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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 163 醍醐の花見

2023年02月22日 17時44分16秒 | 貧乏太閤記
 時間を春先に戻す、朝鮮の戦もひと段落ついて三月、秀吉は京都醍醐寺裏手の山に於いて、お花見を行った、後に「醍醐の花見」と呼ばれる催しである。
招かれたのは、ほとんど女性ばかりであったという、いかにも秀吉らしいが、関白秀次の正室、側室を家柄もなにも関係なく
全て打ち首にしたという秀吉に対して、諸大名や武将らの奥方たちは緊張したであろう。
 身分高い女性らは輿に乗って醍醐寺にやってきたが、その順も決められており、これが秀吉の室の序列でもあった。
一番が正室北政所、二番が淀殿、三番が京極殿、四番が織田信長の娘と言われた三の丸殿、五番目が前田利家の娘、加賀殿、その次が前田利家の奥方で加賀殿の母である「まつ」と続いた。
前田家と豊臣家の間柄は、利家、秀吉がまだ中堅武士である頃からの付き合いで、最初は秀吉が利家の足軽だったのだから、人生はわからない
今では日本一の太閤秀吉と、加賀90万石の太守、前田大納言である
秀吉の側室加賀殿は利家の娘であり、もう一人の娘は秀吉の養女となって、備前中納言宇喜多秀家の正室となっている。
 この花見では盃の順番で淀殿と京極殿が揉めたエピソードは有名である
一番は当然、北政所であったが、二番の淀殿に対して三番の京極殿からクレームがついた、この二人は従姉妹であり京極が年上である
「格式は織田家は京極家の家臣の家であるから、私の方が先に盃をいただくのが当然である」と京極殿が珍しく我を張ったのである
もちろん淀殿も「太閤殿下のお世継ぎを産んだ私が、北政所様に次ぐ立場であるのは明快である、そのため腰の席次もあなたより上なのだ」と言い返す
これを、前田利家の奥方「まつ」が年長の序列を持ち出して、やんわり丸く収めたというエピソードである。
ともあれ1300人も招いたというから、豊臣家の家老や重臣、諸大名家の重臣の奥方までも招かれたのだろう
もちろん皇女、大臣や公家の女房、大商人など名高い町人の妻も招かれたであろう
これが秀吉の最期の花道であった、もともと、こうした祭りごとが大好きだった秀吉であったが、いくさいくさが続く日々でこのような余裕はなかった。
どこで秀吉は間違ったのか、それはあきらかに「朝鮮出兵、唐入り」である
ようやく日本統一と言う大事業を成し遂げたのに、息つく暇もなく今度は海外相手の戦争へと移行したのだから、諸大名も驚いたであろう
やっと訪れた戦の無い平和な日本、勝利した大名たちはこれからの内政に不安と夢を抱えていたに違いない、それなのに・・・

