日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

ディベート型の社会はもう古い

2019-09-11 23:11:40 | 徒然

台風15号による停電は、復旧の目途が立たない状況にあるようだ。
東京電力も、復旧作業に全力で当たっているとは思うのだが、強烈な残暑が被災者の体力、気力を激しく奪っているようだ。
一番の被災地となっているのが、千葉県下ということもあり東京中心の報道体制から外れている為、全国への情報発信が十分にされていない、という状況も重なっている。

これまでも度々指摘されている「東京中心のメディア」の在り方は、既に限界というか終わりに近づいているのでは?と、ここ数年の自然災害の度に感じることだ。
問題なのは、そのことに「キー局」と呼ばれる東京に本社があるテレビ局などが気づいていない、ということだろう。
インターネットが普及した現在だからこそ、地方で起きた自然災害の情報は集めやすく報道しやすい環境になっているはずなのに、今だに「東京中心思考」から離れられない、というのは「テレビ」というメディアが古いメディアになってしまっている、ということを表しているのかもしれない。

被災されている方々の健康状態を含め、1日も早い復旧と日常生活を取り戻されることを願うばかりだ。

この夏、NHK出版から出されている「学びのきほん」というシリーズの「役に立つ古典」を読んだ。
取り上げられている古典作品は、古事記・論語・奥の細道・中庸の4作品。
高校などで習ってきた解釈との違いに、やや驚きながら「解釈そのものは、もっと自由であっても良いのでは?」という、気がしたのだった。
特に、ビジネスパーソンに人気の論語などは、孔子の時代には使われていなかった漢字を見つけ出し、孔子が生きた時代の漢字に置き換えることで、孔子の言葉そのものを理解しよう!という視点は、これまでとは180度違う内容に変るという発見があった。

その中で感じたことは、これからの社会は「ディベート型」ではなく、「相互理解対話型」になっていくのでは?ということだった。
ご存じのように「ディベート」というのは、肯定側と否定側に分かれそれぞれが主張しあうという「意見対立型の討論」方法だ。
このような方法だと、どこか「勝ち・負け」のような部分が、互いに残ってしまうことが多い(と感じている)。

確かに「問題点を明らかにする」という点では、「意見対立型」は分かりやすくなる。
しかし自分の考えや意見を主張するあまり、相手の考えや意見を頭ごなしに否定するという傾向もあるように感じている。
もちろん、「本来のディベートではない」という指摘もあるとは思うのだが、「互いに理解をしあう」という感じではない。

何より「意見対立型」の考えは、「白黒はっきりしている」社会であれば、思考的にも分かりやすくまとまるはずだが、今の社会は多様性に富み、様々なもの・ことが入り混じっている。
ある意味「混沌とした思考の社会」と言っても良いのでは?

とすると、「ディベート」的は思考では、今の社会の問題は乗り越えられないという気がするのだ。
20年余り前、話題になった「複雑系」がより、「複雑化した社会」が今だとすれば、「ディベート型社会」の発想ではなく、「相互理解対話型」のような柔軟性に富んだ発想が必要となるのでは?という気がするのだ。

おりしも元号が「平成」から「令和」に変わった。
「令和」の「令」を「令婦人」などのように、相手を尊ぶ意味だとすれば「和をもって相手を尊ぶ」という時代だとすれば、「ディベート(対立)型」の発想は、古い発想なのでは?と、転換する必要があるような気がするのだ。


台風15号が教えてくれた、インフラの独立性

2019-09-10 18:12:54 | アラカルト

昨日、静岡県東部から首都圏、関東を襲った「台風15号」。
JRをはじめとする鉄道各社が、午前中運休を事前に決め発表していた為、午後から出社しようとした人達で、駅はごった返したようだ。
このような光景を見ると「天災による交通マヒなどにより、出社困難な場合は出社に及ばず」という、就業規則が必要なのでは?という、気がしてくる。
このような場合、有休扱いとなるため「有休取得はしたくないのに・・・」という不満もあるとは思うのだが、元々取得率の低い有休ということを考えると、企業側も社員の身の安全などを考慮し、就業規則で「休みやすい環境」をつくる必要があるのでは?という、気がしている。

