高時川は、滋賀県と福井県の県境にある栃ノ木峠を起点として始まり、余呉町の丹生谷を通り、びわ町辺りで姉川と合流して琵琶湖に注ぎ込む1級河川になります。
丹生谷では「丹生川」という呼び方をされ、その上流部ではかつて「丹生ダム」の建設計画があったようです。(丹生ダムは2005年に建設計画を中止)
現在では余呉町の最奥集落となった「菅並集落」から「上丹生集落」へ向けて南下すると「よしのべ地蔵」の祠が祀られている。
旧道しかなかった時代は、中之郷と丹生谷、丹生ダム建設計画で廃村集落となった集落を結ぶ街道の道中無事を見守る地蔵さんだったのでしょう。
「菅並集落」を出て最初にある集落は「摺墨集落」で、「するすみ」と読む何かいわくありげな集落なです。
“「伊香郡誌」には、「1183年、木曾義仲が京都を奪ったとき、摂政藤原基通は摺見村(摺墨)の水上神社に武運長久を祈り名馬「摺墨」を得て源頼朝に献上したと云う。”
“また、源頼朝が宇治川合戦の際、家臣梶原景季に与えた名馬摺墨(磨墨)は摺墨村の産というとある。”と記載されているといい、馬と縁のある集落だったようです。
集落の案内板の横には「七々頭ヶ嶽観音堂」の石標が立ちます。
七々頭ヶ嶽観音堂は、七々頭ヶ岳(標高603m)の頂上にある観音堂(西林寺 観音堂)だとされ、「江州伊香三十三ヶ所観音霊場」の札所となっています。
「伊香三十三ヶ所観音霊場」の霊場は、「観音の里ふるさとまつり」や「丹生谷文化財フェスタ」、あるいは個人で訪れていますが、「西林寺 観音堂」は最難関の札所のように思える。
集落の入口にあるのは「旧丹生小学校」の校舎と運動場。
こういう木造の校舎ってなんか懐かしい感じがしますが、実際に通っていた小学校が木造校舎だったかどうかは記憶は不鮮明です。
「摺墨集落」と「上丹生集落」の境が分からないまま、上丹生集落に入ってしまいます。
「丹生」は一般的には水銀の原料のことですから、「丹生」と地名が付いたこの地は丹生の鉱床が採掘されていた地かと思われます。
余呉に「上丹生」「下丹生」「丹生川」があるように、米原市の醒ヶ井から霊仙山方向にある集落にも「上丹生」「下丹生」「丹生川」があり、湖北地方と丹生の関係は深そうです。
ところで、余呉町には「丹生神社」が2カ所あり、一カ所は上丹生・もう一カ所は下丹生にある。
道路沿いに「丹生神社」の石標があり、山麓にある「上丹生神社」へと向かいます。
余呉の神社には鳥居があってその奥に鬱蒼とスギが茂る神社が多く、どの集落にも立派な社がある。
御祭神は「彌都波能賣命」と「丹生都比賣命」の2柱で、社伝によると“天武天皇の御代に丹生真人がこの地を拓き、丹保野山に神籬を設け、山土と丹生川の水を供え、天津神を祀った。”と伝わる。
ここに登場する「息長丹生真人」は坂田郡(現在の米原市)を治めていた古代豪族の一族で、米原市には息長丹生真人一族の墳墓と考えられている6世紀後半の円墳が残る。
また米原市には敏達天皇の皇后「息長広姫」の御陵が今も残り、湖北地方で息長氏の勢力が丹生を求めて山に入り鉱脈を探していたことが伺われます。
灯籠がズラリと並ぶ石段を登ると想像していた以上の広い境内に出ます。
拝殿の裏側を回り込んだ最奥の一段高くなったところに「丹生神社」の本殿がありますが、前方はスギが並び後方には山が迫る、神秘的な空気感のある本殿です。
山麓の集落に祀られる神社に参拝すると、ある種の怖さや畏怖する気持ちを感じてしまいますが、やはり神とは畏れるものなのかもしれない。
上丹生集落の「丹生神社」の参拝を終えた後は、下丹生集落の「丹生神社」へ足を運びます。
下丹生神社も山を背にして森に囲まれた神社ですが、採光がいいため明るい感じのする神社です。
御祭神は「高靇神」と「丹生都姫命」で、上丹生神社の「丹生都比賣命」と下丹生神社の「丹生都姫命」は同じ神となります。
丹生都姫命は、丹生などの鉱物資源採取を行った丹生氏の奉じた神の別称「丹生明神」を指すという。
