森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

バイバイ

2007-10-30 01:53:24 | 詩、小説

 <ハロウィーンモンスターのお話のまた続きです。>

 

 風がそよりと吹いてきた。

 

 パッと目を覚ますと、なぜだか空には何かがキラキラ光ってる。
驚いてガバッと身を起こすと、
「起きたのかい、だんな。」といつぞやのカラスが傍らにいて言った。

 

「あれは一体何だい?」おいらが聞くと、カラスは
「あれはお月様だよ。」
「他のガラス玉みたいなのは何だい。」
「あれは星ぼしだよ。」と答えてくれた。

 

  おや、おかしいな。おいらは風があるのに月もない星もない、そんな不思議な夜にしか目覚めることは出来なかったはずなのに。

 

「だんな、ハロウィーンだからじゃないのかい。街はパレードさ。早くワタクシめらも繰り出しましょうぜ。」
「行こう行こう。」「行こう、行こう。」コウモリもスパイダーもおいらを急かす。

 

  にんまりと微笑む月、キラキラ光る星達を見上げながら、おいらもガシャンコガシャンコ街に急いだよ。

 

 街はパレードさ。モンスターの大行進。その間に紛れてさ、子供達がおいら達の真似をしている。ばれないように化けなければダメだよ。そうでなければ、魔女たちの今晩のパイの中身にされちまう。  

 

 ああ、ハンサム黒猫はどうしているだろう。不細工ブチ猫は元気かなあ。気になるけれど、こんなに町が混んでいては、ちょっと遠出は出来ないなあ。

 

子供達が

「トリック・オア・トリィート、お菓子を頂戴よ。」と家のドアを叩く。おいらもどさくさに紛れて一緒に回ることにした。

 

太っちょおばさんのおうちは、おばさんもお菓子が大好き。だからお菓子が一杯だ。

 

やせっぽちおばさんのおうちは、自分が食べないからお菓子が余っていて一杯だ。おいらの秘密のポケットはお菓子で一杯だ。

 

子供達が言う。

「ねえ、あそこはやめようね。」「うん、やめよう。」

「なんでだい?」と聞いてみたならば、

「だって、あそこのおばあさんは本当の魔女みたいなんだもの。」

本当の魔女と魔女みたいは違うだろう。おいらは行ってみたくて仕方がない。だっていい匂いがするんだよ。

 

おいらは、子供達の前になってドアをガンガンと叩いた。

「うるさい!何だい?」開いたドアから出てきたおばあさんは噂どおりの怖い顔だった。

「ドリッグ・オア・ドリード、おがしちょうだい。」とおいらは言った。

 

「あげるお菓子なんかないよ。」とおばあさんは鬼のような顔で言った。

「だっていい匂いがするよ。ああ、待てよ。これは花の匂いだったのか。今は暗くて見えないけれど、素敵な庭を持っているんだなあ。」

「エッ、あんた分かるのかい。」

「エヘへ」と言って、おいらが腹をがりがり掻くと、

「おやまあ、コレは懐かしい。」とおばあさんはおいらの腹を撫ぜた。

「これは今は遠くに住んでいる子供達が、小さい頃に使った湯たんぽによく似ているよ。」

 

すると、おばあさんの顔はあんなに怖かったのに、・・・イヤイヤ顔は怖いまんまだ。ずっと怖い顔していたから、もう直らないらしい。だけれど、奥に行ったと思ったら、焼きたてクッキーを持ってきてくれた。

 

バイバイと言って振り返ったら、おばあさんは泣いていた。

誰だい、怖い顔をしたおばあさんを泣かしたのは。

クッキーはとっても美味しくってさ、子供達からも

「でかいお兄さん凄い、仮装も凄いが、度胸も凄い・・」

と褒められて、おいらはとっても得意になっていた。

 

 

街のはずれの小さな本屋にやって来た。子供達が、ここの爺さんは話は長いが優しいって言うからさ。

 

 ドアを叩いて出て来たじい様は噂どおりに優しくて、気前よくお菓子をみんなに配ってくれた。その時おいらはドアの隙間から見えた戸棚の上に、あの本屋の年寄り猫の写真を見つけたんだよ。あの猫はこんな所から来ていたのか。

おいらが猫の写真を見ているのに気が付いたじい様は、その写真を持ってきてくれた。

「この猫を知っているのかい。」

「うん、ちょっとね。何処にいるんだい。」

「もう、いないんだよ。」とじい様は寂しそうに言った。

おいらの体の何処かがギリギリと鳴った。

「じい様、きっとあんたは誰かを見送るのが仕事なんだな。」と、おいらは何か言わなくてはと思って、やっとの思いでそう言った。

 

するとじい様は、にっこり笑って

「そうか、そうか。見送るのが私の仕事なのか。それならばおまえ様も見送って進ぜよう。」と言った。そして、

「おまえ様は何処から来なさった。」と聞くので、

「森の奥から。」とつい本当のことを言ってしまった。

「おまえ様は、そこに帰ってはいけないよ。帰るべきところに帰りなさいナ。」と優しげに言った。

なぜだか、おいらにはじい様が何を言ったのかすぐに分かってしまった。なんたって、おいらは頭がいいものだから。

 

 

 だけど、それって・・・。

おいらはショックで動けなくなってしまった。
子供達はとっくに帰ってしまった。おいらは月が東から西に動いていくのを見ながらじっと固まっていた。

 

