ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手が9日、タンパベイ・レイズ戦で、満塁本塁打を含む2打席連続本塁打を放った。大谷選手は投げても3勝しているし、今季も二刀流は健在である。
ところで、将棋界の二刀流は誰か。居飛車と振り飛車の両方を指す棋士が多いが、これは二刀流ではなく、両刀遣いという。それに棋士はどんな将棋も指せるので、これはあたらない。
ここでの二刀流は、将棋棋士と囲碁棋士を兼務した棋士、とする。該当者はただひとり、北村文男七段である。
北村七段は1920年10月4日、三重県生まれ。アマ時代に多くの活躍をし、1956年に35歳で奨励会に入会した。その後「予備クラス」に入る。予備クラスとは、三段リーグに順位戦C級2組からの降級者を合わせたもの。当時は降級規定が厳しかったが、予備クラスで戦う道も開かれていたのだ。
北村七段は1958年にここを突破し四段になったが、初参加のC級2組順位戦では6勝8敗ながら降級してしまい、予備クラス戻りとなった。
しかし北村七段は頑張り、1961年に東西決戦敗者戦で勝利し、晴れて順位戦復帰となった。河口俊彦八段は、この復帰にとても感心した、と後に書いている。
いっぽう囲碁のほうは、1960年に関西棋院の中部総本部が創設された際、人数集めにより、請われて囲碁棋士(初段)になったようだ。
その実力のほどは定かでないが、私の記憶では、河口八段が「升田九段に二子の手合い」と書いていた気がする。
また1977年には囲碁専門誌の企画で、米長邦雄八段(当時)に指導対局を行っている。
さて肝心の将棋のほうは、これといった活躍はできなかった。当時北村姓の棋士は北村秀次郎八段、北村昌男九段と3名いたが、いちばん弱かったかもしれない(失礼)。
しかし1985年8月5日に指された全日本プロトーナメントでは、当時A級だった有吉道夫九段に勝っている。相矢倉から△6五桂と跳んだ手が名手だった気がするが、記憶違いかもしれない。
ちなみに「将棋年鑑・昭和61年版」のアンケート「昭和60年度会心の一局は?」に、北村七段はこの将棋を挙げている。アマチュアがA級九段には勝てないから、やはり北村七段も強かったのだ。
1987年、C級2組で3つ目の降級点を取り、将棋は現役引退。囲碁は、三段まで昇段した。
後年、体調を崩して入院した際は、「将棋を指したい」と話していたという。北村七段は「将棋棋士」だったのだ。
1993年1月14日逝去。同日、将棋七段追贈。囲碁のほうも四段を追贈した記述もあるが、はっきりしない。
2011年には、有志から「人生は一番勝負 北村文男七段対局集」が発刊された。北村七段の熱局58局が収録され、同郷の澤田真吾七段が解説している。
中を読むと、むかしの将棋は序盤が整備されていないと感じるが、北村七段の力強い戦いを堪能できる。
というわけで、以前この記事を「将棋ペン倶楽部」に投稿しようと思ったのだが、「だろう」とか「らしい」とかの記述が多く、見送った次第。
しっかり資料を精査できたら、投稿するかもしれない。
ところで、将棋界の二刀流は誰か。居飛車と振り飛車の両方を指す棋士が多いが、これは二刀流ではなく、両刀遣いという。それに棋士はどんな将棋も指せるので、これはあたらない。
ここでの二刀流は、将棋棋士と囲碁棋士を兼務した棋士、とする。該当者はただひとり、北村文男七段である。
北村七段は1920年10月4日、三重県生まれ。アマ時代に多くの活躍をし、1956年に35歳で奨励会に入会した。その後「予備クラス」に入る。予備クラスとは、三段リーグに順位戦C級2組からの降級者を合わせたもの。当時は降級規定が厳しかったが、予備クラスで戦う道も開かれていたのだ。
北村七段は1958年にここを突破し四段になったが、初参加のC級2組順位戦では6勝8敗ながら降級してしまい、予備クラス戻りとなった。
しかし北村七段は頑張り、1961年に東西決戦敗者戦で勝利し、晴れて順位戦復帰となった。河口俊彦八段は、この復帰にとても感心した、と後に書いている。
いっぽう囲碁のほうは、1960年に関西棋院の中部総本部が創設された際、人数集めにより、請われて囲碁棋士(初段)になったようだ。
その実力のほどは定かでないが、私の記憶では、河口八段が「升田九段に二子の手合い」と書いていた気がする。
また1977年には囲碁専門誌の企画で、米長邦雄八段(当時)に指導対局を行っている。
さて肝心の将棋のほうは、これといった活躍はできなかった。当時北村姓の棋士は北村秀次郎八段、北村昌男九段と3名いたが、いちばん弱かったかもしれない(失礼)。
しかし1985年8月5日に指された全日本プロトーナメントでは、当時A級だった有吉道夫九段に勝っている。相矢倉から△6五桂と跳んだ手が名手だった気がするが、記憶違いかもしれない。
ちなみに「将棋年鑑・昭和61年版」のアンケート「昭和60年度会心の一局は?」に、北村七段はこの将棋を挙げている。アマチュアがA級九段には勝てないから、やはり北村七段も強かったのだ。
1987年、C級2組で3つ目の降級点を取り、将棋は現役引退。囲碁は、三段まで昇段した。
後年、体調を崩して入院した際は、「将棋を指したい」と話していたという。北村七段は「将棋棋士」だったのだ。
1993年1月14日逝去。同日、将棋七段追贈。囲碁のほうも四段を追贈した記述もあるが、はっきりしない。
2011年には、有志から「人生は一番勝負 北村文男七段対局集」が発刊された。北村七段の熱局58局が収録され、同郷の澤田真吾七段が解説している。
中を読むと、むかしの将棋は序盤が整備されていないと感じるが、北村七段の力強い戦いを堪能できる。
というわけで、以前この記事を「将棋ペン倶楽部」に投稿しようと思ったのだが、「だろう」とか「らしい」とかの記述が多く、見送った次第。
しっかり資料を精査できたら、投稿するかもしれない。