参議院選挙が終わったら、次は東京都知事選だ。
東京都知事選そのものは、東京都民の有権者が決めることなので、それ以外の地域に住んでいる人たちにとっては、関係のない選挙になる。
にもかかわらず、東京都知事選が全国ニュースのトップに取り上げられるのは、東京が「日本の首都」というだけではなく、財政規模も大きな自治体だからだろう。
THE PAGE:予算13兆円、職員16万人・・・東京都知事の権力と影響力
リンクの記事が書かれたのは、舛添さんが都知事になったときの記事なのだが、大きく変わってはいないのでは?と、思っている。
そして2020年の東京オリンピック開催は別にして、今東京都が抱える問題のいくつかは日本全体の問題でもある。
例えば「少子高齢化」などは、日本全国共通の問題点のはずだ。
出生率という点で見ると、東京都は「少子高齢化」が一番進んでいる地域だともいえる。
なぜなら、出生率そのものは全国で最低に近い状況であり、団塊世代が「高齢者」になりつつあるからだ。
ただ表面的に見えにくくなっているのは、地方からの若者の流入が多いためだろう。
そして地方から流入してきた若者のうち「非正規雇用者」として、働いている人たちが数多くいるはずだ。
だからこそ、各候補者の政策なども似通ってしまうのは、当然なのだと思う。
今の有権者は、耳障りの良い言葉だけを信用する人は、少なくなりつつあるのでは?と、感じるからだ。
その反面、著名人というかネームバリューのある人を選びがち、という問題はあると思う。
そのような視点で見てみると、東京都知事選の選挙公約のいくつかは、日本の共通的問題解決ということが見えてくる。
各候補者が訴えている「2020年東京オリンピック」は、どの立候補者が当選しても「成功」するだろう。
というよりも「成功」させなければ、ならないだろう。
問題なのは、それ以降の「東京」の姿なのではないだろうか?
戦後の日本は、「東京」を都市モデルとして追いかけてきたトコロがある。
その東京が、オリンピックというイベントが終わった後の「未来図」を打ち出すことができるのか?
それが、もしかしたら「東京」という都市だけではなく、日本の大都市の「未来図」の一部となるような気がする。
作詞家としては「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」などのヒット曲を生み出し、時には放送作家として活躍をされ、「大往生」などのベストセラー作家でもあり、長い間ラジオパーソナリティーを務められてきた、永六輔さんが亡くなられた。
永六輔さんが作詞家として活躍されたのは、1960年代。
日本が本格的な「高度成長」を迎えはじめた頃だった。
社会的には「明るい未来」という雰囲気のある中、「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」は、明るいだけの内容ではなかった。
むしろ、どこか哀愁があり「明るさの陰にある悲しみ」のような心情を、描き出していたように思う。
もちろん、作曲家・中村八大さんによるところも大きいのだが、作詞と作曲がピッタリとあったからこそ、時代を超えて歌い継がれるのだという気がする。
永六輔さんが作詞家としてではなく、活躍の中心とされていたのは「ラジオ」だった。
それも、AMのラジオ番組だ。
ラジオという「メディア媒体」は、暗黙の「棲み分け」のようなところがある。
「短波」と言えば、株式情報や競馬中継などが中心。
「FM」は音楽が中心で、FMの進行役は「DJ」とか「パーソナリティー」という名称で、呼ばれることが多い。
もちろんある程度のニュースや交通情報などは、番組の中に含まれてはいるがそれらは、番組のつなぎのような役割のような気がする。
それに対して、AMは「ことば」が中心の番組が多いような気がする。