 どこかで遊びまわっていたカラスが、戻ってきておいらを突いたので我に返ることが出来た。

「だんな、もうすぐ朝ですぜ、早く森に帰りましょう。」

「いやいや、おいらは森には帰らないよ。あそこはおいらの場所ではなかったんだ。」

おいらは、町外れのゴミ置き場に行った。

「だんなー、そんなばかな事しないで、森に帰りましょうや。一体誰に何を言われたっていうんですか。そいつはだんなの事分かって言っているんですか。」

「もう、お前はお帰りよ。残飯あさっていると思われてしまうよ。」

「どう思われたって良いんですよ。」

カァカァカァー、カラスは悲しそうに鳴きながらずっと、そのゴミ置き場から離れなかった。

 

 

 

 朝日が昇ってきた。おいらの体はカシャカシャカシャとバラバラになっていく。そしておいらはもう目覚めない眠りに付く。だけど、その時おいらは最後の夢を見た。

 

風が通り過ぎていく、白い少女の姿をして。少女は指でどこかを指し示す。

つぐみが空を飛んでいく。つぐみは翼でどこかを指し示す。

何かがおいらを手招きしている。緑の、そうだ、あれは森の緑の木々だ・・・

 

 

     

  

 ★      ★      ★     ★    ★

 

 おいらはゆっくり目を覚ました。太陽の光がキラキラ光っていたよ。

 そうだ、おいらは思い出したよ。おいらはずっと、森のこの場所にいたんだよ。ずっとずっとね。

様々なものに日の光を遮られ、ずっと眠っていなくてはならなかったんだ。

 

う~ン、おいらは伸びをして、手を伸ばしてみた。

「おい新入り」すぐ近くの大木が言った。
「大きくなれよ。」

 

「うん、大きくなるよ。おいら。」

 

じゃあ、みんなバイバイ。

 

もしもおいらに会いたくなったらさ、森に会いに来ておくれ。たぶん、あんたの家の近くの森においらは住んでいると思うから。

 

             


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ハロウィーンモンスターの独り言

2007-10-11 01:24:39 | 詩、小説
kiriyの留守の間は、ハロウィーンモンスターのこの俺様がここの番人だ。要するに留守番ってわけだ。ちょっと、時間があるならさ、おいらの呟き、聞いていっておくれよ。「kiriyの留守」って何だろうと思ったら「お知らせ」ってとこ読んでくれよな。


 ある時おいらは夜の街を、ガチャガチャ音を立てながら歩いていた。風は吹いていたけれど、空は雲に覆われて星も月さえも見えない夜だった。なぜか街には、人っ子一人歩いてなんかいやしない。


さみしいよ
さみしいよ
おいらはエンエン泣きながら
歩いてた
だけど、涙の一滴さえも出やしない

エーンエーン
エーンエーン
仕方がないので声だけでおいらは泣いていた。
すると、ねぐらに帰り損ねたカラスが
街灯の上でブルブルと震えて言った。


「すごいねぇ、だんな。そんなに恐ろしい声は聞いたことがない。どうか、このワタクシめに教えてくださいませよ。」

おいらはムカついて
グワァーワァーと吠えてやった。カラスは慌ててどこかに飛んでいった。


さみしいよ
さみしいよ
おいらがそう言うと、
街灯が分別くさくこう言った。

「そりゃあ、あんたが誰の役にも立っていないからさ。この私のようにね。」

そうか、街灯は暗い夜道を照らして、みんなの役に立っているものナァ。
でもどうしたら、誰かの役に立つことが出来るんだろう。
分からない。分からないからさみしいよ。

さみしいよ
さみしいよ
おいらがそう言うと
道を横切って行くネズミが煩そうに言った。

「まったくまったくまったくさ、
あんたはあんたはあんたはさ、
自分自分自分しか愛していないんじゃないのかい。」

まったく忙しいネズミで、おいらが
そんな事はないよと返事する前にどこかへ行ってしまった。
あれ、だけど、そんなこと・・は・・な・・い・・・
ちょっと待てよ。

おいらは自分しか愛していないんじゃなくて、自分さえも愛してはいないよ。
それよりも「愛する」って何だろう。
誰か「愛する」って教えてくれよ。
そうだ、誰かがおいらを愛してくれたら、おいらは自分を愛せるんじゃないかな。
おや、おいらは頭がいい。
みんながおいらを愛したら、おいらはさみしくなくなるんだよ。

・・・・だけど、誰もおいらを愛さない。
だから、おいらはさみしいよ。
さみしいたら、さみしいよ。
エンエン
エンエン
さみしいよ。
    

          ♪    

「ちょっとぉ~、あんた。それ素敵な歌ね。あたいにも教えてくれない。」

振り向くと、鼻の所にブチの模様のある不細工な雌猫が立っていた。
おいらは、同じ言葉を言い過ぎて、どうも節がついていたみたいだ。
こんな不細工じゃあ、この猫もさみしかろうと思った。
おいらは思ったことは、はっきりと口に出すタイプらしい。
「なんか適当に呟いているだけだ、不細工猫よ。」


すると、そのブチ猫はすまして言った。
「アリガトウ。みんな、そう言うのよ。何てまあ、不細工で、なんとまあ愛おしい猫だって。」
ヒェー、おいらは驚いたね。不細工だから愛されているのか。
「あら、あんただってとっても不細工、とってもキュートよ。」

プシュー、
ブチ猫に言われて、おいらのどっかから湯気が出た。


「そう言うことを、別の言葉で『個性』と言うのさ。」
驚いて振り向くと、きりりとした顔立ちの毛並みも艶やかな黒の雄猫が立っていた。声もなんだか爽やかで、思わず耳を澄ましてしまうほどだった。

