森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

雲の上の父上様へ

2020-11-13 23:38:01 | 父へ

父上様

今日はお父さんの誕生日ですね。

名都さんが言っていましたが、命を繋いでいたらなんと91歳だそうですよ。

残念ながら、お父さんは83歳で今生ではカウントすることを止めてしまったわけですが、それでも私たちが生きて、お父さんの事を思い出す限り、その歳は数えられていくわけですね。

 

・「秋薔薇と十月桜2020」と言う記事の中に書いたことですが、

>『11月13日は亡くなった父の誕生日で、その前後の土曜日には、母と姉妹と叔父夫婦と横浜で暮らすラッタさんなどと一緒に、父の墓参りに行き、その帰りに街中温泉によって、集まった事を楽しむ会をしてきました。

だけど今年はすっかりそれさえも忘れ、その日に出掛ける予定を立ててしまいました。

姉妹たちからも、その話はまったく出ません。母でさえ、今年の初めまでずっと続けていた祥月命日の墓参りを止めてしまっていました。

やっぱり2020年は、普通と言えるはずもない一年なのでしょう。』

だけどちゃんと夕方名都さんから、ラインにメールが入りました。

「今日はお父さんの誕生日だよね。」と。

そしてみんなでその話をしながら、お父さんの誕生日の事を思いだし話し合ったのですよ。

 

大丈夫 !

まだお父さんは私たちの中で生きていますよ。

この前、実家に帰った時に、

「お父さんが時々夢に出て来て、それは意外と怖い夢なんだけれど、だけどいつも大事な事を教えてくれるよ。」とお母さんに言いました。そしたら、お母さんが

「花ちゃんを頼りにしているんだよ。これからもよろしくね。」と言われました。

お父さん。

本当はお父さんが夢に出てくると、私はとっても怖いんです。だって、もうこの世の人ではないと知っているから。でもお母さんの話を聞いて、やっぱり時々、いやごくごく稀で良いので(相変わらず正直です、私)、やはり夢に出て来て、大事な事のヒントをくださいね。

 

お父さん。

私、この前、日光に行ったんですよ。その時、あまりにも風景が美しくて、だから、お父さんの事を思い出しました。お父さんだったら、この風景をどんな絵に描くのかしらと思ったものですから。

あなたと今なら、絵の話がしたかったです。そして私の撮った写真を、お父さんに褒めてもらいたかったです。

「写真が綺麗だね。」とお父さんに言われると、私は本当に嬉しく思ったのですよ。お父さんが亡くなった年、私はしばらくの間、何かにカメラを向けただけで、これからは誰が褒めてくれるのだろうかと思ったらめそめそと泣きたくなって、涙を零していたのです。

だけど今日、私は栃木の前から行きたかった所に行き、またその後1000段の階段を上って来たのです。

今もあの時と同じような事をして暮らしています。やっぱり時々褒めてもらいたいなぁと思いながら。

 

今年はお墓参りには行けなかったのですが、お正月には家族で行きますね。

あっ、そうそう。今年は一族で集まる新年会は無しですよ。寂しいお正月になりそうです。

2020年は大変な一年だったのです。

いつかこの疫病も収まって、またいつか賑やかなお正月迎える日が来ますように。

私たちは四人でずっと賑やかに、ワイワイと仲良くやっていきますから、お父さん、安心してね。

 

じゃあ、またね。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秘密の小箱の「ひみつ」

2017-05-27 02:26:56 | 父へ

先日、実家に帰った時に、ちょっとだけ不思議な事がありました。

母のこの時の話題は、近所に入った泥棒の話でした。同じ地域に数件も空き巣が入ったらしいのです。物騒な事です。気を付けても気をつけすぎる事はありませんよね。
そんな話を終えて、いろいろなおしゃべりをしていたら、母が
「あっ!!」と言って席を立ちました。
「どうしたの?」と聞くと、
「庭に誰かいた。」などと言うのです。