当然、進行役となる人は「DJ」とか「パーソナリティー」のような名称で、呼ばれることはない。
なぜなら、進行役となる人そのものが「番組」そのものだからだ。
そのため、進行役となる人のキャラクターというか個性や、思考が番組そのもの反映される。
AMラジオというのは、それだけ「人」の魅力によって、創られる番組が多いのだ。
もう一つ「ラジオ」というメディアは、テレビよりも「自由さ」が特徴のような気がする。
ここ2,3年のテレビのような「自主規制」的な発言を聞くことは、あまりない。
むしろリスナーとして「そんなこと、言ってはまずいのでは?」と思えるような発言を、聞くこともある。
それは時には、政治への批判であったり、社会全体の問題であったりする。
おそらくそのような「発言」をするには、それなりの覚悟のようなモノを持っていらっしゃるのだと思う。
だからこそ、ラジオ番組では「失言」が、少ないのかもしれない。
テレビが日本の家庭に普及し始めたころ、「ラジオ」は古い媒体として衰退していくと言われていた。
確かに、テレビ隆盛期にはラジオを聴く人は、減っただろう。
しかし、1960年代後半から1970年代にかけ「深夜放送」が、当時の若者を引き付けることになる。
そこでは「大人には言えない若者たちの本音」のようなモノがあり、番組を通しての「コミュニティー」のようなものもあった。
今でも病院のベッドで眠れぬ夜を、ラジオを聴きながら過ごすという方も決して少なくないはずだ。
そう考えると、永六輔さんが「ラジオ」にこだわった理由は、ラジオ独特の「コミュニティー」と「自由」さだったような気がする。
昨日の参議院選挙。
結果は、ご存じのとおりで「与党が強かった」という結果に終わった。
今朝、FMを聞いていたら早速昨日の選挙結果の分析という話題があった。
その分析結果として「安定を求めた結果」だったというコメントがあった。
「安定を求めた」理由の一つに、先のイギリスで行われた「EU離脱」についての国民投票の影響、という指摘もされていた。
イギリスのEU離脱によって、イギリス国内では確かに「混乱」が起きている。
国民投票の結果、離脱が決まった直後から国民投票のやり直しを訴える人達が、数多くあらわれたコトなどは、その象徴的なことかもしれない。
そのような「混乱」を、避けたい気持ちの表れではないか?というのだ。
もう一つ「安定を求めた理由」があるとすれば、「東日本大震災」の復興もままならない状況の中、熊本・大分で大地震が起き、多くの方々が被災し、避難を余儀なくされている。
ここで政治の停滞が起きることは、復興のマイナスになるのでは?という、懸念が働いた、という分析だ。
果たしてそれが、理由なのだろうか?
今回の投票率は、50%をやや上回った程度で、戦後4番目に低い投票率だった。
この数字は、本当に「国民の意思」を反映した数字なのだろうか?ということなのだ。
「投票率の低さ」については、様々な意見や考えがあることは、知っている。
とすると、自民党が訴えた「アベノミクスの推進」などを支持している訳ではない、ということになる。
しかし、安倍さんは「アベノミクス推進」の支持を国民から得た、と思うだろうし、数字だけをみればそう見えても仕方ない。
それには「改憲」という点でも、同じだろう。
新聞などでの「改憲」報道については、拙ブログで疑問を呈していたのだが、今朝の朝日新聞などでは「改憲4党 3分の2に迫る」という大見出しが一面に掲載している。
現在の与党というのは、自民・公明の2党であり、野党の民進党も同じように一部改憲を訴えていたために、「改憲4党」という表現がされているのだ。
このような表現をされると、おそらく安倍さんは「国民の支持を得て、国民主権から国家主権への転換は、理解を得られた」などと、言いだしてくる可能性もあるのではないだろうか?
それは「(政治的)安定」を求めた、国民の意思なのだろうか?