黒猫とブチ猫は恋人どおしのように目を合わせ、いきなり二本足で立ち上がった。月のない夜には、そんな事もあるものさ。だけど、驚いたのはそんな事じゃない。
パチンと彼らは指を鳴らした。足音さえも立てない足なのに、一体どうやって指を鳴らすんだ。おいらは目を凝らしたが、分からない。二匹の猫はニヤリと笑って指を鳴らしながら、ゆっくりと後ずさる。パチンと同時にニャと言いながら。

ニャ、ニャ、ニャ、・・・♪

「パア~。」とブチ猫が甲高い声で鳴いた。
すると、街中の街灯がキラキラと点滅し、いつの間にか数匹の猫が集まっていた。

「ブチ猫、月もないのに集会かい。」
尻尾の曲がった縞猫が言った。
「そうよ、お客が来たからパーティよ。」


お客っておいらのことかい。

グレーの猫は歌う。
― さみしいよ
  さみしいよ
  風の吹く日はさみしいと
  私のご主人様が言う
  とうに居ないばあ様の、昔語りを思い出す


三毛猫も歌う
― さみしいよ 
  さみしいよ
  雨の降る日はさみしいと
  ぼくのご主人様も言う
  昔別れた恋人が、ずぶ濡れで
  戸口に立っていたことが忘れられない


本屋の年寄り猫も歌う
― さみしいよ
  さみしいよ
  空を見上げてさみしいと
  わたしの御主人めもそう申す
  あの友この友みんな見送って
  とうとう自分が最後の一人


「ああ、それは本当にさみしいわ」
ブチ猫、黒猫が声をそろえて言う。

又、本屋の猫が歌う
―朝が来たから、さみしいと
ジュリエットは悲しみ
川の流れに身を任せながら
オフィーリアは嘆く


「あれは雲雀ではないわ、小夜鳴鳥(ナイチンゲール)よ。」とグレー猫。
―イヤイヤ、ジュリエット。あれは朝を告げる小鳥の鳴き声、早くロミオを送り出して。―

「オフィーリアよ。尼寺に行け。」尻尾曲がりの縞猫も言う。
―To be or not to be , that is the question.
生きるべきか死ぬべきか、なすべきかなさざるべきか、そいつが問題だ。―

―Get thee to a nunnery!
 聖女になるか娼婦になるのか、そいつも問題だ。―


            ♪    ♪     ♪


猫たちのパーティは盛り上がり、歌え踊りの大騒ぎ

訳も分からず、おいらもガシャコンガシャコン踊ってしまう。踊りつかれて、ふと思い出す。

「不細工猫のブチ猫よ、みんながおいらを愛すれば「さみしさ」なんて、なくなってしまうんじゃないのかい。」

「それはないわよ、おにいさん。だって夜空のお月様はみんなが見上げて、綺麗だ好きだと言われているけれど、高いお空にポツンと一人。なんだか時々とってもさみしそう。」


         ・・・長くなってしまったので、ちょっと区切ります。そのまま続けてお読み下さい。


 
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ハロウィーンモンスターの独り言(続き)

2007-10-11 01:23:42 | 詩、小説
ハロウィーンモンスターの独り言の続きです。

「だけど、月は夜の闇を照らしてみんなの役に立っているんじゃないのかい。」
「そうかも知れないけれど、お月様はそのことを知っているのかしら。」と、ブチ猫はしみじみと言った。
「愛されていても愛していても、誰かの役に立っていたとしても、みんなさみしいものなのかい。」

「オイオイ、嘆くなよって、兄弟。」と黒猫が、やたら説得力のある声でそう言った。
すると、ここの猫達はすぐに歌いだす。

―さみしくなんかなかったら、
 昔別れた人たちを思い出すことなんかないだろう。

―さみしくなんかなかったら、
 詩も歌も生まれない。

―さみしくなんかなかったら、
 自分の事なんか見つめない。

―さみしくなんかなかったら、
 誰も愛することをしないだろう。



      ☆    ☆    ☆

 その時、目の前を蜘蛛が糸を一本はき出しながら、風に乗って通り過ぎていった。

「盛り上がっているようだけれど、もうすぐここは風が雲を吹き飛ばすわよ。そしたら空には、まん丸お月様。猫たちは大喜びだと思うけれど、あなたはいいの?」
と、教えてくれた。

そうだった。
おいらは、風があるのに、月もない、星もない、そんな夜にだけ目が醒める期間限定のモンスターだったよ。急いで目覚めた所に帰らなくては、動けなくなってしまう。朝日を浴びたら、元の姿に戻ってしまう。
ちと、遠出しすぎたよ。


盛り上がっている猫達を尻目にそこを立ち去った。
立ち去る時に振り向いた。
歌い踊っている猫達を見たときに、おいらの何処かがキリキリと音を立てた。

さみしいよ
さみしいよ


でも、おいらは何か不思議な気持ちがした。
さみしいけれど、空っぽではない、そんな感じ。



「また来いよ、、兄弟!」と、黒猫が遠くの方から声をかけた。
振り返ると、ブチ猫も手を振っていた。


「やっぱり、不細工だよなあ~。」と、おいらは呟きながら、帰り道を急いだよ。



  ★        ★      


おいらは、いつの間にかゴミ捨て場になっちまってる森の奥で、目が醒めたんだ。

やっとの思いで帰ってきた時に、高い木の梢で 
グワァーワァーと、カラスが鳴いた。

見上げると、雛とメスガラスを守るように 若いカラスが威嚇の声を上げていた。


カラスはおいらを見つけると
「よっ、だんな。サンキュな。」と言った。





なんだか、おいらは、うれ・・し・・い・・



その時、朝日の強い光が森中をを照らした。
カシャカシャカシャ、おいらは、元のあれやこれやのゴミの姿に戻っていった。



風があるのに、月もない、星もない、そんな夜にまた会おう―。





―おいおい、こらこら。それじゃあ、留守番にならないだろうって―   
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お知らせです