「高靇神」は水を司る神で雨乞いの神、山に降る雨を司る龍神ともされ、京都の貴船神社の本宮と奥宮の御祭神でもある。
上丹生・下丹生ともに水の神と丹生の神をお祀りしており、高時川の洪水や渇水に悩まされながら、鉱脈を求めたこの地における歴史観が垣間見えます。
本殿は山にとけ込むかのようにひっそりと祀られていて、拝所の玉垣の前にはかつての御神木だったかと思われる大きな切り株がある。
この樹は枯死したのか倒壊したあるいは伐られたのかは分かりませんが、近年は大型台風などで御神木が倒れて本殿や拝殿などに被害を及ぼすことがあり、御神木も受難の時代になってきています。
境内にはケヤキの樹が堂々として立っています。
しかし、境内下の低いところから見上げると、大きな洞が開いていて痛々しい姿でもありあました。
境内には祭場のような場所があり、一番上に祀られた石を見てみるも何も彫られていなかった。
祭場なのか墓のようなものか分かりませんでしたが、何かいわくのあるものなのかと思います。
下丹生神社の境内社は「蛭子神社」と「稲荷神社」で拝殿・本殿の左側にひっそりと祀られている。
「丹生神社」と隣接する「西蓮寺」にも「稲荷堂」と「大師堂」が祀られており、集落の信仰心の篤さが感じられます。
神社の参拝を終えての帰り道。村はずれまで来ると独特の枝ぶりのケヤキがありました。
祠や標示などはありませんでしたが、この樹は下丹生集落の野神さんではないでしょうか。
2本に分岐した枝は上部へ行くと更に分岐しており、幹周は5.2m・樹高は16mあるという。
湖北ではケヤキやスギを野神さんとして祀る集落が多く、余呉町にも何本かケヤキの野神さんがあります。
丹生や菅並の辺りにも愛宕神社の神を祀る「菅並のケヤキ」や、かつて存在したが枯死してなくなった「上丹生のケヤキ」、そしてこの「下丹生のケヤキ」と巨樹のケヤキがあった。
元々湖北地方にはケヤキが多かったのかもしれませんが、ケヤキは幹が分岐して樹幹が大きく広がっていくことが多いので、そこに何か宿るものを感じてしまうということもあったのかと思います。
丹生谷では「丹生川」という呼び方をされ、その上流部ではかつて「丹生ダム」の建設計画があったようです。(丹生ダムは2005年に建設計画を中止)
現在では余呉町の最奥集落となった「菅並集落」から「上丹生集落」へ向けて南下すると「よしのべ地蔵」の祠が祀られている。
旧道しかなかった時代は、中之郷と丹生谷、丹生ダム建設計画で廃村集落となった集落を結ぶ街道の道中無事を見守る地蔵さんだったのでしょう。
「菅並集落」を出て最初にある集落は「摺墨集落」で、「するすみ」と読む何かいわくありげな集落なです。
“「伊香郡誌」には、「1183年、木曾義仲が京都を奪ったとき、摂政藤原基通は摺見村(摺墨)の水上神社に武運長久を祈り名馬「摺墨」を得て源頼朝に献上したと云う。”
“また、源頼朝が宇治川合戦の際、家臣梶原景季に与えた名馬摺墨(磨墨)は摺墨村の産というとある。”と記載されているといい、馬と縁のある集落だったようです。
集落の案内板の横には「七々頭ヶ嶽観音堂」の石標が立ちます。
七々頭ヶ嶽観音堂は、七々頭ヶ岳(標高603m)の頂上にある観音堂(西林寺 観音堂)だとされ、「江州伊香三十三ヶ所観音霊場」の札所となっています。
「伊香三十三ヶ所観音霊場」の霊場は、「観音の里ふるさとまつり」や「丹生谷文化財フェスタ」、あるいは個人で訪れていますが、「西林寺 観音堂」は最難関の札所のように思える。
集落の入口にあるのは「旧丹生小学校」の校舎と運動場。
こういう木造の校舎ってなんか懐かしい感じがしますが、実際に通っていた小学校が木造校舎だったかどうかは記憶は不鮮明です。
「摺墨集落」と「上丹生集落」の境が分からないまま、上丹生集落に入ってしまいます。
「丹生」は一般的には水銀の原料のことですから、「丹生」と地名が付いたこの地は丹生の鉱床が採掘されていた地かと思われます。
余呉に「上丹生」「下丹生」「丹生川」があるように、米原市の醒ヶ井から霊仙山方向にある集落にも「上丹生」「下丹生」「丹生川」があり、湖北地方と丹生の関係は深そうです。