今回の「台風15号」は交通機関への影響よりも、東京電力管内に大きなダメージを与えたようだ。
静岡県東部から首都圏はもちろん、関東一円で大規模な停電が発生し、今(9月10日午後)の時点でも、千葉県では復旧の目途が立っていない状況のようだ。
そしてこのような状況下で、とても悲しいことが起きてしまった。
脳梗塞で入院されていた患者さんが、痰が吸引できないことで亡くなってしまったのだ。
讀賣新聞:停電の病院で入院患者死亡、断水地域は吸水

脳梗塞の患者さんが入院されるくらいの規模の病院であれば、災害時に対応できるように「独自の電源」を確保していると思っていたのだが、この病院はそのような設備が無かった、ということだろうか?
都市部の病院では、緊急時の為の電源設備を持っているのが当然なのでは?と思っていたのだが、地方の公立病院などでは設備が追いついていない、というのが現状なのかもしれない。

以前から拙ブログでも指摘をさせていただいているのだが、災害時は「生活インフラの確保」が最重要点となる。
特に、公共性の高い病院などの医療施設や避難場所として選定される学校などでは、規模の差はあれども「電気・水道・ガス(もしくはガスの代替エネルギー)」の確保は、その地域で生活をする人達にとっての大きな安心材料となるはずだ。
そのような「安心」があるからこそ、「避難」そのものも安心してできる、という要素になると思う。

とすれば、設置のしやすい太陽光発電だけではなく、コンパクトな設計で発電できる風力発電、下水などからつくられる「メタンガス」などによる電力発電やガスの供給、地域によっては小規模水力発電のような施設を、地域内に分散させ非常時の「生活インフラ」を確保する、ということが必要になってくるのではないだろうか?

今のような電力会社1社が、広範囲の電力を供給するというのは、このような災害があった時最大のリスクとなる、ということを今回の「台風15号」は教えてくれたような気がする。


データは、その数字の背景を知ることから始まる

2019-09-09 12:42:31 | マーケティング

台風15号の上陸で、関東は大変な状況のようだ。
JRをはじめ、私鉄各社も昨日中に「運休」などの発表をしたため、早めの対策をされた方もいらっしゃるのでは?
とはいうものの、「平日だから出社して当然」という意識は企業側にも働く側にも強くあり、何とか出社された方もいらっしゃるだろう。
このような状況になるたびに、「出社に及ばず」という就業規則があっても良いのでは?という、気がしてくるのは私だけだろうか?

先日「老後資金には最低2千万円必要」という記事があり、世間を騒がせた。
というのも現在年金を受け取っている人も、現在年金を支払っている人も「老後資金・2千万円」という数字は、「そんなに必要なのか?!」と、驚く数字だったからだ。
10月から消費税が8%から10%に引き上げられることもあり、収入が増えないのに物価や税金が上がり、生活がますます苦しくなる、と実感していることも、より不安を煽ることになったのだと思う。
というのも、6割の世帯が「平均値」を下回る貯蓄高しかないからだ。

「平均値」という言葉のマジックに注意すべき、という記事が、朝日新聞にあった。
朝日新聞:「平均値」はもう限界 格差広がる日本に新指標のススメ

学生の頃から「平均値=データのボリュームゾーン」というようなイメージで、とらえてきた方は多いと思う。
売上データや購入客層を分析するときなどは、目安になることは事実だ。
特に購入客層のデータの「平均値」からえられる情報で、おおよその生活者像がつく。
マーケティングで使われる「F1層(20~34歳の女性)」などは、分かりやすい例かもしれない。
F1層のイメージとなっているのは、数多くのデータから出てきた「平均的な20~34歳の女性像」と捉えられるからだ。

今回の「老後資金2千万円」という数字には、富裕層の高齢者と富裕層以外の高齢者の間にある「格差の広がり」がある、という指摘だ。
同じようなデータとして、「世界中の富の分配」というものがある。
世界の人口の1%の富裕層に、世界の富みが半分以上集中している、という指摘だ。

資産(貯蓄や有価証券などの保有額)を単純に足し算をして、人数で割るという「平均値」の出し方では、富裕層に集中している富の実態というものが、見えなくなってしまうのだ。
分析として必要なのは、「富裕層から、富の再分配をどの世代でも行っていく為にはどうしたらよいのか?」ということであり、単純な「老後資金2千万円」という数字の独り歩きによる、不安や不満を抱かせることではない。