2007-10-09 22:29:40 | ’08/12/7までの未整理日記
 ほんのしばらくの間ですが、留守にします。
その準備と後片付けもあると思いますので、このブログも
10月31日ハロウィーンの日まで、お休みいたします。

前にもこのようなことを書いたら、「欠席届のようですね。」とコメントを頂きました。今回もそのようなものですね。

でも、二日後に「お留守番記事」を置いていきますので、良かったら読んでくださいね。

又、再会したら遊んでやってくださいませ。

<エッ、、何処に行くかって?
ずっと予習記事書いていたのでバレバレですね(笑)>


「風林火山」は、このところ一週間遅れで見ています。まだ「三国同盟」は未見ですよ。その前の39回は良かったですね。復活したら書きますよ~。これからが佳境ですものね。「相棒」も始まってしまう・・・。

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ネズミのようにシェークスピアをかじってみる

2007-10-08 15:37:58 | ’08/12/7までの未整理日記

 今朝、ふとあることを思い出した。

 私の「美術館体験」と言うものは、遅かった。小学生6年の時、隣のクラスの友人が、担任におねだりして有志だけで、「ドラクロア展」に行ったのを羨ましく思っていた。すぐ事故なんかが起きた時の責任の所在ばかり問われる、今の時代には、決して考えらないことだと思う。

 その隣のクラスの幼馴染の友人が、画像の絵葉書を買ってきてくれた。裏にはこんな言葉が書かれてあった。

「●●ちゃん好みだと思って。○○ちゃんは、こんなものに興味ないと思うから買ってこなかったよ。」

だけど、なぜか私はその葉書の事を○○ちゃんに言ってしまったのだった。その少女が、そんなものに興味の欠片なんかなかったのは事実だ。だけど、彼女は怒っていた。怒る彼女に驚く私。
ああ、いやなヤツだナァ、私って。世の中には時には「秘密」と言う事は必要なことなのだ。ああ、なんとなく自己嫌悪。だけど、過去は修正できない不可侵のものだから、諦めるしかない。だけど、なんだってそんな何十年もの昔の事で自己嫌悪にならなくてはいけないんだ。

 ところで、この絵は「オフィーリアの死」。友人が言ったようにかなり私好みの絵だった。


 話は変わって、高校時代。
学校の合唱コンクールで2年の時「時無し草」と言う歌で、私たちのクラスが優勝した。気を良くした私は、合唱曲の本を音楽室でいろいろ眺めていた。その時偶然見つけたその曲。題名は忘れてしまったが、


―水の底なるオフィーリアさま、
・・・・・・
川上では、蛇が首を持ち上げて上手に泳ぎます

はだしの黒い天使が水音立てて・・・―

所々ちぎれた記憶しかない、その歌詞。

次の年の合唱祭の頃、さりげなくその曲を推薦した私。希望通り選ばれて再び優勝した思い出の曲だ。


 オフィーリアはシェイクスピアの四大悲劇の一つ、「ハムレット」の中の登場人物だ。
ちなみにシェイクスピアの四大悲劇は、中学生辺りだと間違えていることが多いのだが「ロミオとジュリエット」は入らない。

 「リア王」「マクベス」「オセロ」「ハムレット」なのだ。

これらの本は読んだことはないが、映画や漫画でその内容は知っている。暗く救いがない本当の悲劇だと思う。

黒澤明の「乱」が「リア王」が原作になっていることは、多く知られていることだと思う。(道化役の池端新之助がもの凄く良かった・・)
その黒澤監督は、「マクベス」ベースに「蜘蛛巣城」と言う映画を撮っている。あまり記憶がないが、なぜかその題名は覚えていた。
又別に「ハムレット」の時代劇版がある。これは大川橋蔵が主演だった。テレビで何気なく見ていたのだが、亡霊が出てくる映画は大好きなので印象に残ったのだ。その後、何かで「ハムレット」の映画を見たときに、そのストーリーを知っていて驚いたことがある。そうそう、その題名は「炎の城」。

 日本人はシャイクスピアが、きっと好きなんだと思う。

私は悲劇は読まなかったが、喜劇は好きで、「真夏の夜の夢」「じゃじゃ馬馴らし」は読んだ事がある。

 
 そういえば、夕べと言うか、真夜中に書いた架空畳の人たちはシェイクピア張りの長台詞を、まったくかまずにとうとうと語っていたナ。そんなところがたまらないのかも知れないとか考えてみたりして・・・。



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架空畳「ディアスポラ」

2007-10-08 02:34:35 | 観劇・コンサート日記

 ザムザ阿佐ヶ谷にて架空畳の演劇「ディアスポラ」を見てきました。

 前回の、と言っても昨年の6月第一回の「デジタル クォーツ セコンド ハンズ」ですが、(今回は第四回公演、誘ってくれれば二も三も行ったのにアタシ、と思いつつ、そんなにファンなのかと自問自答してみるならば意外と嵌る架空畳の演劇)、その時も、「難解」と言う言葉が浮かびましたが、今回はさらに輪をかけて「難解さ」が増していたように感じてしまいました。

