余呉町の「文室集落」は余呉町の西の最奥になり、山の向こう側は西浅井町の塩津あたりになる奥まった場所にある集落で、なだらかな傾斜に作られた田園地帯は、国安集落や東野集落へと続きます。
同じ余呉町でも北部の山村風景とは全く景色が異なり、こんな広い田園地帯があったのには少し驚きました。
集落は、傾斜をあがった山麓にあり、村内には100名足らずの人口とはいえ、生活感は感じられて人の姿にもたまに出会える過疎の印象の薄い集落です。
電車の経路からは遠く、バスは通っているものの本数は少なく、車がなければ買い物に行くのも不便そうではありますが、湖北にはそういう場所が多い。
集落の中を奥へと進むと神社の鳥居が見えてきました。
神社の前には「北野神社」と彫られた碑が立っており、菅原道真公を祀る神社であることを示している。
余呉町と菅原道真公の関りは深く、坂口集落から大箕山を登ったところには764年に孝謙天皇の勅命により建立された「菅山寺」が残り、道真公は6歳から11歳になる885年まで寺院にて勉学したと伝わります。
889年になると道真公は勅使として再び大箕山に入り、3院49坊を建立し、「大箕山菅山寺」と寺号を改めたという。
文室集落の「北野神社」は、坂口集落の「菅山寺」の守護神である天満宮の御分霊を勧請して創建されたといい、余呉と道真公に関する伝承が残る。
「北野神社」には皇族に関係する伝承もあり、それは“村上天皇の第四皇子である為平親王が「安和の変」によって都を追われ、諸国巡歴され天禄3年(972年)当地に安住され農耕の業に従事された”というもの。
不遇な人生を辿った皇族が、流れ着いて暮らしたという伝承をあちこちで聞きます。
京の都と滋賀は近いとはいえ、実際にそういうことが多かったのかどうかの確証はなく、伝承の域の場合もあるのかもしれません。
ただ、勝手に創作した話が各所に残っているとは思えず、何らかの形跡(エビデンス)があったのではと考えたくなります。
「北野神社」の鳥居から入ると、まず境内社があり、右奥に本殿がある配置になっています。
境内社は、前に祠が2つあり、奥に祀られた祠の前には「式内 蔵王権現 足前神社」の石標が建つ。
「蔵王権現」は、山嶽仏教である修験道の本尊とされますから、山麓の集落であるこの地で修験道が信仰されていたのか、山の神として信仰されてきたのか...。
余呉の神社の本殿は石垣の上の一段高いところに祀られていることが多い。
拝所の扉にある彫り物も手が込んでいて見事な細工となっています。
本殿の横には2本の樹があり、注連縄や御幣はかかっていないが、御神木なのかもしれません。
100年、200年後には巨樹に育っているかと思いますので何世代か後の人はこの樹を見て霊的なものを感じることがあるかもしれません。
境内には石造りの3つの祠があり、それぞれ「山の神」「野の神」「綾の神」と書かれています。
山の麓の集落で、且つ農村でもありますので「山の神」と「野の神」は分かりますが、「綾の神」とはなんぞや?
「大綾津日神」と関係があるとすれば、厄除けの守護神のような意味合いとなるが、分からず仕舞い。
この祠のすぐ後方には、かつて野神さんとして祀られていたであろう巨樹の切り株がある。
朽ちて倒れたように見えるが、この切り株のサイズからすると、かなりの巨樹であったことが伺われる。
さらに奥には山の神の祭場であったのではないかと思われる石積みがあった。
おそらく野神さんがなくなり、山の神も足場が悪いため、拝みやすい境内に祠が祀られたのではないかと思います。
ただし、探してみたけど「綾の神」についてはそれらしい場所はありませんでした。
余呉町の西の最奥にある文室集落から少し離れたところに流れる余呉川。
余呉川は上流域も中流域も琵琶湖に近い下流域もあまり姿が変わらないように見えますね。
同じ余呉町でも北部の山村風景とは全く景色が異なり、こんな広い田園地帯があったのには少し驚きました。
集落は、傾斜をあがった山麓にあり、村内には100名足らずの人口とはいえ、生活感は感じられて人の姿にもたまに出会える過疎の印象の薄い集落です。
電車の経路からは遠く、バスは通っているものの本数は少なく、車がなければ買い物に行くのも不便そうではありますが、湖北にはそういう場所が多い。
集落の中を奥へと進むと神社の鳥居が見えてきました。
神社の前には「北野神社」と彫られた碑が立っており、菅原道真公を祀る神社であることを示している。
余呉町と菅原道真公の関りは深く、坂口集落から大箕山を登ったところには764年に孝謙天皇の勅命により建立された「菅山寺」が残り、道真公は6歳から11歳になる885年まで寺院にて勉学したと伝わります。
889年になると道真公は勅使として再び大箕山に入り、3院49坊を建立し、「大箕山菅山寺」と寺号を改めたという。
文室集落の「北野神社」は、坂口集落の「菅山寺」の守護神である天満宮の御分霊を勧請して創建されたといい、余呉と道真公に関する伝承が残る。
「北野神社」には皇族に関係する伝承もあり、それは“村上天皇の第四皇子である為平親王が「安和の変」によって都を追われ、諸国巡歴され天禄3年(972年)当地に安住され農耕の業に従事された”というもの。
不遇な人生を辿った皇族が、流れ着いて暮らしたという伝承をあちこちで聞きます。
京の都と滋賀は近いとはいえ、実際にそういうことが多かったのかどうかの確証はなく、伝承の域の場合もあるのかもしれません。
ただ、勝手に創作した話が各所に残っているとは思えず、何らかの形跡(エビデンス)があったのではと考えたくなります。
「北野神社」の鳥居から入ると、まず境内社があり、右奥に本殿がある配置になっています。
境内社は、前に祠が2つあり、奥に祀られた祠の前には「式内 蔵王権現 足前神社」の石標が建つ。
「蔵王権現」は、山嶽仏教である修験道の本尊とされますから、山麓の集落であるこの地で修験道が信仰されていたのか、山の神として信仰されてきたのか...。
余呉の神社の本殿は石垣の上の一段高いところに祀られていることが多い。
拝所の扉にある彫り物も手が込んでいて見事な細工となっています。
本殿の横には2本の樹があり、注連縄や御幣はかかっていないが、御神木なのかもしれません。
100年、200年後には巨樹に育っているかと思いますので何世代か後の人はこの樹を見て霊的なものを感じることがあるかもしれません。
境内には石造りの3つの祠があり、それぞれ「山の神」「野の神」「綾の神」と書かれています。
山の麓の集落で、且つ農村でもありますので「山の神」と「野の神」は分かりますが、「綾の神」とはなんぞや?
「大綾津日神」と関係があるとすれば、厄除けの守護神のような意味合いとなるが、分からず仕舞い。
この祠のすぐ後方には、かつて野神さんとして祀られていたであろう巨樹の切り株がある。
朽ちて倒れたように見えるが、この切り株のサイズからすると、かなりの巨樹であったことが伺われる。
さらに奥には山の神の祭場であったのではないかと思われる石積みがあった。
おそらく野神さんがなくなり、山の神も足場が悪いため、拝みやすい境内に祠が祀られたのではないかと思います。
ただし、探してみたけど「綾の神」についてはそれらしい場所はありませんでした。
余呉町の西の最奥にある文室集落から少し離れたところに流れる余呉川。
余呉川は上流域も中流域も琵琶湖に近い下流域もあまり姿が変わらないように見えますね。
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