マーケティングにおいては、このような「データの背景」というものを知ることが重要であり、背景に潜んでいる「(多くの場合)社会的問題」をあぶりだし、解決を考えるということが必要になる。
もちろん「ビジネスの基本」とも言われる、マーケティングなので「企業利益と社会利益のバランス」を取りながら、社会に対して提案をしていく必要がある。

昨今のように「AIによるデータ分析万能」のような風潮があるが、一番重要なのは「データ分析結果」ではなく、そのデータの背後にある潜在的問題点だと思う。


ケロッグの業務提携解消とブランド力

2019-09-06 23:05:15 | ビジネス

今日の日経新聞WEBサイトに、味の素が日本ケロッグとの独占販売契約を解消する、という記事があった。
日経新聞:味の素、日本ケロッグと独占販売契約を解消 20年3月で

この記事を読んで、「ケロッグ」というブランドの行方が気になった。
確かに「ケロッグ」によって、日本のシリアル市場はできてきた、と言っても過言ではないと思う。
長い間、シリアル市場はケロッグの独占状態であった、ということも事実だ。
というのも、長い間シリアル市場に参入する企業が無かったからだ。
逆に言えば、シリアルという食品が日本の生活者に受け入れられるようになったのは、ここ20年経つか経たないかということなのだ。
受け入れられるようになったのは、いわゆる「グラノーラ」と呼ばれる、ドライフルーツやナッツが入ったコーンフレークスが登場し、「朝食を手軽に食べられる」という、生活者への新しいベネフィットを訴求させることに成功したからだろう。
「ケロッグ」の主力商品である、コーンフレークス(シュガー)という商品の位置づけは、大人の朝食ではなく子どもの朝食向けだったように思う。
少なくとも、コーヒーを飲みながらコーンフレークス(シュガー)に牛乳をがけを食べて出勤する、という方はあまり多くはなかったのではないだろうか?

確かに、米国でのシリアル市場におけるケロッグのブランド力は、とても力強いものがあると思う。
最近の米国でのシリアル市場そのものは不明だが、20代の頃に行った米国のスーパーでは「シリアル=ケロッグ」というほど、圧倒的な売り場面積を占めていた。
一度の買い物でも、複数の種類のケロッグ商品を購入する人も多かったように思う。
何故なら、子ども用、大人用と使い分けていたからだ。
しかし、日本の市場ではそこまでの種類を販売していなかった、という記憶がある。
日本人の健康志向の高まりによって登場した「小麦胚芽シリアル(商品名:オールブラン)」が、日本で発売されるようになったのは、随分後だったような記憶がある。

この健康志向を受けて登場した「小麦胚芽シリアル」だったが、当時の日本では「朝食=シリアル」という生活スタイルが定着していなかったことと、それまで子ども向けと思われていたコーンフレークスに新しい機能(=栄養価+食物繊維)というベネフィットを加えたものの、「どうしたら美味しく食べられるのか?」という、提案がCMなどではなかったような気がする。
日本スナック・シリアルフーズ協会によると、平成16年度では「コーンフレークス(シュガー)」の売り上げが圧倒的だった。
それが平成26年度になると、「コーンフレークス(シュガー)」そのものは、平成16年度とさほど変わらないのに対して、「グラノーラ」が飛躍的に伸びている。
日本スナック・シリアルフーズ協会:出荷実績の推移(会員合計)(注意:PDFファイル)

注目すべきは、平成25年度から平成26年度の「グラノーラ」の飛躍的な伸びだ。
前年度の倍とは言わないまでも、相当な伸びを示している。
うろ覚えで申しわけないのだが、この頃に登場したのが「フルグラ」という名称で登場した、カルビーのシリアルだったような気がする。
この「フルグラ」の登場によって、一気に「(朝食で(大人も)食べるシリアル」という一つのスタイルが、できたのではないだろうか?
そしてこの「フルグラ」にヒットにより、「グラノーラ=カルビー」というイメージも生まれたのではないだろうか?
もちろん、シリアルの老舗・ケロッグも同様の商品を発売しているのだが、「フルグラ」のブランド力には及ばないのでは?という印象すら持ってしまうほどの、大ヒットだったと思う。

今回の独占販売の業務提携解消は、ケロッグにとってプラスになるのだろうか?
今の「シリアル市場」を考えると、かつてのような「シリアル=ケロッグ」とは言い難いように思えるのだが・・・。





クローンビジネスといのち

2019-09-05 19:41:51 | アラカルト

AFPのサイトに「中国企業が、猫のクローン化に成功した」という、ニュースがあった。
AFP:中国企業、飼い猫のクローン化に初成功 次はパンダ?