 ―そんな事は、ないぜ。あんたがバカなんだい。―

と、言われたら百の言葉で反論しちゃうよ、アタシ。

例えばこの芝居を見ていると、二つのサークルができていき、さりげなく分かる人分からない人に振り分けられていくような、余計な心配をしてしまうのです。だけど、私は、まだ、分かる人の真ん中です。

 ―ワー、何この人、すごい自信・・・― って思いますよね。

まあまあ、そこはサラッと読み飛ばして下さい。架空畳的に言うのなら「彼女の上に傲慢の雨が降る」と言う所ですね。でも、私が言いたいのは、この「まだ」と言う部分なんです。(丁寧語がめんどくさい。文体変えちゃえ)

今はまだ理解できる。でも、一年後は分からない。老いるということはそういうことなんだ。又、えらそうな事を書いているけれど、去年の私には言えないが今年の私は言える、悲しい事だけれど。

 

<過ぎていく日々を、楽しく夢中になって見ていたら、あっという間におじいさん>いやいや、こんな雑なセリフではない。架空畳のセリフはみんな詩の様に素敵なのだ。

ふと、私は思う。

―若かったあの頃~、何も怖くなかった~ ♪

と歌っていたこうせつは、若かった。

―青春時代が夢なんて、後からしみじみ思うもの~ ♪

と歌っていたトップギャランも若かった。

今頃彼らは、本当にしみじみとこれらの歌を歌えるのではないだろうか。

いつかきっと、舞台に立っていた人たちも、この日の舞台のそのセリフを思い出す日が来るのだろうか。

「難解さ」については、もう少しきちんと感想を書きたいところだが、なにぶん予定外で記事を書いてしまったので、時間不足。半端になるので止めておこう。

 

サーカスの空中ブランコを見つめる主人公。顔の表情だけで、目線の先に華やかなサーカスが出現してしまう。私はこの岩松さんのファンなのだ。

最後の駱駝に乗せられ目隠しされ、永遠に砂漠を行くという迷宮に放り出された島国の王の話は、素晴らしい。駱駝の上で意識だけで幻の王国を作っていき、幻の国を統治する。

受け取るメッセージは人それぞれだろう。

時間軸の話。乱暴だ言い方だがいじめの話。思い出すと、書いておきたいことはたくさんある。だがもうやめよう。

一体私はこの記事を誰に向かって書いているのか分からない。この演劇を見た人以外、分かる人は居ないのではないだろうか。自分用のメモにすらなっていない。

だけれど、かなりの時間を費やしてしまった。失ってしまった時間は戻らない。残念ながら、人生は到達しない矢などではない。

 

家に戻ってきてから「ディアスポラ」の意味を調べたり、そういう小説があることを知ったり、舞台がいつの間にか変化していた事を教えてもらったりで、ある意味「アハ体験」の夜だったかも知れない。

<時間がないと、私にはこういう記事は書けないんだナァ。でも、悔しいので自分の為にアップしてしまいました>

 

 

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「ロミオとジュリエット」と「卒業」

2007-10-07 00:40:07 | 映画だい好き☆☆

「緑子への手紙」で、流れとして、この映画の感想を書かないわけにはいかない。毎度お馴染みの二番館で観た「ロミオとジュリエット」と「卒業」。青春のと言うにはあまりにも青すぎる、思春期の入り口にいた頃観た映画だった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ロミオとジュリエット

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 好きなものにエールを送る、私のポリシーは今も昔も変わらない。教室で「ねぇ、昨日さぁ、お姉ちゃんと映画行ったんだあー。」なんて言い方は絶対にしない。教室の片隅の席で、ぼんやりしている私はいきなりワっと泣いた。そしてハラハラ涙を流した後に「どうしたの。」と心配してくれる友達に「だって、昨日見た『ロミオとジュリエット』はね・・・、もう思い出しただけで涙が・・ああ・・」

 

ちょっと演技入っている私!?

  

 だけど定期テストを今週に控えた月曜日、アパッチと言うニックネームの担任が険しい目つきで入ってきて、開口一番こう言った。
「昨日の日曜日に映画館に行った人、このなかに何人いますか。」
バラバラと手が挙がる。「ぱらぱら」ではない、「ばらばら」だ。(私のパソコンでは見えづらいなあ)
「あなたたちは何を考えているの!!!」
―だって、今週で終わってしまうもの。― と声が上がる。
振り向くと、緑子も行っていた(緑子は私の中学時代の友人、仮名だけど)。

 

知ーらない、あたし。

 

 ところが、見た人の中で奇妙なことを言い出す人たちが多数現れだした。「ロミオとジュリエット」を観に行ったけれど「卒業」の方が良かったと言う意見だ。実はそれが多数派。レナードに夢中な私は、今更裏切らないが、なんとなく辛い。私だって「卒業」は良かったよ。サイモンとガーファンクルの音楽、ドライブのシーン、ラストの結婚式場から恋人を奪うシーン。涙が出ましたよ。でも、なんで「ロミオとジュリエット」が「卒業」に負けなくてはいけないんだ。何かが変。その頃は言葉を巧く使えなかった。今なら笑って言える。

 

 「何で、二つを比べなくてはいけないの?」

 

