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いじめの加害者の心理をよく表した神戸・教員間いじめ

2019-10-19 20:14:20 | 徒然

今週、問題が表面化(?)した神戸の公立小学校で行われていた「教員間のいじめ」。
いじめの内容にも驚くのだが、これらのいじめが「教師」が行っていた、ということが社会的な衝撃を与えている。
「いじめはいけない」と教える立場の教員が、子どものいじめよりも数倍酷いいじめを、複数の若い教員に行っていたのだ。

一昨日、加害者教員が被害者教員に対して「謝罪」を文書で発表しているが、当然のことながら世間の目は厳しい。
その中でも、「謝罪をするなら公の場に出て、すべき」という内容が目だって多い。
公の場に出られないのは、加害者教員が「公の場で出られないくらいの体調である」という説明だったと思うのだが、報道されているようないじめを繰り返していて「公の場に出られない体調になるほどの、繊細な神経の持ち主ではない」、というのが世間の見方だろう。


今回の謝罪文を見て、多くの人たちが「謝罪という言葉と言いながら、謝罪になっていない」と感じているのは、その言葉が「上滑り」しているからだろう。
特にいじめの中心と言われている40代の教員の「かわいがっていた」という言葉に、違和感を覚えた方も多かったのではないだろうか?
私はこの言葉を見た時、しばらく前、相撲界で問題になった「かわいがり」と称した「いじめ」を思い出したのだ。
この時も、世間から理解を得られず発言をした親方は逆に、「何故、分かってもらえないのだろう?」という、表情だった。
相撲界の「かわいがり」という名のいじめは、半ば伝統文化のように言われたように思うし、今でも日本のスポーツ界には「暴力も辞さないほどのスパルタ指導」が、有効な指導法であると考えている指導者や父兄がいる、という事実もある。
その延長として、「かわいがっていた=虐めていた」ということであれば、教員という世界でも相撲界と同様な思考が、まかり通っていたということになるだろう。
と言っても、今回のような思考の教員は今ではほとんどいないのでは?(と思いたい)。

ただ、一連の「教員間いじめ」の経過などを見てみると、なんとなくだが「いじめの加害者の心理」というものが、見えてくるような気がするのだ。
これまでの「学校でのいじめ」の対象は、「成長過程の生徒」であったために「いじめの心理」という部分では、理解しにくい部分があったように思う。
しかし今回は、成人し社会人となっている「大人」が引き起こした「いじめ」だ。
しかも、加害者教員のコメント内容は、言葉こそ違え「いじめをする子供」とほぼ同じニュアンスを含んでいるように感じる。
大人だからこそ、見え隠れする「いじめの心理」というものを、表しているのでは?という、気がするのだ。

同じように感じられた方がBusinessJournalに寄稿されている。
BusinessJournal:神戸教員間いじめ、性行為強要疑惑…加害者の教員ら、「ゲミュートローゼ」の可能性

「ゲミュートローゼ」という言葉は、初めて聞くのだが、もしこの心理学者の方が指摘するような人であるとすれば、教員は当然のことながら一般の社会生活においても、様々な問題を引き起こす要素が高いのでは?という思われる。
だからと言って社会から排除するわけにはいかない。
「大人のいじめ」の難しさは、このようなコトから理解する必要があるのかもしれない。