このクローン猫の誕生の背景には、飼い主からの強い希望があった、という。
飼い主からクローン(=複製)したい!と思うほど、可愛がられた猫だったのだろう。
だが「可愛い」という理由で、クローン技術を使って動物を誕生させるのは、愛猫家としてどうなのだろう?

クローン技術で誕生した動物と言えば、羊のドリーを思い浮かべる方の多いだろう。
ドリーが誕生したのが1996年、病気や早老により安楽死をさせられたのが2003年だった。
ただ、ドリーと同様にクローン技術によって誕生した羊は、早老などが見られず今も元気だ、と言われている。
WIRED:クローン羊は、今でも元気に生きている

私たちは、生活を共にする動物であっても羊のような家畜とペットとでは、同じ感情ではない(と思う)。
愛猫家に限らず、ペットを「家族と同様」という方は数多くいらっしゃる。
しかし、家畜となると生活を共にしていながら「家族」ではなく、どこかで線引きをしているのでは?と、感じるのだ。
だからこそ、クローン羊のドリーが誕生した時の大騒ぎは、「クローン技術が夢物語ではなくなった」という驚きが、大きかったのではないだろうか?
ただ、「人が神の領域にまで踏み込んで良いのか?」という、議論も当時からあった。

しかし時代と共に「クローン技術」そのものは、植物の世界などでは一般的になり、動物においても様々な動物を対象に実験されるようになってきた。
「クローン技術」そのものが、ドリーが誕生した頃よりも一般的になった(=厳密性が揺らぎ、安価になった)、ということになるだろう。
10年、20年後には、亡くなったペットを「クローン技術」により、誕生させるビジネスが登場しているかもしれないし、そのようにして誕生させるペットを求める人もいるかもしれない。

だが、それで良いのだろうか?
上述したように「神の領域まで踏み込んだ」とも思える、クローン技術には常に「倫理観」というものが求められるはずだ。
単に「可愛かったペットをもう一度、飼いたい」というだけではなく、「生命体として存在してよいのか?」という問いかけだ。
もう一つ考える必要があるのは、「クローンペット」であっても、亡くなったペットとは同じではない、という点だ。

これは、先日出かけた「ゲノムとエピジェネティックス」の講話の中にもあったことだが、究極の「クローン」ともいえる「一卵性双生児」であっても、その性格や行動は違う。
同じDNAを持っていても、個体そのものに影響を与えると考えられているエピジェネティックス(あるいはエピゲノム)が違えば、違ってしまうのだ(という内容だった、理解している)。
クローン猫を依頼した愛猫家は、亡くなってしまった猫を大変大切にしていたのだろう。
だが、クローンで誕生した猫は、亡くなってしまった猫と姿かたちは似ていても、まったく別の個体である、ということなのだ。

様々な分野において、技術の進歩は目覚ましいものがある。
しかし今はその「進歩」を手放しで喜べる時代ではない。
昨日エントリした「DQ(良識指数)」というものが、強く求められる時代である、ということを私たちは知る必要があるように思う。



これから必要となっていく「知力」とは?

2019-09-04 15:21:17 | ライフスタイル

日経のコラム・COMEMOのコラムの中には、様々な雑誌などの媒体からのものがある。
その一つに、ハーバードビジネスレビューがある。
ビジネスパーソンであれば、読まれている方も多いのでは?と思う。
そのハーバードビジネスレビューあったコラムを、COMEMOでも紹介されていた。
ハーバードビジネスレビュー:リーダーにはIQとEQだけではなくDQが、必要である