 二つとも桜と梅の花がそれぞれ好きなように、好きな作品だ。ただ「卒業」については「サウンド・オブ・ミュージック」と共に、見た年代で見たところが違うと言うテーマでいつか又加えて書きたいと思う。(いつかはいつか、ずっと、たぶん後) 「卒業」は、その内容を知らない人でも、そのラストだけを知っている人も多いのではないかと思う。上に書いたこととダブってしまうが、音楽の素晴らしさなくしては語れないと思う。 だが、「ロミオとジュリエット」の音楽が素晴らしくなかったわけではない。

 

―What Is Youth―こんな所で視聴できます。

若さとはつかの間の炎 
乙女とは欲望を秘めた氷
この世は移り行く バラは花開き、やがてしぼむ 
若さも愛らしい乙女も同じこと
甘い微笑みの 花開く季節が来れば 恋人よ 愛し合おう
結婚を考えるもよし 駆引きに明け暮れるもよし
でも僕は上手に切り抜ける
キューピッドは誰でも狙ってる 
たわむれに歌を歌おう
死はたちまちやって来て 僕達を沈黙させる
蜜よりも甘く胆汁よりも苦い
恋はけっして飽きない気晴らし
蜜よりも甘く胆汁よりも苦い
キューピッドは誰でも狙ってる

 

  私は今でも、この曲を聞くと涙が次から次へと溢れてくる。薄暗い教室で友達の前で涙した時と同じだ。あれは、計算ではなかったのだ。語ろうとすると涙が溢れ、切々と涙で語ってしまう。言葉は飲み込まれてしまう。

 この映画は、何処を切り取っても美しい一枚の絵画になってしまう。全て全てのシーンが美しい。街並みが綺麗だ、衣装が美しい。ロミオもジュリエットも若くて美しい。そして、俳優達の発声が素晴らしくて、心に染み渡っていく。シェイクスピアは古典だ。イメージ的にも格調が高い。見ていて、ああこれがシェイクスピア劇なんだなと、教えられたような気がした。時代が変わっても、そこにある若さゆえの一途な想いは同じである。長く生きることにより付ける事が許される老獪な智慧の鎧も、身にまとうこともなく無防備ゆえに、若さは愚かで儚く真っ直ぐすぎて悲しい。

  二人の最後の別れのシーンで、ロミオが「Adieu」と言って、朝もやの中を消えていくシーンが忘れられない。

 

 >死はたちまちやって来て 僕達を沈黙させる 
蜜よりも甘く胆汁よりも苦い 
恋はけっして飽きない気晴らし ・・・・・・ 

 ―命短し、恋せよ乙女♪ と同じ意味ですよね。
実際の恋はなくても、自分の人生には恋をして生きていきたいものだと思う。


 

 

ロミオとジュリエット
サントラ,グレン・ウエスン
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緑子への手紙 その2

2007-10-06 10:55:22 | ’08/12/7までの未整理日記

「緑子への手紙」の続き

 いつだったか・・・寒い季節の入り口だった頃、私はいつも行っている二番館で「ロミオとジュリエット」と「卒業」と言う二本立ての映画を観た。私の家のすぐ近くにある公園の角の電柱には、いつも決まってその映画館のポスターが貼られる。こと有る事に、その看板を見ていた私は、そこに映っていた青年に恋心を抱くようになっていった。

 

 レナード・ホワイティング。

私は、それまでの人生で(と言っても、わずか12年だったのだが)、こんなに美しい男の人を見たことがなかった。

 

              

 

映画の感想はここでは控えることにして、とにかく私はレナードの虜。彼は、知っている限りでは一度来日した。その時私は、街で偶然彼と出会い、そして彼が家にやって来るという夢を見た。英語を話す事が出来ない私は、夢の中でも殆ど話さず、見詰め合ってばかりいた。彼が帰国する日の朝、空港からわずかな時間の隙を狙って、電話をしてくると言う丁寧な夢の続きまであるおまけ付き。

 

でも、私の夢だと言うのに、私の都合よく彼は私を愛してはいなかった。夢のくせにー。

すがるように電話の向こうにいるレナードに語りかける私。いや、話せない、英語が話せないから。

「Adieu.」とロミオが言った。

「あたし、あなたに会いに行く。きっときっと会いに行く。あたしのこと忘れないで。」と日本語で言った。

 

いにしえの日本人は、夢に出てきた人が自分のことを思っているなどと、幸せな発想で生きていた。ああ、あり得ない事だ。

だけど、その夢の教訓も生きないで、私がその後せっせと英語の勉強に勤しむことはなかった。しかも、レナードに対しての想いも、意外と早くに冷めてしまった。なぜなら、次回作に恵まれず、私が知っているのは「アラビアのロレンス」のチョイ役で出ているらしいという噂しかない(あの少年がそうだったのか、と言う程度)。他にもテレビ用の映画だった「フランケンシュタイン」があるらしいけれど、見たような気もするが、どうも記憶が曖昧だ。

眠ってしまって起きたら、だんなが
「今日の映画は意外と面白かった。でも、最後がぶっちぎれていた。」と言ったのが、それだったような気がする。ああ、惜しい事をした。

 

 緑子、あなたはオズモンズに憧れて、彼らを理解したくて近づきたくて、英語の勉強を熱心にし、大学も英米文学を取り、短大の卒業後はアメリカに留学してしまった。その後も英語が生きる仕事に着いたよね。

