名と出所を問うに、「終わりに末広とは吉兆なり」と、

陣羽織と采配を下され、人夫頭とする。

そして「城普請 成就の後は、なんなりと褒美をとらす」と。

勘三郎は大いに喜び、江戸にて 芝居狂言永代御免 の

儀を願い出、許される。

 

幕末、慶応3年に起きた「えぇじゃないか」踊りも、名古屋発

とのこと。

 

 


新石器時代の縦笛

2021-02-22 19:11:02 | 尺八・一節切

西暦1999年、中国河南省にある賈湖の新石器
時代初期の集落の遺跡から、年代が明らかな
完全で音の出るものとしては世界最古とみられ
る縦笛が出土したことが、英科学誌「ネイチャー」
に同年9月23日に掲載された。
 
年代は、約9000年前から7700年前のもので、
裴李嵩文化(紀元前6000年)より相当前である。

これは、放射性炭素で年代測定した発掘層か
ら、およそ30個以上の破片とともに見つかったと
いう。

見事な出来栄えの6本の縦笛は、タンチョウヅ
ルの尺骨(シャッコツ)から作られたもので、
長さ17~24センチ、手孔は表面に5~8個があり、
そのうち(右から2番目)の保存状態の最もよい笛で
実際に音を出し、分析したところ、哀愁を帯びた
柔らかい音色を奏でることができたと伝えられた。 

(ついでに) 

古代の尺八
 
写真(上)は、「古代尺八(白竹製)
正倉院に現存する8本の中の3本。 
上、北倉階上にある古代尺八、管長(43,8センチ,)。
中、南倉階下にある古代尺八、管長(40,7センチ)。
下、北倉階下にある古代尺八、管長(38,3センチ)。

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ドイツで3万年前の旧石器時代の鷲の骨で作った縦笛が                                                   数本発見されたとのニュースもありました。

尺八はラテン語の「Tibia=臑の骨」「ティピァ」
「チューブ(管)」が、中国で「ちーぱ」と伝わり
「尺八」とう漢字が当てられたのです。中国では
尺八のことを「管」とも書き表していました。