子供の虐待死のニュースを、ちょこちょこと耳にしますが、
養育者は、もう人でなし、畜生以下、外道でしょう。
逮捕後、躾がどうのとあれこれと言っているようですが、
我が子の躾ではなく、我が子が嫌いなのではなく、
ただ虐待をすることが好きなだけです。
支配者の立場を得て、水を得た魚のように
自分の心の中にある長年の恨みや辛みを真の対象者に向けずに、
弱者である我が子に向けて暴力で発散しただけです。
虐待をした養育者が、どのような辛い成育歴であろうとも
やっちゃいかんものはやっちゃいかんのであって、
被害を受けた側が、だから許すと言うのならまだしも
加害者が自分の成育歴がどうこうと言った時点で、
私には、ただの言い訳にしか聞こえません。
このような人物は、「誰々が何々だからだ。」と
自分の責任を他人の所為に転嫁して
己を省みることは少ないと思われるので、
自らの意思で心理療法を受けようとすることは稀なので
私達のような仕事をしている人が
改善の協力をさせてもらう機会は滅多にありません。
さてですが、
明かな虐待と分かるようなものは別として、
躾と虐待の境界線を引くことは簡単ではないように思います。
昔なんて悪いことをしたら押し入れに入れられて
泣いた子供なんてごまんといるのではと思いますし、
両親に叩かれたなんて人は、ごまんといるだろうし、
子供が家から追い出されて玄関先で
「中に入れてぇ、入れてぇ。」って
泣いていた子供を何度か見たことがありますが、
今では虐待に入るのでしょうか。良く分かりません。
私も両親から何度か殴られたことはありますが、
母親は、怖くもあり、安らぎをもたらしてくれ、
父親は怖くもあり、頼りにもなり、
そして、両親とも尊敬の対象でした。
一貫したルールの元で、子供を叱り、
子供の精神や身体に深刻なダメージを与えないものであるなら
躾なのかなと思ったりします。
子供は自分の分身であり、何ものにも代えがたく、
自分の中にある愛する気持ちを呼び起こしてくれる存在で、
昔から夫婦が喧嘩をしても、仲が悪くなっても、
子供への愛情のお陰で夫婦の危機を乗り越えられたりすることから、
子はかすがいと言われてきました。
そして、
互いに結婚相手とは考えなかったけれども、
二人の間に子供を授かったことで結婚をして、
結婚生活を送る中で、
相手への大きな愛情が育ったなんて言う話も
子供が持つ縁を強く結びつける力を示すものかと思います。
オーストラリアでは、
子供が物凄い鎹力を発揮した出来事があったようです。
どういう経緯か会うことになったか分かりませんが、
精子バンクを頼りに体外受精で母親になったオーストラリアの女性が、
精子ドナーと対面したんだそうですが、
男性は女性が産んだ子供が自分とそっくりで愛情が湧き離れられなくなって
2014年に二人は結婚したそうです。
我がDNAを受け継いだ我が子が愛おしくてたまらない。
これが普通の感覚ですし、
人と人との縁とは、誠に不思議で素晴らしいものですね。