「早尾神社」の裏山には幾つかの巨岩と聳え立つように大きな「千石岩」があり、その巨岩群はかつての早尾神社の磐座だったのであろうと感じる神奈備の山でした。
山麓に祀られる「早尾神社」は、今から1200年前に坂本日吉七社の早尾大神を分霊して、不動像を刻み三井寺の守護神として建立されたという。
御祭神には「武速素盞鳴命」と「 猿田彦命」をお祀りし、境内社には「八幡神社」「 蛭子神社」「 児太友社」、参道の横には「稲荷神社」が祀られている。
しかし、「早尾神社」も山門派(比叡山延暦寺)と寺門派(三井寺)の対立により、幾度となく灰燼に帰したとされます。
参道の横には細長い石柱のような「板碑石仏」があり、高さが3m近くある。
阿弥陀坐像が彫られているというこの石碑は一説には鎌倉期のものだとも言われており、滋賀では見られる場所の限られている板碑の中でもかなり特徴のある板碑のように思います。
板碑は、中世に盛んに作られたとされる供養塔で、主に関東地方で盛んに造られたといいます。
阿弥陀如来坐像も風化の跡はみられるが、その姿ははっきりと残っており、神社の参道に祀られているのが不思議にも思える。
早尾神社は三井寺由来の鎮守神の神社ですから、神仏習合の名残りが残っているのでしょう。
現在の社殿は昭和57年に建て替えられたものといい、回廊の中には中央に本殿、左に児大友社・右に蛭子社と八幡社の社殿が並ぶ。
境内社の「児大友社」は、飛鳥時代の豪族で園城寺(三井寺)の開基とされる大友与多王を祀る神社で、大友与多王は壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子だとされています。
わずか5年で廃都となった近江大津京の物語が偲ばれます。
大津京の時代には「崇福廃寺」「南滋賀町廃寺」「穴太廃寺」「園城寺の前身となる寺院跡」があったといい、渡来人による大陸の新しい文化が受け入れられていた地域とされます。
寺院群は遥か昔に廃寺となってしまいましたが、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)や早尾神社や山上不動堂は今も信仰が続いている。
「早尾神社」の参道を谷のような場所に降りていくと「山上不動堂(山上浪切不動尊)があり、密教あるいは修験道の修行場特有の厳粛な空気が漂う。
「山上不動堂」は、園城寺(三井寺)の祖とされる智証大師・円珍によって開かれた御堂だとされ、不動明王の摩崖仏を本尊として祀るという。
御堂の下には山から引き込んだ水が落ちる水行の行場があり、水を手で受けてみると冷たいのは当然としても想像以上に勢いのある水量でした。
密教や修験道の水行の場の特有の緊迫した空気感は、場所自体が持つ力なのか、千年前の昔からここで繰り返し修行した人々が放ったエネルギーの蓄積なのか。
水行の場の最奥には「不動明王石仏」と眷属の「制吒迦童子」と「矜羯羅童子」が祀られています。
「不動明王」は大日如来の化身ともされ、迷いの世界から煩悩を断ち切るよう導いてくれる仏で、滝行や修験の場でお会いすることが多い。
水行の行場の上には懸造りの不動堂があり、早尾神社へと続く参道に沿って組まれた3段の石段には奉納されたと思われる石碑が並びます。
行場の前の広場のような場所には井戸と思われるものがあり、三井寺との深いつながりを伺わせる。
不動堂内には護摩壇があり、奥には御簾が掛けられた奥に不動明王摩崖仏が祀られているようです。
「山上不動堂」も寺門派(三井寺)と山門派(比叡山延暦寺)との法脈の違いから幾度となく焼き討ちにあい、千余戸も消失したこともあったといいます。
その供養のため、仁治三年(1243年)に不動明王の摩崖仏が開眼供養され、今も修験道の山伏姿で勇壮な法要が営まれているといいます。
不動明王摩崖仏は御簾の中に祀られているため、その姿を確認することは出来ませんが、不動堂内には写真が置かれているため姿を伺い見ることができる。
公開されている写真を見ると、不動明王立像の横には眷属の二童子も彫られているようである。
この山麓には山中に聳え立つ「千石岩」や巨石群があり、麓には鎌倉期の作とされる背の高い「板碑石仏」のある早尾神社。
厳粛な空気の漂う山上不動堂には「摩崖不動仏」と、修験道や密教・神の世界が広がります。
