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「蓮花寺」は、飛鳥時代に聖徳太子により寺号を「法隆寺」と称して建立されたといい、釈迦如来と来迎の阿弥陀如来の二尊を御本尊として祀るとされます。
「法隆寺」は1276年に落雷によって焼失したとされますが、1284年に一向上人に帰依する鎌刃城主土肥元頼によって堂宇を再建。
再興の際には「法隆寺」から「八葉山 蓮華寺」と号して、時宗一向派大本山の念仏道場として隆盛を極めたとされます。(1947年以降は浄土宗に改宗)
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「蓮華寺」は歴代天皇の帰依が厚く、花園天皇より勅願寺院としての勅許を賜り、寺門として菊の紋を下賜されたといいます。
そのため寺院には勅使門(御中雀門)には「十六葉八重表菊紋」と「五七桐」となっており、皇室とのつながりが見て取れる。
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鐘楼に吊るされた梵鐘(銅鐘)は弘安7年(1284年)の銘があるといい、畜能・畜生の2僧の勧請によって完成したとされます。
畜能・畜生とは凄い名前の僧がいたものだと驚きますが、梵鐘(銅鐘)は国の重要文化財の指定を受けています。
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本堂を前にした境内には「聖徳太子 叡願の紅梅」や桜・百日紅などの古木が多く、花の季節にはさぞや華やかな境内になるのかと思います。
寺院に人は不在でしたので本堂内には入れませんでしたが、堂内には鎌倉期の「釈迦如来立像」と「阿弥陀如来立像」が京都の二尊院のように並んで祀られているようです。
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本堂には、後水尾天皇御宸筆(元禄11年(1698年)の寺号額が掛けられ、その下には勅使門と同様に「十六菊紋」と「五七桐」が掛けられています。
皇室ゆかりの勅願寺としての趣きが感じられますが、「蓮華寺」には血に塗られた歴史もあるようです。
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時は元弘3年(1333年)鎌倉時代最末期の事。
京都六波羅探題を攻め落とされた六波羅探題北方の北条仲時は、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、南朝軍の重囲に陥って蓮華寺で自刃したといいます。
自刃したのは北条仲時以下従士432名で、本堂前庭でのことだったといいます。
前庭からは432名の鮮血が滴り流れて川の如しとされ、「血の川」となったと伝えられているようです。
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寺院には北条仲時と従士たちの五輪塔が祀られているといい、過去帳は「紙本墨書陸波羅南北過去帳」として重要文化財にしていされて宝物館に収蔵されているといいます。
本堂の横には蓮華寺の再建を果たした鎌刃城主 土肥元頼の墓とされる石造宝篋印塔があります。
ただし、銘文等は確認できず、時代ももう少し新しいものかも知れないということで、「伝」の域は出ないとの説もあるようです。
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さて、前段が長くなってしまいましたが、「蓮花寺の一向杉」へと向かいます。
本堂の裏へ回り込むとすぐにその姿が見えてきますが、何とも荒々しい姿をしたスギです。
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見方によっては両手を広げて行く手を阻んでいるようにも、迎え入れようとしている姿にも見えます。
幹周は約5.5m、樹高は30.7mで樹齢はなんと推定700年。
1287年に亡くなられた一向俊聖上人を荼毘に付した地にスギを植樹したものだと伝えられているといいます。
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枝は何本か伸びていますが、そのうちの1本は分岐した後、上方へと伸びこの樹の個性となっています。
まさに右腕を突き上げているかのような力強さです。
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樹の日当たりの悪い方へ回り込むと、幹に苔が生えてまた一味違った印象を受けることになります。
巨樹の面白い所は、各角度でいろいろな表情を見せてくれますので、いつも周囲を可能な限りグルグルと回ることになる。
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一向杉の横には聞きなれぬ「貝多羅樹(バイタラジュ)」の樹がありました。
貝多羅樹は印度の香木で春に花が咲き、秋には紅色の実が鈴なりに付くとされています。
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「蓮花寺の一向杉」と「貝多羅樹」の向かい側には「忠太郎地蔵尊」が祀られていて、番場忠太郎ゆかりの地蔵尊となっていました。
番場忠太郎は名前は聞くもののよく分からない人でしたが、戯曲『瞼の母』の登場人物だったようで、江州の番場宿生まれ、やくざ渡世の忠太郎が5歳で分かれた母を探して旅をして云々ということらしい。
話は変わりますが、最近は旧街道沿いの宿場町を通ると取り合えず周囲を探してみたりします。
道中には「番場宿碑」がありますが、名神高速道路の雑音以外は静かな街並みでかつての宿場町の面影はあまりありません。
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歌川広重「木曽海道六拾九次之内 畨場」
「番場宿碑」から国道に向かって移動すると、「久禮(くれ)の一里塚跡」があります。
中山道の117番目の一里塚は、江戸日本橋から117里、京都三条まで19里。
今ならここから京都三条までは車で一時間ほどですが、当時の旅人はこの一里塚で一息入れて体を休めたのでしょう。
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「蓮花寺」は一向杉の他にも見所が多く、あれもこれもと見て回ることになりました。
次回の参拝は本堂が開いていて花盛りの頃。随分と印象が変わることでしょう。
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