 私にはそんな事はなかったけれど、ずっと世界史と言う科目が好きだった、。友人達は私が国文科に行ったと思っていたみたいだけれど、何処でもいいから、私は社会科の教員免許が取れる大学に行きたかった。歴史と言う物語の傍らにいたかったからだ。

ある時、丘の上の斜面に腰を下ろしながら、港の水平線を見ながら、私たちはおしゃべりをしていたね。

あなたは言った。
「あたしって、ちっぽけな心でちっぽけな未来ばかり見ているの。どうしようもなくアメリカが好きなのよ。」

私は言った。
「ちっぽけだなんて思わないわ。でも、あたしはイギリスが好きなの。未来はアメリカにあり、過去はイギリスにある。未来も過去も大切じゃない。」

足の下にある日本のことなんて何も見ていなくて、夢ばかり見ていた
13歳の頃。

 

あれから何年も、何年もたってしまった。
―未来はアメリカにあり、過去はイギリスにあるー
迷うことなくそんな言葉が言えた昔に、笑ってしまう。

 

    余計な事だけれど、近影。

果たして時は残酷だろうか。変わらない素敵な目をしていると思うのだけれど。

 

 

 

 

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緑子への手紙

2007-10-05 09:49:59 | ’08/12/7までの未整理日記

 あの時があるから今がある、と言うお話の一つです。

 

中学一年の入学式の翌日。

 朝礼で並んだ私の後ろ、彼女はそこにいた。仮に彼女の名前は緑子としよう。新学期だと言うのに、なんとなくけだるくて体調が悪かった私。

 

 だけど中学だからと言うものには、期待はあっても不安もなく体はブルー、心はピンクと言う12歳だった。

 

 朝礼が終わって教室に入るとき、緑子が当たり前のように声をかけてきた。

 

顔は知っていたが、小学生時代に一度も同じクラスになったことはなかった。パッとしない、だけど埋もれてもいない彼女、そんなイメージだった。私には何の興味もない少女のはずだった。

 

だけど、

「ねえ、今日さぁ・・」

まるで、昔から友達だったかのように話しかけてきた少女は、その後すぐに私の親友になり、今でもずっとずっと心の中で大切にしている「時の欠片」である。

 

 今年のバレンタインに書いたエピソードは、その彼女との思い出の一つだ。

 

 私たちは時々横浜駅のダイヤモンド地下街ジョイナスなどに遊びに行き、お揃いのものを買った。例えば校則破りの銀のリボン。私がポニーテール用に幅広なら、彼女は同じものの幅の狭いものを買った。二つに髪を分けていたからだ。

 

それから紙袋。そしてノート。彼女の模様はいつも星条旗。私の模様ははいつもユニオン・ジャックだった。

 

彼女はいつもアメリカを見ていた。私はイギリスに思いを馳せていた。

緑子がその頃好きだったのはオズモンズ。前はオズモンドブラザーズと言っていたが、いつの間にか名前が変わっていた。彼女は彼らのファンではあったけれど、取り分けダニー・オズモンドのファンだった。

 

 その思いはどんどんエスカートしていき、彼女は目はいつもアメリカに向けられるようになって行った。

 

 私がイギリスに思いを馳せるようになったのは、別にそれに対抗してというわけではなかった。

 

 中一の夏休みに私は「イギリスの歴史」と言う本を読んだ。世界の歴史のシリーズもので、続けてたぶん私はドイツの歴史、スペインの歴史、ロシアの歴史を読んだのではないかと思う。だけど、最初に読んだ「イギリスの歴史」の本の面白さとは比べ物にならなかった。かって、大英帝国と呼ばれ、あらゆる世界に影響を与えていたイギリス。イギリスの歴史を学ぶと、中世のヨーロッパが見えてくる。

 

―中学時代は考える時代である。人生の思考の原点が作られる。―

と、ずっと思っていた。自分の人生を振り返ってそう思っていたのだが、今、周りの少女達を見ていると、少し首を傾げてしまう。傍から見ると、実は私も何も考えていないように見えていたのかもしれない。または、何も考えていないように見える少女達のその内面は、土砂降りの雨のように思考の雨粒が降り注いでいるのだろうか・・・(信じられないが・・)

 

 だけど、今の,ジャニーズに心ときめく少女達との共通点は、しっかりとある。如何に私が真面目少女であったとしても、ユニオンジャックが、それで「オズモンドブラザーズ」率いる星条旗に対抗する理由が「イギリスの歴史」と言う本であるわけがない。

それは好きになる土壌を作っただけ。

ミーハーにはミーハー・・・・

長くなったので、又明日。

 

なつかしのダニー・オズモンドはYouTubeにてどうぞ→

 

 

 

 


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草原の輝き

2007-10-04 08:05:02 | 映画だい好き☆☆
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  草原の輝き

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  ワーズワースの詩について、書いてきましたので最後はこの映画について記しておきたいと思いました。
私は、ワーズワースの「虹」も「水仙」も知りませんでしたが、でも、その詩人の名前は知っていました。何も覚えてはいませんでしたが、たぶん詩集も図書室あたりで手に取った事があると思います。でも、なにぶん訳が古いので自分の知りたかったものにたどり着けなかったと思います。

知りたかったのは、この映画の中に出てくる詩の一節。


草原の輝き  花の栄光
再びそれは還(かえ)らずとも,なげくなかれ
その奥に秘められたる力を見い出すべし


ワーズワースの詩なんです。


小学生の頃の私とその友人は、見かけとは違って少しませていたのではないかと思います。又、友人の家はかなり裕福で、「スクリーン」や「キネマ旬報」と言った映画専門誌を毎号買っていました。
ずっと後から参入した「ロードショウ」も含めて今でもこれらの雑誌はあるんですね。