国際的経済学者だけではなく、市場からも「アベノミクス失敗」がささやかれる中、「アベノミクスを推進」を謳う安倍さんの姿を見ると、経営に失敗したことを薄々感じながらも、失敗を認めることができず邁進する経営者の姿に見えてくる。
おそらく「経済の安定」というのであれば、「アベノミクスの推進」ではなく、「アベノミクスの見直し」だと思う。
今回の選挙結果は、本当に国民が「安定を求めた結果」だったのだろうか?と、疑問に感じるのだ。
2,3年ほど前から、ドラッグストアーの「健康食品」コーナーで見かけるコトが多くなった商品の一つに「高栄養食品」がある。
明治の「メイバランス」のように、もともとは介護向け商品の市販化などがされるなど、少しずつこのような特定のユーザーの病院向け食品が、注目されるようになってきている。
理由の一つとして考えられるのが「食べられない人」が、増えているのでは?という気がするからだ。
「食べられない人」というのは、高齢になり「食事量が少なくなってきている人」だと思いがちだが、その実ダイエットなどで「食べたくない人」や仕事などで「食べたくても食べられない人」が、増えているのでは?という気がするのだ。
もちろんこのような「栄養食品」とか「ライトミール」と呼ばれる、食品は以前からあった。
有名なところでは「カロリーメイト」だろう。
病院の流動食をより食べやすく市販化したのが、「カロリーメイト」だということを、ご存じの方は多いと思う。
その流れの一つとして、次々と登場したのが「ライトミール」と呼ばれる、「健康食品」だ。
それらの「ライトミール」と「メイバランス」の大きな違いは、「メイバランス」は「タンパク質」に特化した商品である、という点だろう。
そして、「あずきバー」でおなじみの井村屋もまた、ちょっと変わった商品を昨年から販売している。
それが「高カロリー豆腐」という商品だ。
少量でも、それなりのカロリーを摂取するコトができるので、食が細くなった高齢者向け商品としてネット販売をしているようだ。
「メイバランス」や「高カロリー豆腐」が注目される要因は、「高齢の栄養不足」という問題がクローズアップされ始めているためだ。
その意味では、「高カロリー」は体に悪い、というイメージを変える部分があるかもしれない。
それだけではなく、様々な理由で「食べられない人・食べたくない人」の栄養バランスを補助する、ということがあるのではないだろうか?
違う言い方をすれば、医師の指導のもとで「ダイエット」を行う必要のある人の食生活サポート商品、ということになるのではないだろうか?
場合によっては、美容目的の「ダイエット」食品として、とらえる人も出てくるかもしれない。
これらの商品は、それまでの「ことばのイメージ」を逆手に取り、その機能を伝えている。
このような商品の一般化は、生活者の世代構成だけではなく生活スタイルの変化によっても、違ってくるという一例だと思う。
参議院選挙の投票も今度の日曜日と迫り、街頭での選挙演説にも熱が一段と入る頃だ。
新聞などでも、「情勢分析」に紙面を大きくさいている。
その中で気になったコトが「改憲」ということ。
「改憲」というと、真っ先に思い浮かべるのが「憲法九条」のことではないだろうか?
そしてその「改憲」の内容も、党によって違っている。
一番過激?な改憲をしようとしているのが、自民党だろう。
それだけではなく、自民党の改憲案の基本となる考えは「国民主権」ではなく「国家主権」だ。
まるで、第二次世界大戦前の「大日本帝国憲法」を彷彿とさせる文言が並ぶ。
安倍さんを中心とした、自民党保守派のみなさん方は「富国強兵」を目指したいのかもしれない。
その割には、南シナ海を中心にやたらとチョッカイを出してくる中国に対して、強硬な態度に出ないのは不思議な気がするのだが・・・。
そのためには「経済発展が必要」という考えでの、「アベノミクス」だとも考えられそうな勢いだ。
それに比べ、野党第一党である「民進党」の改憲案は、やや緩やかなもののように思われる。
今現在の「憲法」を読んでみても、言葉の理解が難しく「何を言っているのかわからない」という部分は、数多くある。
何より、70年近く前にできた「憲法」では、対応できない時代になってきている、というのは当然あるはずだ。
その意味での「改憲」は必要だと思うし、何よりもう少しわかりやすい言葉の「憲法」であれば、「改憲」の議論も盛んになるのではないだろうか?
大切なことは、「改憲をする・しない」ではなく「どう改憲したいのか?」という点ではないだろうか?
それを「改憲」という言葉ばかりにフォーカスし、「改憲賛成・反対」というのは、どこか論がずれているような気がするのだ。
何故新聞などのメディアは「改憲」という言葉で、まとめてしまうのだろう?
