かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

神武天皇の歴史学

2024年02月10日 | Books


今日は、伊豆。
素晴らしい天気で、春近し。
途中の河津桜。
満開。



伊豆高原の桜のさとに行ってみたら、やはり河津桜はいい塩梅。
メジロ?



ほぼ?



大室山に映える。



本書は、本屋で見つけて即ゲット。
面白かった。

神武天皇の歴史学と題されるが、ほとんどが、神武天皇陵比定に関する議論を時代を追って深堀りした本。
他にも、天皇陵についての本は多くあるが、一人の天皇陵について、ここまで掘り下げた本は初めて読んだ。

そもそも、神武天皇が実在したかという議論については、否定的な議論が多く、本書もそこについては、否定的。
ただ、記紀以来、神武天皇陵が畝傍山にあったとされる事実はあり、それが、特に江戸末期以降どう議論されて来たかは、ひじょうに興味深かった。
本居宣長の古事記伝において、それまで比定されてきた場所とは全く違う説が提唱されたが、なぜかほどなく無視されていく。
では、それまで比定されてきた場所がそのままかというと、別の古墳が比定され、従来の神武天皇陵は、今は、綏靖天皇陵に比定されている。

神無田の地にある古墳が神武天皇陵に比定されたのだが、記紀の記載とは、いまいちしっくりこない。
考古学的調査も行われず、曖昧な伝承が残っていただけにも関わらず、時の孝明天皇によって比定されたが、元の神武天皇陵にも配慮するようにとの注釈がついた。

神武田はミサンサイと読まれていたそうで、百舌鳥の古墳群にも同名の古墳がある。
御山陵の意味があるという。
もう一つのツホネカサという呼称があるそうで、それは、御山陵の坪(平坦な地)を意味し、神武天皇陵と比定する根拠の一つになっているという。
そして、神武天皇陵に比定されるまでは、荒れ果てていて、霊威の地と言われてはいたが、これも根拠の一つだそうだが、いかにも弱い。

一方、ペリー来航等が相次ぎ、幕府としては、国の初代天皇の立派な墓を存在させておきたいという動機があり、神武天皇陵は急ぎ整備された。
明治になって橿原神宮も整備されたが、民間の教会も設立され、ひと悶着あったり、外国人教官が訪れて、神武天皇陵は、全くおかしいとの説を出したりと、混乱は、続いた。
宣長説が蒸し返されたり、畝傍山全体を比定すべきとの説も出たりしたが、第二次世界大戦が始まり、神武天皇の神格化は、最高潮に達し、天皇陵への立ち入り禁止も続いたため、議論も膠着状態となり、現在に至っている。

橿原神宮には何度か行ったが、神武天皇陵には足を運んだことがないので、時間がある時に実見したいと思う。
コメント
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