大人になってしまった今、この本の値段を見ると、840円前後で決して高くは感じられませんが、今の小学生の一ヶ月のお小遣いは高学年で、2千円前後だとするとその半分近くがかかってしまうわけですから、子供からしてみれば、決して「安い」と言うわけではないですよね。その比率は、昔も同じだった様に思います。私は、お小遣いの殆どを漫画雑誌に費やしていましたので、そこまでは手が出るわけもなく、友人宅でその雑誌を熟読する習慣になっていました。熟読と言っても、写真ばかりですが。


その頃の「スクリーン」には、いつもアラン・ドロンやオードリー・ヘップバーンが微笑んでいました。そして、それとは違った強烈な個性を放って、私たちの心を掴んでいたのが、ナタリー・ウッドでした。たぶん、その頃同級生で「ナタリー」の名前を出して、反応してくれるの人は何人もいなかったと思います。なぜなら、彼女の代表作である「理由なき反抗」1955年、「草原の輝き」「ウエスト・サイドストーリー」は1961年。まだ、生まれる前と幼児の時の映画です。私たちにとって、憧れているのにその映画を一本も見ていないという、不思議な女優でした。昔の銀幕のスターと言うものはそういうものだったのかもしれません。

その頃特に、読者のページ欄などで、この「草原の輝き」についての感想などが載りますと、その映画タイトルからも、いつか見てみたいと憧れるようになりました。「理由なき反抗」や「ウエスト・サイドストーリー」などは、リバイバルによりその後映画館で見るチャンスがありましたが、この作品はチャンスに恵まれませんでした。

「今」と言う時代しか知らない人には、上の文が理解できないかも知れませんね。DVDもビデオもなかった頃は、映画は映画館で見るかテレビで見るしかなかったのですよ。

だけど、ある時ふと点けたテレビの午後のロードショウで、やっていたではないですか。たぶん私は中学生にはなっていたと思います。なぜなら、「性」と言うものを知らなければ、この映画をわかってみることはできなかったからです。

そのあらすじ<Goo映画より>
バッド(ウォーレン・ベイティ)と、ディーン(ナタリー・ウッド)は高校3年生。愛し合っているが、セックスに罪悪感を持つ母親の影響もあってディーンはバッドのすべてを受け入れるに至らない。バッドの父石油業者のエイスは息子がフットボールの選手であることが大自慢で、エール大学に入れたがっているが、バッドには父親の期待が心の負担になっている。それにこの父は、理解あるりに振舞うが本能的には暴君で、姉のジェニーが家出してダラクしてしまい、大学を追われたのも、このような父のいる家庭がたまらなかったからだ。だからバッドの気持ちはひたむきに向かうのだが、彼女はそれを受けとめてくれないのだ。父は気楽な気持ちで他の娘とよろしくやればよいなどという。そんなことでイライラした気持を、バッドは折にふれて乱暴な行動で爆発させたりする。そしてついに彼も同級生でコケティッシュな娘ファニタの誘惑に負ける。青春の悩みに苦しんでいるディーンはこの事件でショックを受け、河に身を投げる。救助に飛び込んだバッドのおかげで死を免れたディーンは精神病院に入院するが、そこでジョニーという若い医師と婚約する。一方、父の希望通りエール大学に入ったバッドは、勉強にも身が入らず、酒ばかり飲み、あげくにアンジェリーナというつまらないイタリア娘と結ばれてしまう。学校は退学寸前のところまでいっている。そこで父のエイスはニューヨークへ出かけようとする。ちょうどそのころ、1929年の大恐慌がやってきた。エイスは大打撃をかくして息子に会い、コーラス・ガールをバッドの寝室に送り込んだりするが、その夜窓から飛びおりて自殺する。やがて退院したディーンは、バッドが田舎へ引込んで牧場をやっていることを知り、訪ねて行く。バッドはアンジェリーナとつつましく暮らしていた。2人は静かな気持ちで再会し、そして別れた。青春は終ったのだ。





最初の方の高校の授業で、その詩の朗読をするシーンがあるのですが、最後にバスに揺られながら去っていくシーンで、彼女がワーズワースの詩を口ずさむのです。この映画は、この詩があってこその映画だと思います。

今思うと、「性の自由さ」と言うのは、精神的な進化なのでしょうか。なぜなら、愛していても心を病むまで悩む愛と性の狭間に揺れる青春が、勝手のアメリカにはあり、それを理解でき共鳴する多くの日本の若い女性が、「スクリーン」などの読者欄に感想を送っていたのだと思います。
今と言う時代がそんな時代ではない事は、確かなことだと思います。

私自身も、この映画で学んだ事は
― 一つの時代が終わりを告げても、新たなる旅たちの時が来る。―というような感動ばかりではなく、時には自分の心に素直に生きると言う事の大切さだったかも知れません。




Though nothing can bring back the hour of splendor in the grass, of glory in the flower, we will grieve not. Rather find strength in what remains behind.



ナタリー・ウッドは、「プロ・スパイ」と言うテレビドラマで人気があったロバート・ワグナーと、一度は離婚したものの、紆余曲折した後二度結ばれました。
1981年「ブレインストーム」と言う撮影中ボートの転覆事故で亡くなりました。 43歳。・・・・悲しかったですよ。
コメント (2)
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