 秀吉の「唐入り案」にまっさきに反対したのは弟の豊臣秀長であり、正親町上皇であった、そのような人たちの言うことさえ聞かなかった秀吉
いったい何がそうさせたのか、晩年の秀吉は豊臣家自滅の自殺行為としか言いようがない、まるで何者かの罠にはまったように思える
一番の相談相手で頼りにしていた秀長が死ぬと、その後を養子の秀保(秀次の弟)が継いだが秀次切腹の半年前に木津川でおぼれ死ぬという不審死がおこる
これによって、秀吉は大和豊臣家を廃家とした。
秀吉にとってもっとも重要な、いわば分家を自ら消し去ったのだ、そのあと甥のナンバーワン関白豊臣家をも滅ぼしてしまう
それに仕えていた家老もことごとく切腹させたが、多くはもともと豊臣家で秀吉に仕えていた重臣ばかりであった
木村や前野は、秀吉がまだ木下藤吉郎だった時からの仲間でもっとも古い家来だったのに、それも殺してしまった。
浅野長政、幸長親子は北政所の妹の夫と子である、幸長にも「秀次接近多し」という理由で切腹を命じたが、
前田利家と徳川家康、北政所の取り成しで前田家預かりの能登流罪で済まされた、だがこれも豊臣家の弱体につながった
この他にも、加藤清正、蜂須賀家政、黒田長政と言った豊臣恩顧の大名たちを謹慎や叱責処分にしている。 島津家なども家久切腹処分を申し付けられている
どういうわけか、秀吉に殺されたのは秀吉と共に豊臣家を築き上げてきた功労大名ばかりである、いったいどういうわけなのだ
徳川家康に縁する大名には、このようなキツイ処分はほとんど行われていない
それどころか疑われながらも加増された山内一豊、田中吉政、池田輝政などをはじめ、秀吉は大盤振る舞いしているのである。
そして同じ豊臣家臣でも、淀殿につながる石田三成ら五奉行は加増など優遇されている
これを見ていくと、秀吉は自分の過去につながって出世を遂げてきた者たちを記憶と共に消し去りたいと思ったのではないかと疑ってしまう。
そして気がつけば、秀吉の過去を知っている者と言えば、前田利家、加藤清正、福島正則くらいになってしまった
いつのまにか老いた秀吉は「裸の王様」であった
その外の世界では、石田三成と淀殿、徳川家康と北政所のあらたな世界が出来ようとしていたのだ、知らぬは秀吉ばかりなり
秀吉は老いた・・・

 醍醐の花見以後、まさに花冷えが続き、するとそれに合わせるように秀吉の体は病がちになって行った。
腹痛と下痢が続き、食用が失せ、もともとやせ型の体がますます痩せていった
床に就くことも多くなり、起きたり寝たりの日々が続いた
起きたときには、さすがは天下人と言う気力を見せる、声には張りがあり若々しい。 「耄碌した」などと陰口を叩く大名などは(うかつなことを言って知れれば切腹じゃ)と恐れた
だが当の秀吉は自分の体の変化が、これまでとは違うことに気づいていた
天下一の名医と言われる曲直瀬(まなせ)道三の弟子、全宗に、これまでも健康管理を任せていたがその全宗からいくつか注意事項を言われた。
全宗が見るに、どこと言って秀吉に死病は見えない、だが体が衰弱していくのが目に見えている
もともと胃下垂の傾向があるから食欲が出ないのもわかるが、現在のパセドウ氏病のような症状である。
疲れやすくなり、イラ立ちがしょっちゅう起こるようになった、手足に震えが来たかと思うと指先が反り返る、すると必ず下痢が起こる
そのようなことが起こるので体重の減少も目立ってきた、脂汗が出る、気持ちが落ち着かない
思い返せば、秀次の処刑の半年くらい前から、その症状は出ていた
その原因もストレスからだったのかもしれない、それは誰にもわかる、唐入りが思ったように進まないからだ 
最初は破竹の勢いで漢城どころか、平壌まで占領して、あと一歩で明国侵入と言うところまで行ったが
後方で立ち上がった朝鮮人義勇兵の抵抗により兵糧の運搬がままならなくなり、更に明国から援軍がやってきたため、今では朝鮮南部を守るに精一杯なのだ
 こんな状況に実は秀吉自身が、口ではいうものの実際は唐入りの熱が冷めてしまったのだ
秀頼が産まれたことで、ようやく秀吉にも平和が必要だということがわかって来た、だがそれを口に出すことはできない
結局、戦線の縮小の末に名誉ある撤退が出来れば、それでよいという気持ちになったのだ、そのため諸将の帰国が相次いでいる
 そんな最中の体調不良、秀吉自身はまさか死ぬとは思っていないが、それが近づいてきたことを感じるのであった
(もし儂が死んだら)と言う考えが出てくるこの頃、そうなると。思うのは淀と秀頼の今後のことであった。
「三成、諸大名すべてに豊臣家と秀頼への忠誠の証文を書かせよ」
太閤亡きあとに、そのような物が役立つなど秀吉も信じてはいない、だがそうしないといてもたってもいられないのだった。
それだけではなかった、まだやり残したことがある




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