hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

Internet今昔

2006年03月08日 | 昔の話
超長文、駄文です。お暇があって興味ある方は、主張である「(3) 莫大な伝送情報量の中で意味ある情報量は? より深い通信のためには?」だけでもお読みください。

オーストラリアでダイヤルアップでInternetアクセスし、パソコン通信時代、Internet初期時代を思い出した。何が変わったかと言えば、象の時間がネズミの時間に早くなり、同時に集中していた大きく深い思考が、チョロチョロした小さな思いつきに広く拡散しただけのような気がしてきた。もちろん良くなった点も多いのだが。

(1)Internetにつながるまで
7日の朝6時過ぎ、オーストラリアのパースPerth国際空港へ着いて直ぐタクシーでApartmentsに入った。部屋に入るなりパソコンを取り出してInternetに接続しようとした。電話機のローゼットのところが、大きな足が4本並んだ変なコネクタになっていて、RJ11(?)、昔の人はFCCコネクタと呼んでいますが、ではない。「そういえば去年も」と思い出して、レセプションへ降りていって、変換コネクタを借り、線の接続は完成した。
思い出しついでに、FCCとはFederal Communication Committee(?)で米国の通信行政を牛耳っていてAT&Tの分割とか世紀の判断をして注目されていたが、最近目立たないような気がする。AT&Tと言えば、といってもSBCに飲込まれたAT&Tだが、---、ここで踏みとどまろう。

次に、日本のISPからあらかじめ取得していた海外用ID,PWでダイヤルアップの接続設定をする。1,2回やり直して直ぐ、懐かしいModemのピロピロする音が聞こえて、Perthの提携先サーバーにつながり、認証もOKとなる。すぐつながったのは、去年散々苦労して、外線へ抜けだすダイヤル数字のあとだけでなく0, 9,や8のあとにも「,」をやたら入れたり、Modemの速度を落としたり、果てはISPに泣きついて教えてもらい、ATコマンドをいじったりと、おまじないも含めてあれこれと苦労して完成したModem設定をそのまま生かしたせいだ。

(2)常時接続、ブロードバンドに慣れてしまった
メールをのぞいて数箇所へご挨拶し、私のApartment(部屋)の電話番号を報せておく。英語のmailも過去のものを取り出し、少し変えて文章校正に掛ければ、簡単な内容だし、まあ大体の意味は通じるだろう。
オーストラリアでは光はもちろんxDSLも日本ほど普及していない。自宅は無線LANになっているので、パソコンを立ち上げれば自動的にInternetに接続されるが、ダイヤルアップではパソコンが立ち上がってからあらためてInternetに接続しなければならない。
最近は更新blogがすぐわかるので、ブラウザとしても普通はgooのRSSリーダーを使っているのだが、こちらに来てWindows起動時の起動設定を停止した。一度便利になると、昔が懐かしい年寄りと言えども、以前は普通に使っていた状態に戻るのはつらい。今では、ほとんどのサービスがInternet接続状態を当然の前提としている。

blogもHPも絵入りでJavaなど使って、こっているのが多いので、ダイヤルアップでは固まったかと思ったころ絵が出てくる。なにしろ自慢じゃないが31Kb/sだ。光やADSLの千分の一から百分の一の早さだ。次々とサイトを切り替えるRSSリーダーは威力激減だ。
と、これまでオーストラリアで、もちろん優れた通信環境で利用している人も結構いると思うが、私の場合はいかに遅れた通信環境に苦労しているかを書いてきた今日この頃、皆さんお変わりありませんかと、きっこのブログの真似をしてみたが、いかがでしょうか。

(3)莫大な伝送情報量の中で意味ある情報量は? より深い通信のためには?
確かに伝送できる情報量は急増した。パソコン通信時代は1,200b/s、ダイヤルアップのInternet時代で9.6Kb/sからISDNの64Kb/s。Modemも負けじと56kb/s。突然出てきたADSLが距離によるが数十Mb/sに。究極と言われる光が100Mb/s。
何が伝送されるかと言えば、文字から絵、音、動画とメディアは選択の幅が広がった。その結果、発信元の何が言いたいかという思考がより強く、より深く相手に伝わるようになったのか? 絵、音や動画になったからと言って、楽に理解でき(たような気になり)、楽にインパクトを与えることは出来るようになったに過ぎないのではないか。

例えば、川端康成の雪国の冒頭のシーンのように、文字だけのメディアでも、トンネルを越え一気に明るくなる光景、女性の声やそぶりまで生々しく読む人に伝えることができる。達人の手になると文字もマルチメディアである。何故こんなことが可能なのか?
それは、送り手と受け手がそれぞれ持つデータベースの共通部分を利用し、その部分はいちいち伝送しないからである。例えば、「トンネルを越えると、そこは---」という文字だけ伝えれば、受け手はトンネルを出たとき一気に明るくなるという経験や雪のまぶしさの経験を持ち、自分のデータベースに記憶しているので、それが励起されイメージが広がる。何もいちいち説明する必要はない。達人は、記憶を励起させる言葉の列を選べばよいのだ。送り手の決めた絵より、受け手が自由に描くイメージの方が共感しやすい。
しかしながら、例えば雪のないアフリカの人とはこの点に関し共通データベースがないので深い情報は伝わらない。受け手も送り手と生活環境が類似で、優れた送り手に近いほど知識、経験がないと伝わる情報は深くならない。深みある情報は受け手を選ぶのである。

Internetの伝送速度とパソコンの処理速度増大のメリットとして、誰でも気楽に情報発信できるようになり、受け手も楽に、面白く情報を選択し受取ることができるようになった。とくに、情報の送り手が増大した点はInternet普及の最大の功績だ。しかし、必ずしも悪いことではないのだが、深みのない同じような情報が氾濫することにもなった。Googleも何が深みのある情報かは探し出してくれない。歴史のある本というメディアは、近年危機にはあるが、何年もかけて良書を選び出すシステムを作り出してきた。Internetも、奇抜さやフェイクに走り勝ちな単なる人気投票でない、良好な送り手を選び出すための何かのシステムを作り出さないと拡散するばかりで後世になにも残らない。

以上、今時文字だけの深みのない長文、駄文乱発の主より
追記

最近ではおかしくなってきたが、書籍は初版が出た後でも出版社が頑張って出し続け、長年月のうち良書が生き残り、あるいは発見される。その意味で良書は長年月かけて読者が作り上げるのだ。

長い時間情報が提示されていれば、一時的な盛り上りを越えて、真に深い情報だけが賢明なる理解者を得て取捨選択されていく。ホームページ情報のアーカイブを作ったとか、作るとかの話があったが、何らかの選択なしでのblogのアーカイブはあり得ないだろう。アクセス数だけの人気投票での選択でなく、長時間かけた選択過程が必要だが、書き捨て文化のblogは発散し受け手の心の中に蓄積していくほかないのかもしれない。

ネット情報が「電車男」のように本や映画、TVになれば成功と言うのではいつまでもネット文化は独り立ちできない。
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