IQとは、ご存じの方も多い「知能指数」と呼ばれる数値だ。
この数値が高ければ高いほど、知能が高いと言われている。
と言っても、発明家・エジソンのIQが高かったのか?と言えば、決してそうではないと言われている。
逆にヒットラーはIQが高く、150であったとも言われているようだ。
IQの高さがその人の「知的さ」を表す指標とはならない、ということから注目されるようになったのが、EQ(=心の知能指数」だ。
約20年ほど前に話題となり、私も「EQ」についての本を読んだのだが・・・内容を十分理解するには至っていない。
ただ、IQが生まれ持ったものだとすれば、EQは後天的な要素が高く、人を思いやる感情や想像する力といった能力のことを指している(と思う)のだが、その指標となるものが、ハッキリせず言葉だけが独り歩きをしてしまっている、というのが現状なのかもしれない。

そして新たに登場したのが、「DQ(良識指数)」ということのようだ。
確かに、昨今様々なところで問題とされている「モンスター〇〇」と呼ばれる人たちには、この「良識」というものが感じられない。
自分のエゴ丸出しで、自分の意見や考えが思うように通らないと、駄々っ子のように騒ぐような行動が見られる。
おそらくこのような行動をとるスタートとなっているのは「自分が正しい」という思い込みで、その思い込みが社会のルールとは大きく逸脱していようとも、関係が無いのだろう。
それが時には、ストーカー行為やDV(ドメスティックバイオレンス)、虐待やいじめにつながっていくのだが、本人は「正しい」と思い込んでいるがために、相手がどのように思い・嫌がり・困っているのか理解することができないでいる(ように思うのだ)。
EQとDQの両方が低いか、欠落しているのではないだろうか?

とはいうものの、DQに関して言うなら社会が利便性を追求し、高サービス化すればするだけ、DQそのものが低下するようになっているのでは?という、気もしている。
社会の発達が「DQ=良識」という意識を、低下させてしまっているのでは?ということなのだ。
何故なら、利便性を追求し、高サービス化すればするほど、人は考える必要が無くなる。
そして考えないことが、当たり前のようになり、高サービスを受けることが当然という状態に陥っていく。

「良識」の前には、「何が良いことなのか?良い行動とは何か?」ということを考えなくてはならない。
考えることによって「良識」という意識が、明確になり行動へとなるはずだ。
と同時に、AIと共存していかなくてはならなくなる社会では、「人らしい判断力」の柱となるのは、この「良識」なのでは?という、気がしている。
AIは蓄積されたデータから、現象や事象を判断することには長けているが、「何が(社会や顧客にとって)良いことなのか?」という判断は苦手だからだ。
以前話題になったMicrosoft社のAIが「虐殺や差別を支持」するようになった背景にあるのは、まさにAIが「良識」という判断ができない、ということを示したと思う。

もしかしたら、IQよりも優先されるのは「DQ=良識指数」なのかもしれない。


JASRACには、「ご祝儀」という発想はないらしい。

2019-09-03 20:05:16 | 徒然

今日のYahoo!のトピックスでも取り上げられている「JASRACの結婚式における包括使用料」。
Impress Watch:JASRAC、結婚式披露宴での楽曲複製に包括使用料を試験導入

このニュースがYahoo!のトピックスで取り上げられてから、ヤフコメには音楽教室の時よりも多くの非難のコメントが書き込まれている。
その多くは、「結婚式に流す曲まで15,000円というお金を徴収するのか?!」とか「もともとの音源を購入したうえで披露宴用まで徴収するというのは、二重取りではないのか?」などの内容だ。

このコトに対して、JASRAC側はHuffpostのインタビューに答えている。
Huffpost:JASRACが結婚式の「包括使用料」を発表して、ネット騒然。その実態は?

これまでも、結婚式場の生演奏には「著作料」を支払うことになっていたようだ。
確かに、営利目的と言えば式場の費用の中に含まれる(はずな)ので、営利目的と言えない訳ではない。
と言っても、全曲流すわけではなく一部の使用だと思うのだが、生演奏なので徴収の対象となるのだろう。

そして今回は、「披露宴の演出で使う(多くの場合、新郎新婦の思い出の曲だったりする)複製音源に対しても、徴収する」ということのようだ。
Huffpostの記事を読むと、既に前からこのような話し合いがされていた、ということのようだ。

結婚式の披露宴に出席するということも無くなり、今の披露宴事情というのは知らないが、このような複製音源にまで著作権を徴収する、というのはどうなのだろう?
ヤフコメにもある通り、使用するためにCDなどを購入し、新郎新婦がオリジナルで複製・編集をした場合、確かに楽曲の一部は使用しているにしても、全体からすれば「オリジナル複製・編集」ということになるのではないだろうか?
そもそもCDを購入した時点で、使用する楽曲に対しての著作権料は支払っている。
著作権料の二重取りでは?という指摘に対して、JASRACはどうこたえるのだろうか?
「例え一部であっても、使用していることには変わりない」と、突っぱねるつもりだろうか?

