畿内で流行った石室持っていることから天武天皇(大海人皇子)に付き従い(壬申の乱)大活躍した大分君恵尺(えさか)或は稚臣(わかみ)の墓ではないかと言われている。この二人の名前は日本書紀大海人皇子(壬申の乱で勝利を得、その後天皇に即位して天武天皇になる)に見る。
極力近くまで行ってみようと廻ってみたところ・・・賢明なる読者諸氏もご覧になるとお判りであろうが・・展望車だぞ。恐らくは「マイテ49」(旧特急客車)だろうな。
前後に一両ずつの編成である。今日はこれを牽引するのではない。うーむ、残念だ。C571は向うに既に待機している。
入換作業の様で、客車が待っている。改札に上がってみると乗客なのだろうが、皆今か今かとそわそわしている。気持ちが伝わって来るぞ。全席指定なのだから焦らなくてもいいのだが・・・うーむ、やはりそうもいくまいな。外国人観光客も多いな。
南北約12.5m 東西約12mの方墳である。現状では方墳を確認することは出来ないけれども。
巨大な凝灰岩を刳り貫いて横口構造の石棺石室を持っており、畿内の中級豪族の間に流行った石室であって九州では他に例が無い石室である。
新山口駅に着いたとたん・・・おっ、懐かしいドラフト音、そして汽笛である。おー、C571だぞ。何年振りか。いやーいい時に着いたじゃないか。予期していなかったし、まさか見ようなどと考えてもなかったものな。
軽快なピストン音が聞こえて来るぞ。一人で大興奮している。人の目なんか気にしない。
古墳眼前に拡がる風景である。日本書紀、景行天皇記に見える「碩田国」(おおきた)、その国は広く大きく美しい。よって碩田と名付けたとある。
これが大分の始まりなのだろうな。
まあここに車を置いて小さな山を登り、登ったと思ったら向うに降りて行かねばならない。なんでこげなとこに造らせるとや
古宮古墳は珍しく方墳で7世紀中頃に築造された。更に珍しいのは巨石を刳り貫いて横口構造の石棺式石室を用いていると言うことだ。この形式は九州では見られず畿内で流行ったと言うことで、大和政権と深くかかわりのある大分君恵尺の墓ではないかと考えられている。
二両編成である。エンジンが唸りを上げて発車である。電車じゃ面白くないからな。列車は津和野に向かう。
特急を見送って我々も出発だ。心地良いエンジン音がたまらないな。
古墳見学者の為に駐車場が設けられているのだが・・・近くの住人が自分の駐車場として利用している。しかも、黒の軽は2台分にまたがって駐車している。酷いもんだ。ルールもマナーもあったもんじゃない。情けないな。