山麓に祀られる「早尾神社」は、今から1200年前に坂本日吉七社の早尾大神を分霊して、不動像を刻み三井寺の守護神として建立されたという。
御祭神には「武速素盞鳴命」と「 猿田彦命」をお祀りし、境内社には「八幡神社」「 蛭子神社」「 児太友社」、参道の横には「稲荷神社」が祀られている。
しかし、「早尾神社」も山門派(比叡山延暦寺)と寺門派(三井寺)の対立により、幾度となく灰燼に帰したとされます。
参道の横には細長い石柱のような「板碑石仏」があり、高さが3m近くある。
阿弥陀坐像が彫られているというこの石碑は一説には鎌倉期のものだとも言われており、滋賀では見られる場所の限られている板碑の中でもかなり特徴のある板碑のように思います。
板碑は、中世に盛んに作られたとされる供養塔で、主に関東地方で盛んに造られたといいます。
阿弥陀如来坐像も風化の跡はみられるが、その姿ははっきりと残っており、神社の参道に祀られているのが不思議にも思える。
早尾神社は三井寺由来の鎮守神の神社ですから、神仏習合の名残りが残っているのでしょう。
現在の社殿は昭和57年に建て替えられたものといい、回廊の中には中央に本殿、左に児大友社・右に蛭子社と八幡社の社殿が並ぶ。
境内社の「児大友社」は、飛鳥時代の豪族で園城寺(三井寺)の開基とされる大友与多王を祀る神社で、大友与多王は壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子だとされています。
わずか5年で廃都となった近江大津京の物語が偲ばれます。
大津京の時代には「崇福廃寺」「南滋賀町廃寺」「穴太廃寺」「園城寺の前身となる寺院跡」があったといい、渡来人による大陸の新しい文化が受け入れられていた地域とされます。
寺院群は遥か昔に廃寺となってしまいましたが、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)や早尾神社や山上不動堂は今も信仰が続いている。
「早尾神社」の参道を谷のような場所に降りていくと「山上不動堂(山上浪切不動尊)があり、密教あるいは修験道の修行場特有の厳粛な空気が漂う。
「山上不動堂」は、園城寺(三井寺)の祖とされる智証大師・円珍によって開かれた御堂だとされ、不動明王の摩崖仏を本尊として祀るという。
御堂の下には山から引き込んだ水が落ちる水行の行場があり、水を手で受けてみると冷たいのは当然としても想像以上に勢いのある水量でした。
密教や修験道の水行の場の特有の緊迫した空気感は、場所自体が持つ力なのか、千年前の昔からここで繰り返し修行した人々が放ったエネルギーの蓄積なのか。
水行の場の最奥には「不動明王石仏」と眷属の「制吒迦童子」と「矜羯羅童子」が祀られています。
「不動明王」は大日如来の化身ともされ、迷いの世界から煩悩を断ち切るよう導いてくれる仏で、滝行や修験の場でお会いすることが多い。
水行の行場の上には懸造りの不動堂があり、早尾神社へと続く参道に沿って組まれた3段の石段には奉納されたと思われる石碑が並びます。
行場の前の広場のような場所には井戸と思われるものがあり、三井寺との深いつながりを伺わせる。
不動堂内には護摩壇があり、奥には御簾が掛けられた奥に不動明王摩崖仏が祀られているようです。
「山上不動堂」も寺門派(三井寺)と山門派(比叡山延暦寺)との法脈の違いから幾度となく焼き討ちにあい、千余戸も消失したこともあったといいます。
その供養のため、仁治三年(1243年)に不動明王の摩崖仏が開眼供養され、今も修験道の山伏姿で勇壮な法要が営まれているといいます。
不動明王摩崖仏は御簾の中に祀られているため、その姿を確認することは出来ませんが、不動堂内には写真が置かれているため姿を伺い見ることができる。
公開されている写真を見ると、不動明王立像の横には眷属の二童子も彫られているようである。
この山麓には山中に聳え立つ「千石岩」や巨石群があり、麓には鎌倉期の作とされる背の高い「板碑石仏」のある早尾神社。
厳粛な空気の漂う山上不動堂には「摩崖不動仏」と、修験道や密教・神の世界が広がります。
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