「音楽教室」の時にも感じたことなのだが、JASRACの行っていることは「著作権」という権利ばかりを主張して、徴収することに躍起になっているが、本当にその行為が音楽振興につながっているのだろうか?
音楽で社会や文化が豊かになり、それらの音楽を創り出している人たちにキチンと還元できているのだろうか?

以前のように結婚式場主導の演出の披露宴から、新郎新婦が主体となった披露宴へと変わりつつある、と聞いている。
とすれば、新郎新婦の想いの詰まった「オリジナル編集複製」であれば、ご祝儀として欲しいと思うのだ。


ITと学校

2019-09-01 21:28:01 | 徒然

実家に帰省して、名古屋に帰る高速バスの車窓から見るある光景に、「地域と学校、教育って何だろう?」と考えることがある。
その光景とは、2,3年前に廃校になった小学校だ。
廃校になった小学校の窓には「〇〇小学校、ありがとう」という横断幕が、掲げてある。
横断幕があまり傷んだように見えないのは、窓の内側に掲げてあるためだろう。
100年以上の歴史を持つ小学校の廃校というのは、地域の人たちにとってどんな思いだったのだろう?と、想像するのと同時に廃校になったことで地域の高齢化が一層進んだのでは?という、気がしている。

理由を改めて述べなくてもお分かりになると思う。
学区にいた子供たちが、バスなどを使って統合されたであろう小学校に通うようになるため、廃校を機にその地域を離れた子育て世代の方々もいたのでは?ということなのだ。
「子どもたちがいなくなる」ということは、子どもたちを育てている現役世代の両親もその地域を離れる、ということにつながり、それが地域の高齢化を一層促す結果となる。
それが、より地域の活力を減らし、ますます高齢化や過疎化に拍車がかかる、という「スパイラル」が起きてくる、と考えられるからだ。

確かに、全学年を合わせても数人程度では、学校として運営していくのは難しいだろう。
新入生を迎え入れることができない、ということになれば、当然廃校ということになってしまうのもわかる。
分かるのだが、今の時代ITなどを積極的に活用して、へき地(という表現はあまり好きではないが)の学校の教育サポートという方法はできないだろうか?
というのも、過疎化による廃校だけではなく、小児がんなどの治療により長期入院・治療が必要な子供たちがいる。
そのような病気治療をしている子どもたちの多くは、友達のいる学校から「院内学級」という病院内にある分校で、勉強をすることになる。
その「院内学級」を持っている病院が、とても少ないのだ。
院内学級があったとしても、小学生までとい制約がある場合もある。

「学ぶ機会」そのものに制約がされる、というのは子供たちにとって大きなストレスとなっているのでは?という気がしたのだ。
何より「院内学級」で学ぶ子供たちは、自身が重い病気と向き合っている。
仲の良い友達と離れ、独り病気と闘いながら勉強をする、という環境は本当に子供たちにとってプラスなのだろうか?と(実は、私が乳がんの経過観察の為に通院している病院にも「院内学級」があり、院内学級の生徒さんかな?と思われる子どもさんと会うことが何度かあった)。

今のようにITが自由に使えるような時代であれば、サポート教員とタブレットなどを通した授業ができるのでは?と、思ったのだ。
それだけではなく、不登校になっている子どもたちのサポートにも「ITを利用した教育プログラム」は活用できるのでは、ないだろうか?
不登校になる理由は様々だと思うのだが、不登校になることで授業についていけなくなり、それがより学校へ行くという気持ちを失くしてしまうのでは?

「辛かったら、学校は一休みしてもいいよ。でも勉強は続けようよ。誰かの為ではなく自分の人生を切り開く為に」という呼びかけと共に、サポートをするITプログラムがあっても良いのでは?
このようなITプログラムなら廃校寸前の状況でも、病気と闘いながらでも、一時期的な不登校状態になったとしても、地元の学校で学ぶことができるのでは?と、思うだ。