ゲシュタルト療法の創始者
フレデリック・S・パールズ(精神科医)
ー ゲシュタルトの祈り ー
私は私のために生き、
あなたはあなたのために生きる。
私は、あなたの期待に応えるために
生きているわけではない。
あなたも、私の期待に応えるために
生きているわけではない。
私は私、あなたはあなた。
もし、偶然が私たちを出会わせるなら、
それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、
それもまた同じように素晴らしいことだ。
ゲシュタルト療法の創始者のパールズが言うと
言葉に深みと重みを感じますが、
地動説とかテレビや電話を発明したとかの
特別のことではなくて
多分、大昔から色々な人が言っていることだと思います。
私達は、幸福であるために存在するのであって、
その優先順位は、私、あなた、あなたたちで、
まずは自分が自分らしく存在するための
座って半畳、寝て壱畳の居場所を確保することが大切です。
他者への精神的、物質的、経済的貢献は、
あくまでゆとり分でするのであって
自分を犠牲にして貢献することは正しい貢献とは言えませんし、
貢献を受けた側は、自己犠牲で成り立っているのを知ることになれば、
素直に感謝しにくくなります。
ゆとり分の貢献も簡単なようで難しいもので
誰かに援助を求められた内容と、
自分が貢献できることの違いで、
不満や批判をする人が出てくることもあります。
出来るならば貢献をする前に独りよがりにならないように
相手に確認を取れれば良いのですが、
そのような状況ではないことも多々あります。
例えば、電車で前に立つ老人に自発的に席を譲ろうとしたら
「わしゃ、そこまで老いぼれてはおらん。馬鹿にするな!」
なんて誰かを怒らせてしまうこともあります。
60代の男性が車で走行中に逃げる若い女性を
追いかける男を発見して、これは大変だと車をぶつけたのですが、
男女は付き合っている同士で喧嘩中。
暴漢から女性を救ったはずの60代の男性は、
起訴されたという外国の話もあります。
ありがた迷惑。余計なお世話。お節介。
親切の押し売り。差し出がましい。
なんて色々な言葉があることからしても
貢献の難しさが表れているように思います。
難しいからと言って、
正しい貢献、完璧な貢献をしようとして
考えすぎたり、慎重になり過ぎると何一つ動けなくなるので
自分が正しいと思ったら行動をすれば良いだけです。
この時、結果的に誰かを怒らせたり、
迷惑をかけたり、批判を受けたとしても
自分が納得できるお叱りや批判には、
謝罪をし、批判を参考にして行動を修正することはあっても、
納得できない批判は、いちいち深刻に受け止める必要はありません。
自分が納得できる批判は、辛口のアドバイスであり、
自分が納得できない批判は、アドバイスが高尚すぎるのか、
ただの的外れな批判でしかありません。
残念なことに批判する人の中には、妬みや嫉妬。
自分の快楽や優越感を得るために批判することを目的に
批判する人もいます。
批判を受けること、即、自分が間違ったことにはなりません。
◯自分が間違っている。相手が正しい。
◯自分が正しい。相手が間違っている。
◯どちらも間違っている。
◯どちらも正しい。
◯どちらが間違い、どちらが正しいではなく、
考え方、価値観の違いでしかない。
のようなケースがあります。
どうであれ結果に対して謝罪したり、行動や態度を修正したとしても、
自分を責めたり悔いたりすることを
ワンセットにする必要はないように思います。
批判に耳は傾けど振り回されないことが大切です。
人に好かれたいと思うのは世の常ですが、
だからと言って嫌われたり、批判を受けないようにを
自分の行動選択の基軸にすると自分を無くしてしまいます。
自分に問うてみましょう。
「自分の人生を始めているのだろうか。」
映画『グレイテスト・ショーマン』「This Is Me」