ヒステリーチックに野党が反対している
何やら法案が
衆院、参院で通ったようです。
あれはどうなんでしょう。
私は思うに
あの法案は、包丁の話と同じではないかと思うのです。
調理には欠かせない道具ですが、
別の使い方をするとんでもない輩もいる訳です。
だからって、
包丁の販売を猟銃の販売並みに厳しくした所で
結局は、ほぼ全世帯が持つことになるのですから
所持する人を登録してもあまり意味がありません。
意味あるようにするには
包丁を扱える人を専門職の人のみ許可とするで、
そうなると、
手料理なんて言葉は死語になり、
家庭の味、お母さんの味なんてものもなくなります。
こんなのちょっと無理があります。
圧倒的な権力を持つ独裁者なら
そんな法令を公布することは可能かもしれませんが
でも、おそらく怒りが限界に達した民衆によって
打倒されそうな気がします。
ジャスミン革命じゃなく、包丁革命。
ですから、持ち歩くことは規制されてはいますが
包丁は使う人を信頼して販売してる訳です。
あの法案の細かな点については良く知らないのですが、
総論については反対する理由が見当たりません。
日本国民であるなら当然かと思うのですが、
問題は、細かな点、運用の仕方、
間違いなく便利で良いものとして使ってくれるのか、
凶器と成りえないのかだと思うのです。
反対している人達の言い分を聞いても
説得力にかけているように感じますし、
通そうとしている人達の言い分も
奥歯に物が挟まったような感じがするので
私的にはどっちもどっちかなと。
ちょっと妄想的に考えてみると、
反対する側は、
国家の重要機密を他国に漏らすハードルが高くなるから反対。
通そうとする側は、
公共の利益ではなく政治家や政党の利益のためにやったことが
国民に隠しやすくなるとか、
その時の政権にとってちょっとでも不都合な輩を
取り締まることが出来る。
疑えばきりがなくなります。
もっと素直に考えると
反対する側は、
あの人達に包丁を持たすと
危険な使い方をするに違いない。
危険な使い方をしない保証が得られないので反対。
通そうとする側は、
ちゃんとした使い方をするから信用してくれ。
すると、もっと美味しい料理を食べることが出来るから。
それと、危険な使い方をする恐れのある人達への
包丁の販売の規制を厳しく出来るから賛成。
もっと簡単に言うと、
反対する側は、
信用出来ないから反対。
通そうとする側は、
何を言っても信用してもらえなさそうだから
強引に通すよ的な感じでしょうか。
しからばと賛成側が反対側を納得させるために
細かな点を書面にするとなると
おそらく何百ページ何千ページとなり
複雑すぎて運用が難しくなりそうですし
いつ完成するか分からなくなるような気がします。
では、廃案決定?
しかし、大切な法案。う~ん。
このような感じは、
人と人の関係にも当てはまります。
人と人とが付き合うには、
その相手を信頼し信用することで成り立ちます。
その相手を信頼し信用すると言うのは、
程度の大小があるにせよ
危険に対する恐さや不安を
自分が引き受けなければ始まりません。
何かの時に、
自分の味方だった人が敵となったり、
自分を向いてくれていたのに
他の人を見るようになったりと、
将来起きるかもしれない危険性を
完全に排除することは出来ません。
その人への信頼や信用は、
危険を引きうけたその先にあります。
将来に、ほころびが現れたら
その都度、互いが修正し合い
維持し発展させるしかありません。
あなたの人との付き合いが
どのような濃さであれ、
その濃さと同等の危険を引き受けるだけの力を
あなたが有している証です。
ところが、
その危険を引き受けることに
どうしても踏み切れず
物理的な距離は近づくことは出来ても
精神的な距離を
いつまでも近づけることが出来ない人がいます。
これは、
ある時に心に刻み込んだ教訓
「人を信用してはいけない。」
「人に近づいてはいけない。」
「自分の考えで行動してはならない。」
と言った教訓を守りぬこうとしていたり、
その危険が、
とてつもない危険なものだと見てしまう
心の動き方に原因があります。
あなたが、あなたの大切な人が
体験出来るはずのものを体験できずにいたとしたら、
何も大きな変化や急激な変化を起こす必要はありません。
まずは、一歩近づくだけの
無理のない見直しを行えば、
その一歩の経験が次の一歩へと繋がり、
数歩進むだけで、
世界が大きく変えることが出来るかもしれません。
催眠療法&心理療法 神戸ストレスカウンセリング・ルーム花時計