私は終戦時2歳半。戦後直後のかすかな記憶の中で、一番強烈なのは、食べるものが無く、いつも腹をすかしていたことである。日本中が食料難であったが、田舎を持たない東京人で、貧乏家庭であったから、より悲惨であった。
ふかしたサツマイモや、おすましにうどん粉を落としたスイトンが主であった。普通のお米(白米)はなく、たまに細長いタイ米がグリーンピースの中に混じったり、たっぷり薄めたおかゆになって出てきた。おかずはおからが多かったと思う。魚も珍しく、肉などついぞお目にかからなかった。おから、おからと続き、口の中がパサパサしてくるので文句を言うと、「あら、おからは栄養があるのよ」などと言う。今なら親がいかに苦労していたか、わかるのだが。そういえば、おからで廊下磨きもよくやらされた。
我が家でも現在、本当の厳しい食糧難の時代を知らない奥さんは、時時、人参など混ぜて体裁良く作ったおから料理を出してくる。美味しい、不味いではなく、私は食べることができない。
鯨が唯一の蛋白源で、毒々しい赤色に染まった鯨のベーコンが美味しかった。鯨肉もときどき食べた。私の身体の芯は鯨で出来ていると思っている。資源管理を守るなら、捕鯨は禁止すべきではない。鯨を食べる日を作って、あの時代を思い出し、感謝と功徳を捧げたい。
たまに食卓に魚など出ようものなら困ったことになる。子供はひとりだったので、問題ないのだが、母は半分位食べて、「お母さん、なんだかお腹が一杯になっちゃった。○○食べてよ」などと言う。お腹一杯になるはずないとは思うが、身体が魚の方へ寄っていってしまう。再度催促されて、ついつい箸をのばす。天寿を全うした母だが、亡くなる間際まで、「○○には何もしてやれなくて申し訳ないね」と言っていた。母親とはせつないものである。感謝! 今も世界中にお腹をすかせた子供がいることを忘れまい。
米穀手帳
1941、42年からお米が配給制になり、このとき各世帯に交付されたのが米穀台帳で、正式には米穀配給通帳という。1981年に廃止された。
米穀通帳には、氏名、住所、家族構成などが書かれていて、これがないと米屋で米を買えないという大切なもので、今の健康保険証や自動車免許証のように身分証明書代わりでもあった。
この時代には、個人が直接農家の方からお米を買うことは、ヤミ米といって食糧管理法違反という犯罪だった。ヤミ米を食べることを拒否して餓死した検事さんだかが確か居たと思った。配給だけでは当然足りないのでヤミ米が出回り、農家から米を買って都会へ持込むかつぎ屋がいた。かなり年とったおばさんが百キロはあろうかという荷物を担ぎ、何人も電車に乗る。ときどき警察の手入れがあり、没収される。たくましい時代でもあった。
尋ね人
戦災で家を焼かれ、家族がばらばらになった人、外地から帰還し、焼け野原で家族を探す人などが多くいた。
子供の頃、昼間の決まった時間だったと思うが、ラジオで尋ね人情報を放送していた。「昭和○年ごろ、○○町にいた○○さん」とか、「○○中学○年卒業の○○さん」などと、次々延々と単なる尋ね人情報が読み上げられていく。子供の頃は、世の中とは家族も知り合いもいつの間にかバラバラになり、尋ね人の放送があるのが普通の状態だと思っていた。昭和21年から10年間続いた。
親を失った子供(戦災孤児)も多く、浮浪児(子供のホームレス)と呼ばれた。上野の駅の近くの地下道の暗がりで、目だけギラギラした浮浪児がたくさんいるのを見たような記憶がある。
傷痍軍人
街角や、電車内で、手や足がなく、あるいは義足、義手で、白い服を着た人が、胸の前に箱をぶら下げて、寄付と求めていた。アコーディオンを弾いている人もいた。丁寧なお辞儀に大人は目をそらしていた。
ふかしたサツマイモや、おすましにうどん粉を落としたスイトンが主であった。普通のお米(白米)はなく、たまに細長いタイ米がグリーンピースの中に混じったり、たっぷり薄めたおかゆになって出てきた。おかずはおからが多かったと思う。魚も珍しく、肉などついぞお目にかからなかった。おから、おからと続き、口の中がパサパサしてくるので文句を言うと、「あら、おからは栄養があるのよ」などと言う。今なら親がいかに苦労していたか、わかるのだが。そういえば、おからで廊下磨きもよくやらされた。
我が家でも現在、本当の厳しい食糧難の時代を知らない奥さんは、時時、人参など混ぜて体裁良く作ったおから料理を出してくる。美味しい、不味いではなく、私は食べることができない。
鯨が唯一の蛋白源で、毒々しい赤色に染まった鯨のベーコンが美味しかった。鯨肉もときどき食べた。私の身体の芯は鯨で出来ていると思っている。資源管理を守るなら、捕鯨は禁止すべきではない。鯨を食べる日を作って、あの時代を思い出し、感謝と功徳を捧げたい。
たまに食卓に魚など出ようものなら困ったことになる。子供はひとりだったので、問題ないのだが、母は半分位食べて、「お母さん、なんだかお腹が一杯になっちゃった。○○食べてよ」などと言う。お腹一杯になるはずないとは思うが、身体が魚の方へ寄っていってしまう。再度催促されて、ついつい箸をのばす。天寿を全うした母だが、亡くなる間際まで、「○○には何もしてやれなくて申し訳ないね」と言っていた。母親とはせつないものである。感謝! 今も世界中にお腹をすかせた子供がいることを忘れまい。
米穀手帳
1941、42年からお米が配給制になり、このとき各世帯に交付されたのが米穀台帳で、正式には米穀配給通帳という。1981年に廃止された。
米穀通帳には、氏名、住所、家族構成などが書かれていて、これがないと米屋で米を買えないという大切なもので、今の健康保険証や自動車免許証のように身分証明書代わりでもあった。
この時代には、個人が直接農家の方からお米を買うことは、ヤミ米といって食糧管理法違反という犯罪だった。ヤミ米を食べることを拒否して餓死した検事さんだかが確か居たと思った。配給だけでは当然足りないのでヤミ米が出回り、農家から米を買って都会へ持込むかつぎ屋がいた。かなり年とったおばさんが百キロはあろうかという荷物を担ぎ、何人も電車に乗る。ときどき警察の手入れがあり、没収される。たくましい時代でもあった。
尋ね人
戦災で家を焼かれ、家族がばらばらになった人、外地から帰還し、焼け野原で家族を探す人などが多くいた。
子供の頃、昼間の決まった時間だったと思うが、ラジオで尋ね人情報を放送していた。「昭和○年ごろ、○○町にいた○○さん」とか、「○○中学○年卒業の○○さん」などと、次々延々と単なる尋ね人情報が読み上げられていく。子供の頃は、世の中とは家族も知り合いもいつの間にかバラバラになり、尋ね人の放送があるのが普通の状態だと思っていた。昭和21年から10年間続いた。
親を失った子供(戦災孤児)も多く、浮浪児(子供のホームレス)と呼ばれた。上野の駅の近くの地下道の暗がりで、目だけギラギラした浮浪児がたくさんいるのを見たような記憶がある。
傷痍軍人
街角や、電車内で、手や足がなく、あるいは義足、義手で、白い服を着た人が、胸の前に箱をぶら下げて、寄付と求めていた。アコーディオンを弾いている人もいた。丁寧なお辞儀に大人は目をそらしていた。