午前6時の気温はマイナス7度。
写真は今朝5時半のニセコアンヌプリ、青く浮き上がっておって美しいです。
寒いけど、春の気配が漂っておりまする。
さて、
1926年というから昭和元年のことじゃ。
当時の東北帝国大学電気工学科で、宇田新太郎と八木秀次のふたりが超短波受信用のアンテナを開発、英文で論文も発表した。
新潟と佐渡を結ぶ警察用無線がこれで実用化したという。
だけど、世界が関心を持ったのは「超短波は何かにぶつかると反射して戻ってくる性質」だった。
画期的なこのアンテナを開発した当時の軍部は「敵に対して電波を出すなど、暗闇にちょうちんを灯して位置を知らせるも同然だ」として、サッパリ評価しなかった。
ところが欧米では、これを使ってレーダーが飛躍的な進歩を遂げた。
宇田と八木のアンテナを欧米はたいした高く評価したのだった。
その後1941年(昭和16年)このアンテナの特許をニッポンで申請したけど、当時の特許庁と商工省は「重要な発明ではないので特許など認められない」として特許の取り消しを通告したそうな。
その年の12月、ニッポン軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、マレー半島にも上陸する。
翌年2月にはシンガポールを陥落させるなど、当初ニッポン軍は快進撃だった。
そのシンガポールで、ニッポン軍は連合軍の最新レーダー2基を捕獲、マニュアルも入手した。
だけどこの解読がすぐに行き詰ってしまった。
文書に頻繁に出てくる「YAGI」の意味がさっぱり分かんないのだという。
で、捕虜に意味を尋ねそうな。
捕虜は怪訝な顔でこう述べた。
「そりゃあなたの国の学者だ。彼のおかげでレーダーができた」
この証言から3か月後にミッドウエー海戦が起きニッポン海軍は壊滅的な打撃を受ける。
米軍は、八木アンテナを駆使して作戦を展開し、おかげでニッポン海軍はほぼ壊滅した。
当時の日本軍や特許庁、商工省の官僚は、八木アンテナの凄さを理解せず、国内で闇に葬った。
その凄さを理解した欧米はこれを使って、ニッポン海軍を壊滅に導いたのですわ。
戦争を主導した官僚さまは、八木アンテナの素晴らしさを評価できず、結果としてニッポンの敗戦をアシストしたわけ。
バカが戦争を主導するとこうなるわけですが、我がニッポン国における官僚体制「1940年体制」は、いまもほぼ当時と変わりません。
八木秀次は現在の八木アンテナの創始者でござる。