確かにそのほうが「わかりやすい」とは思う。
思うのだが、そのような報道の仕方が「改憲」の本質的問題から選挙民の思考を、停止させてしまっているような気がする。
ダッカで起きた、IS(ここでは、「ダーイッシュ」と表記させていただきます)の思想に影響を受けた、若者たちが起こした日本人やイタリア人に向けての惨殺とテロ。
事件の全貌が、少しづつ明らかになりつつある。
その中で、犯人たちの多くがバングラデシュの裕福な家庭の子弟であった、という報道が出てきている。
裕福なだけではなく、優秀な学生でもあった、と言われている。
裕福で優秀な学生が、何故「ダーイッシュ」のようなテロ組織の思想に傾倒し、テロや惨殺行為をするまでになったのか?と、考える必要があるのでは?という気がする。
そしてこれまで「テロ集団」の代名詞?のように言われていた「アルカイダ」との違いも考える必要があるように思う。
というのも「アルカイダ」の場合、スカウトされる若者たちの多くは貧困層出身で、「神学校」で学ぶ機会を与えるという名目で、テロリストたちを養成してきたと、言われているからだ。
「(様々なコトを)学ぶ機会」が無かったため、「アルカイダ」の善悪(というよりも「イスラム教」あるいは「正統的なムスリムとしての思想」)を知る機会がなかったコトで、テロリストとなってしまったのでは?という、指摘がされてきた。
それに対して、ダーイッシュの場合「13世紀ごろのオスマントルコ」を目指すために、インターネットなどを積極的に利用し、グローバルなスカウトをしている。
そして感化される若者たちは大学で様々なコトを学んでいるような、いわゆる「高学歴」の若者たちだ。
今回のダッカでのテロも上述した通り、高学歴で裕福な家庭の若者たちだった。
この事実を知ったとき、思い浮かんだ話がある。
一つは、ドラッカーの自伝の中にある。
ドラッカーが、フランクフルト(だったと思う)で新聞記者をしていた時(=ナチスが台頭し始めた頃)ドラッカーは記者を辞めロンドンに行く準備をしていた。そのコトを知った先輩記者が「とどまり、ナチスのために働いてほしい。それが国を良くする手段だ」と説得に来た。という話だ。
その言葉を聞いて、ドラッカー自身は「(知識層までナチス支持をする)ドイツに留まる猶予はない」と判断し、早々にロンドンに脱出した。という話だ。
もう一つは、池上彰さんと佐藤優さんの対談形式でまとめられた「希望の資本論」の中で、池上さんが語られている内容。
池上さんが大学生だったころ(ご存じのとおり、池上さんは慶応大学出身)、学生運動が盛んで池上さんも大学の先輩から、デモの参加に誘われたそうだ。その時「改革をするためには、手段を択ばず」と言われたという。
そして池上さんは、「ある特定の思想に傾倒するコトの怖さ」を感じたという。
「ダーイッシュ」に傾倒する若者も、ドラッカーに「ナチスのために働いてほしい」と言った先輩記者も、池上さんに「手段を択ばず」と言った大学の先輩も、ある部分では「純粋」なのかもしれない。
それは「裕福」だからこそ、それまで自分たちのいる社会以外の社会を知らず、当然社会の根底にある問題も知るコトが無かったのだと思う。そして「多様性の中にある摩擦と寛容性の大切さ」を知ることも経験もなかったのでは?
何より「特定の思想を信じ・傾倒する」コトの怖さを「ダーイッシュ」は、教えているような気がする。
今年に入り、製菓メーカーのロッテの「お家騒動」が、度々報道されるようになってきた。
「ロッテのお家騒動」は、今年に始まったコトではないのだが、報道される回数が増えると共に「お家騒動」以外の報道もされるようになってきた感がある。
今日、朝日新聞のWEBサイトでは、ロッテ創業者の長女に韓国政府が逮捕状を請求した、という報道がされている。
朝日新聞:ロッテ創業者長女の逮捕状請求 背任収財や横領容疑など
私と同世代以上の方にとって「ロッテ」という企業は、「お口の恋人ロッテ」というキャッチフレーズと共に、日曜日の昼下がり「一週間のご無沙汰でした」という玉置宏さんの口上で始まる「ロッテ歌のアルバム」などを通して、親しみのある製菓メーカーだと思う。
1960年代の企業の多くは、テレビ番組のスポンサーになるコトで、知名度を上げ生活者に親しみ感を与えてきた。
その意味で、ロッテという企業は創業者が韓国出身者であることを知らずに、日本企業として親しみを持ってきた人は多かったのではないだろうか?
