戦争をしたいという政治家や官僚どもが騒いでいる。こうして騒ぐ奴は戦争には行かない。戦争で死んだり、傷つく者はいつも庶民だと相場が決まっている。自分が行かないから勝手な物言いができるのだ。
しかし、そういう政治家どもの言動に影響される者たちもいる。おそらく戦場というものがどういう現場であるのかを想像できないのだろう。
アメリカがベトナムを侵略して、ベトナムの人々を殺戮したことがあった。世界中のカメラマンや記者が戦場に入り、その現場で見たこと、考えたことを、写真付きで報道していた。そこには戦場の生々しい写真が掲載されていた。そういう写真が、アメリカ国内の反戦運動を高揚させた経験を踏まえ、戦争をしたい奴は、それ以後生々しい写真を撮らせないようにし、かつメディアもそういう写真や映像を見せなくなった。
かくて、戦争の真の姿は、人々の前から消された。
だが、ボクたちは、戦場とはどういうところかしっかりと想像することが肝要だ。
ボクは、地域の歴史を書く時には、いつも元兵士から体験を聞いていた。ほんとうは、戦場での加害行為について聞きたいのだが、それについては話してくれなかった。ただ、皆さんが必ず言うことは、もう戦争はすべきではない、自分の子孫にはああいう場には立たせたくない、ということだった。それを語る元兵士の眼は、過ぎ去った否定すべき過去を思い出すように、遠くを見つめるようであった。
戦場の壮絶さを思い描く時、ボクがいつも思い出すのは、渡辺清『戦艦武蔵の最期』(朝日新聞社選書)である。もう絶版になっているかもしれないが、戦艦武蔵が断末魔を迎えている時、甲板でどういうことが起きていたのか、それがきわめて具体的に書かれていたことを思い出す。米軍機の爆弾や機銃掃射で傷ついた兵士の姿、とくに砲弾の破片が四方八方に、まさに凶器となって飛散し、それが兵士の体を裂くという描写、あるいは直撃されると兵士の体は肉片となって散らばる・・・・凄絶そのものの戦闘場面が描かれていた。
その一部は下記で読むことができる。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/nonfc/pdf/WatanabeKiyosi.pdf
もちろんボクは、戦場には立ちたくないし、いかなる人にも戦場には行ってもらいたくはない。いかに戦争をしないようにするか、いかに平和を維持していくのかを、とことん追求すること、これこそ政治がすべきことである。
想像力が欠如し、あたかもCGで戦争ゲームに興じるかのように、戦争にあこがれている奴ら、彼らの趣味につきあわされないように、しっかと眼を見開いて、この危機的な状況に対処していきたいと思う。