おぢのニセコ山暮らし

山暮らしと世間のあれこれを書き綴ります

「沈黙のファイル」Vol2

2019年10月09日 | Weblog

激しい雨音と強風で目が覚めました。

午前6時を回っております。

気温はプラス7度です。

いまはとんでもない大荒れですが、午後から晴れるそうだ。

日中の最高気温はプラス15度に止まる。

この雨を境に秋は一気に深まるのだろうと推察しております。

ところで、

先日10円で買ってきました共同通信社社会部編の「沈黙のファイル」に面白い話が載っておりました。

時は昭和32年ごろのことだ。

登場するのは、戦後賠償ビジネスに大きく関わり、外車ブローカーから身を起こした立志伝中の人物、東日貿易社長の久保正雄。

そして、その久保の下で働いた桐島正也のインタビューだ。

桐島が入社した翌年、1958年のこと、インドネシア共和国の初代大統領スカルノが戦後初めて非公式に来日した。

共産ゲリラが日本に送り込まれるといううわさで、インドネシア大使館から久保のことろにスカルノを護衛してほしいという話が持ち込まれた。

久保はインドネシアに縁がなく、知人を通じてだったそうで、久保は知り合いの暴力団幹部に頼んでボディーガード役や、羽田空港で歓迎の旗を振る人間の大量動員を引き受けたそうだ。

桐島は帝国ホテルに泊まったスカルノ一行40~50人の世話役だったという。

翌年6月に桐島は久保の指示で赤坂のクラブ「コパカバーナ」に行った。

再び来日した日本びいきのスカルノに日本人女性を紹介するためだ。

「そこでママさんから『あの子どうですか』と引き合わされたのがデヴィさんだった。他の子は派手なドレス姿なのに、一人だけ地味なとっくりのセーターを着ていてね。この子はずいぶん真面目なのか、それとも全く売れないのか。どっちなのだろうと思った。きらびやかな赤坂のナイトクラブにはひどく場違いな感じがした」と桐島は語っている。

後のスカルノ大統領夫人デヴィの旧姓は根本七保子、当時19歳だった。

桐島はデヴィをスカルノの滞在先の帝国ホテルに車で送った。

「途中でデヴィさんから『どんな人なの』と聞かれ『ちょっと色の黒い人だよ』と答えた。帝国ホテルの前で彼女に新聞か何かを入れた茶色の封筒を持たせ(社用でホテルを訪ねたような格好をさせて)大統領の副官に引き継いだのを覚えている」

スカルノはデヴィを一目で気に入り、帰国後まもなくインドネシアに呼んだ。

デヴィは59年10月、久保とともにジャカルタ入りした。

桐島が久保にジャカルタ赴任を命じられたのはそれから数か月後のことだ。

「久保さんは最初から東日の商売のためにデヴィさんを利用しようとしたわけじゃない。あの時、スカルノさんに頼まれて日本女性を紹介しただけで、だれでもよかった。それをたまたまスカルノさんが気に入ったので、久保さんがデヴィさんに現金500万円と等々力(東京都世田谷区)の百坪の土地を渡して、ジャカルタ行きを説得したんだ」

インドネシアの賠償ビジネスは当初、首相岸伸介と関係の深い中堅商社「木下産商」の独壇場だった。

だが、久保は「デヴィの後見人」としてスカルノとのつながりを強める一方、自民党副総裁大野伴睦や河野一郎、「右翼の黒幕」児玉誉士夫らに接近。暴力団幹部とも親交を結びながら急速に木下産商の牙城を切り崩していった。

…興味深いお話です。

テレビのバラエティで活躍するデヴィ夫人が「地味なとっくりのセーター」で赤坂の高級クラブにいたこと。

そのときわずか19歳だったこと。

そしてスカルノに気に入られ、当時の現金500万円はいまの1億円にでもなるのか?

調べたら、昭和32年の大卒初任給は12700円だった。

さらに東京都世田谷区の100坪の土地だ。

登場人物も周辺の暴力団も、なんだか凄い。

ニッポンがインドネシアや韓国に支払った巨額の賠償金がどう使われたのか、それが証言に基づいてよくわかる共同通信社会部渾身の戦後史なのだ。

次回は韓国賠償ビジネスだ。