それがここ数年の「お家騒動」があり、また、韓国での「反日の動き」などで、ロッテという企業そのもののイメージが変わり始めているような気がする。
というよりも「お家騒動」が大きく報じられることが無ければ、おそらく多くの人はロッテ創業者が、韓国出身者である、ということは知らなかったのではないだろうか?
それが、反日の動きなどにより、日本国内での韓国に対するネガティブイメージが強くなるにつれ、ロッテという企業に対しても、ネガティブというほどではないにしても、購入を躊躇する生活者はいるのではないだろうか?
もちろん、製品に問題があるわけではない。
作られる製品は、日本の衛生基準などに沿った製品だ。
何より、おいしさそのものは以前と変わっている訳ではない。
にも拘わらず、「お家騒動」と今回報じられているようなコトがあると、製品云々ではなく生活者の「買いたい!」という気持ちが、動きにくくなってしまう部分があると思う。
というのも、週末近所のスーパーだけではなくドラッグストアなどでも、頻繁にロッテのお菓子が他社に比べ安価で販売されるコトが多くなっているからだ。
しかも、以前なら夕方遅く買い物に行けば売り切れていたはずの商品が、残っているコトも少なくない。
今回の逮捕請求は、あくまでも韓国でのコトだが、「ロッテ」という名前があまり良くないコトで報じられればられるほど、生活者のイメージはマイナスになっていくだろう。
企業イメージを作っているのは、決して製品やサービスだけではない。
今回のロッテのような場合も、企業イメージに大きく影響を与える要素なのだ。
米国のEV車メーカー・テスラが「自動運転車」で死亡事故を起こした。
日経新聞:「自動運転」で死亡事故、テスラ車が発した警告
記事を読むと「まぶしすぎて前の車を認識できず、追突事故を起こした」ようだ。
このような事故は、痛ましい事故だと思うのだがその前に「車を運転する」意味とは何だろう?と、考えることがある。
「車を運転する」ということは、「自動運転が目指すことは何か?」ということにもつながる問題だと思うのだが、どうなのだろう?
例えば、自動運転装置があって良かった!と思う場面は、どのような場面なのだろ
急に運転者が、病気になり運転するコトができなくなった時?
ペダル操作を誤った時、自動的に制御し事故を防ぐ?
運転者の疲労を車が察知し、自動運転に自動的に切り替えられること?
いずれにしても「事故を起こさない」ということが、「自動運転の目的」という気がする。
では「運転をする」ということは、このような「危険要素」が含まれていても、違う目的があるのでは?という気がする。
「ドライビングが趣味」という方にとっては、クルマを運転するコトそのものが楽しいことだと思う。
実際トヨタの企業キャッチコピーは長い間「FUN TO DRIVE(,AGIN).」だ。
「ドライブ*を(また)楽しもう」という意味だ。
ここ数年元気の良い、マツダも「人馬一体」というキャッチコピーを使って、「クルマに乗る楽しさ」を打ち出している。
そう考えると、「自動運転ありき」の発想ではないのでは?という気がしてくる。
特に、日本の自動車メーカーの発想は、「運転をする人のサポートをする」という気がするのだ。
その背景にあるのは、車を運転する人の「高齢化」ということもあるだろう。
「生活の足」としての車というのであれば、それこそ「生活活動範囲」を地図上に登録し、GPSなどにより自動運転をする、ということも十分考えられる。
おそらく目的が、それだけであれば「自動運転システム」は、とても有効だと思う。
高齢化が深刻になりつつある、地方においては特に望まれるシステムかもしれない。
ただ上述した通り、車を運転する人の目的は、それだけではない。
「運転をする楽しみ」があるはずなのだ。
たとえ「生活の足」であっても、「まだ、運転できる」ということで自信を持っている高齢者もいらっしゃるかもしれない。
そう考えると、Googleなどが開発し公開している映像のように「車に運転をまかせっきりにして、後部座席の人たちとお茶を一緒に楽しむ」ということを、ユーザーは望んではいないのではないだろうか?
「自動運転」という技術やそれに伴う様々な通信技術の発展は、新しい産業を創りだすだろう。
しかし、その前に「自動運転の目的や目指すこと」を、きちんと考える必要があると思う。