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“男のためのガーデニング”改め

「意冨布良神社」と「田神山観音寺」の紅葉~長浜市木之本町木之本~

2020-11-22 15:03:03 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市木之本町は、北国街道(京と越前を結ぶ街道)・北国脇往還(木之本から関ケ原以東への近道)が交差する場所にあったことから、江戸時代に宿場町「木之本宿」として栄えたといいます。
JR木之本駅から地蔵坂の石畳を歩いていくと突き当りに6mの地蔵仏が遠目にも目立つ「木之本地蔵院(浄信寺)」があり、町屋が軒を連ねる門前町には宿場町の風情が今も漂います。

「木之本地蔵」から北国街道を北上し、「木之本牛馬市跡」の辺りから大洞山の山麓へ向かうと「意冨布良(おほふら)神社」の鳥居が見えてきます。
意冨布良神社の紅葉は、イチョウは少し散ってしまったかなといった感じではあったものの、モミジやカエデの赤色は見頃を迎えており、一部の樹の下では赤の絨毯が見られる見応えのあるものでした。



意冨布良神社の草創は、天武天皇の時代・白鳳四年(676年)とされ、天智天皇の御代に設けられた「近江四祓所」(南:唐崎、西:白髭社、北:木之本、中:荒神山)の一社であったといいます。
裏山の大洞山は古来霊峰として神域視され、山麓一帯は里宮と呼ばれ、山腹には3社があったといいますが、現在は合祀神として意冨布良神社に祀られているようです。



意冨布良神社は古来より武家の信仰が厚かったといい、1182年には木曽義仲が上洛の途次祈願した、1351年 足利将軍八相山合戦の時に桃井若狭守直常が加護を祈ったとされます。
社殿は織田信長の小谷城攻略の時に焼失し、1583年の賤ケ岳の合戦の時にも再び兵火に遭遇。
1601年に豊臣秀頼が再興し、1676年には井伊玄蕃頭が奉拝したと伝わります。

紅葉は、現在の一之鳥居から参道を二之鳥居へ歩いて行った辺りが一番美しい。
イチョウの葉が残り僅かだったとはいえ、大洞山の緑は美しく、空は気持ちよい青色だったのは幸いでした。



神馬像の後方のモミジも真っ赤に色づいています。
この神社では夜間のライトアップをされてきたそうですが、夜の紅葉はさぞや幻想的な世界だったことでしょう。



石燈籠にかぶるように真っ赤なモミジの葉が拡がります。
境内には橙色の紅葉もありましたが、圧倒的に多いのは赤く色づくモミジでしょうか。





中に拝殿が見える三之鳥居の横にも真っ赤なモミジ。
意冨布良神社には鳥居が境内に何カ所もあります。



まず拝殿から参拝していきましたが、武将に崇敬されたとは思えないような穏やかな雰囲気のある神社です。
神社に参拝に来られたのは地元の方らしき方一人と宮司さんだけでしたので、静かで穏やかな時間をゆっくりと過ごせます。



御祭神は本社(名神)に「建速須佐之男命」と「梨迹臣命」を祀り、合祀神(相殿)に「大穴牟遅命」「猿田彦大神」「八意思兼神」を祀るとされます。
また、幾度もの戦災から逃れて相殿に鎮座されている「御神像」は、延喜時代(901~923年)の様式のものだと国の美術鑑定により鑑査状を受けているといいます。



摂社は右から「稲荷大明神」「豊栄神社(神明さん)」、末社の「田神山天満宮」「秋葉神社」と並び、それぞれに鳥居がある社となっている。
稲荷大明神の後方の山の裾野に石神が4神祀られており、〇〇大神とか〇〇龍神と彫られていたが、気になるのだけれど読み取れず。



境内には「武将兜掛石」が祀られており、これは木曽義仲が越後国より京へ出陣の途中、武運を祈って兵糧を神供し、祈願の際に兜を脱いで置いたといわれる「兜石」だといいます。
数々の歴史を残す意冨布良神社では「オコナイ」神事や神輿を担いで木之本地蔵院の門前町を練り歩く「秋葉祭」が行われるといいます。



さて、神社の境内つながりの場所には「田神山観音寺」があり、室町期の「聖観音菩薩立像」と平安期の「阿弥陀如来坐像」が祀られているといいます。
意冨布良神社の宮司さんに聞くと、同じ境内にはあるがつながりはなく、観音寺は無住の寺院のため地元の方が管理されているとおっしゃっていました。



方丈池から観音堂に向かうと参道に聖観音菩薩が祀られ、石段の先に観音堂が見える。
神社と寺院は横並びのほぼ場所にありますが、観音寺の方が落葉は少し早いのか、、地面に落ちた赤い葉が目立ちます。



五層塔の横に玉垣があり奥に見えるのは神社の拝殿ですから、まさに神社と観音寺は隣り合わせ。
湖北には神社と観音堂が並ぶ事が多々ありますから、かつては神仏習合で祀っていたのかもしれません。



鐘楼の鐘は自由に撞いてもよいようでしたので「施無畏」と書かれた扁額のある鐘を撞かせていただきました。
「施無畏」とは「何ものをも畏れない力を与えること」「色々の畏れを取り去って救うこと」「安心させること」の意であるといいます。



「田神山観音寺」は伝教大師・最澄が開いたと伝わり、その後衰退していたところを1670年頃に「木之本地蔵院(浄信寺)」の雄山上人が再興されて、現在も地元の方によって守り続けられているといいます。
予約拝観が必要なため内部拝観はしていませんが、小さなガラスの窓から見ると中に金色の仏像が伺えました。見えた仏像が本尊なのか御前立なのかは不明です。



境内の山側には西国三十三所「観世音菩薩霊場」の石碑があり、かつて中腹にあった意冨布良神社の「上の宮跡」や、賤ケ岳の合戦で秀吉の弟・羽柴秀長が陣城した田上山城跡があるといいます。
合戦の時に実質的に本陣だったとされる砦跡は標高323mにあるといいますが、登り口に折れた木が横倒しになっていてあっさりと諦めます。
宮司さんの話でも道が荒れているところもあるということでしたので無理はせずということです。





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