ところで、余呉町には「丹生神社」が2カ所あり、一カ所は上丹生・もう一カ所は下丹生にある。
道路沿いに「丹生神社」の石標があり、山麓にある「上丹生神社」へと向かいます。
余呉の神社には鳥居があってその奥に鬱蒼とスギが茂る神社が多く、どの集落にも立派な社がある。
御祭神は「彌都波能賣命」と「丹生都比賣命」の2柱で、社伝によると“天武天皇の御代に丹生真人がこの地を拓き、丹保野山に神籬を設け、山土と丹生川の水を供え、天津神を祀った。”と伝わる。
ここに登場する「息長丹生真人」は坂田郡(現在の米原市)を治めていた古代豪族の一族で、米原市には息長丹生真人一族の墳墓と考えられている6世紀後半の円墳が残る。
また米原市には敏達天皇の皇后「息長広姫」の御陵が今も残り、湖北地方で息長氏の勢力が丹生を求めて山に入り鉱脈を探していたことが伺われます。
灯籠がズラリと並ぶ石段を登ると想像していた以上の広い境内に出ます。
拝殿の裏側を回り込んだ最奥の一段高くなったところに「丹生神社」の本殿がありますが、前方はスギが並び後方には山が迫る、神秘的な空気感のある本殿です。
山麓の集落に祀られる神社に参拝すると、ある種の怖さや畏怖する気持ちを感じてしまいますが、やはり神とは畏れるものなのかもしれない。
上丹生集落の「丹生神社」の参拝を終えた後は、下丹生集落の「丹生神社」へ足を運びます。
下丹生神社も山を背にして森に囲まれた神社ですが、採光がいいため明るい感じのする神社です。
御祭神は「高靇神」と「丹生都姫命」で、上丹生神社の「丹生都比賣命」と下丹生神社の「丹生都姫命」は同じ神となります。
丹生都姫命は、丹生などの鉱物資源採取を行った丹生氏の奉じた神の別称「丹生明神」を指すという。
「高靇神」は水を司る神で雨乞いの神、山に降る雨を司る龍神ともされ、京都の貴船神社の本宮と奥宮の御祭神でもある。
上丹生・下丹生ともに水の神と丹生の神をお祀りしており、高時川の洪水や渇水に悩まされながら、鉱脈を求めたこの地における歴史観が垣間見えます。
本殿は山にとけ込むかのようにひっそりと祀られていて、拝所の玉垣の前にはかつての御神木だったかと思われる大きな切り株がある。
この樹は枯死したのか倒壊したあるいは伐られたのかは分かりませんが、近年は大型台風などで御神木が倒れて本殿や拝殿などに被害を及ぼすことがあり、御神木も受難の時代になってきています。
境内にはケヤキの樹が堂々として立っています。
しかし、境内下の低いところから見上げると、大きな洞が開いていて痛々しい姿でもありあました。
境内には祭場のような場所があり、一番上に祀られた石を見てみるも何も彫られていなかった。
祭場なのか墓のようなものか分かりませんでしたが、何かいわくのあるものなのかと思います。
下丹生神社の境内社は「蛭子神社」と「稲荷神社」で拝殿・本殿の左側にひっそりと祀られている。
「丹生神社」と隣接する「西蓮寺」にも「稲荷堂」と「大師堂」が祀られており、集落の信仰心の篤さが感じられます。
神社の参拝を終えての帰り道。村はずれまで来ると独特の枝ぶりのケヤキがありました。
祠や標示などはありませんでしたが、この樹は下丹生集落の野神さんではないでしょうか。
2本に分岐した枝は上部へ行くと更に分岐しており、幹周は5.2m・樹高は16mあるという。
湖北ではケヤキやスギを野神さんとして祀る集落が多く、余呉町にも何本かケヤキの野神さんがあります。
丹生や菅並の辺りにも愛宕神社の神を祀る「菅並のケヤキ」や、かつて存在したが枯死してなくなった「上丹生のケヤキ」、そしてこの「下丹生のケヤキ」と巨樹のケヤキがあった。
元々湖北地方にはケヤキが多かったのかもしれませんが、ケヤキは幹が分岐して樹幹が大きく広がっていくことが多いので、そこに何か宿るものを感じてしまうということもあったのかと思います。
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