庭などは母のいた方からしか見えません。
「嘘~!?」と私は言ってしまいましたが、先ほど空き巣の話をしたばかりで、不安になった母はすぐに他の部屋を見に行きました。

私は信じていなかったのか席も立たずにお茶などを飲んでいました。

だけど・・・・。

私の座っているところから廊下にかかっている絵が見えていたのでしたが、ケース型の額に入っているその絵に、さっと影が走ったのでした。

「おや、まあ。」と、私は呑気に立ち上がりました。

家の中などには、誰も入ってきていない事は分かっている事です。だけれど先ほど、気を付けられるだけ気を付けた方が良いと思ったばかりです。そっと忍び足で歩いていき、一応トイレとかお風呂場とかドアの影とかチェックしに行きました。

やっぱり誰もいないなと確認し戻ってきた私。
母も戻ってきました。

「きっと花ちゃんが来ていると分かって、お父さんもやって来たのね。」と母が言いました。

父が居た頃は私が遊びに帰って来ると、朝食の後、長い間三人でおしゃべりをしたものです。

「きっとそうね。」と私も言いました。


姉たちが建てた今の家ではあまりない事だと思いますが、昔の我が家ではよく気配とかちょっと不思議な事とかたくさんありました。だから勘違い妄想でも、なんだかフツーの会話として成り立つのでした。

私がちょっと不思議と思ったのは、そんな勘違い妄想かも知れない事ではありません。

「それにもうすぐ命日だしね。」と母が言って、
「そう言えばそうだ。じゃあ、やっぱりお父さんだね。」と私が言ったその時に、座っている私の視界にいきなり飛び込んできたのは、棚に無造作に置かれた薄汚れた小さな缶だったのです。

缶の上には竹宮惠子の可愛いイラストが印刷されています。元はチョコレートでも入っていたのでしょうか。

「なんだ、これは ?」
と、開けてみると、中にはメモリーカードが数枚入っていました。

あんなに父の部屋は片づけたのに、これはいったいどこから出てきたのだろうかと私は思いました。

それはなんだか秘密の小箱のような気がしてしまいました。

母もそう感じたのかも知れません。

「このメモリーカードに何が入っているのか見てあげるね。」と言うと、母は凄く嫌がりました。


秘密の小箱には「ひみつ」が入っているものですから。


ふたりは若くして出会い、そして若くして夫婦になりました。ある意味、二人は何処か幼いままの夫婦であったかもしれません。
父にはいつも女性の秘密が見え隠れしていて、母との人生をドラマチックなものにしていました。

秘密の小箱の中の「ひみつ」はそんな父の秘密なのでしょうか。


私は嫌がっている母の目を盗み、サッとその缶をバッグに仕舞ってしまいました。


そして家に帰った私は、そのメモリーを開いてみることにしたのです。
なぜなら、あの話の流れでその缶を見つけたのなら、そこには父の意志があるような気がしたからなのです。

 

 

トップ画像は、そのメモリー内にあった父の撮った写真です。

そして他の写真は、あちらこちらに行った旅行の写真や地域のイベントの写真。私たち姉妹と行った奈良旅行の写真など思い出深いものが写っていました。

2011年の3月11日は地域のバス旅行に行っていた父。震災のせいでバスが動かなくなり、帰宅が深夜になってしまったのでした。その時の旅行の写真は、この後に大変な事になる事も知らずに楽しそうにしている姿が写っていました。なんだか貴重な写真に思えました。この旅行には母は行きませんでした。だから母は写っていません。だけれど、他には母の写真がいっぱい写っていました。

旅行の写真に母。地域のイベントの写真に母。電車で他の人たちと大笑いしている母。公園でひとり澄まして立っている母。近所のおばさんと並んで笑っている母。ベンチに寄りかかっている母。

こんなに歳を取った妻を写す人っているのだろうかと、思わず我が夫殿と比べてしまいました。

 

秘密の小箱の「ひみつ」はこれだったのかと私は思いました。

 

月命日に必ず今でもお墓に参る母。

そんな母に、

「花ちゃん、ちょっとママちゃんに伝えて。僕の気持ちを。」と父は言ったのかもしれません。

 

すぐに私は姉に電話して言いました。

「あのね、お母さんに伝えて。お母さんがたくさん写ってたって。お母さんしか写ってなかったって。」

 

 

※          ※           ※

 

下の囲みは昨年の5月25日に投稿したものです。5月2日に姉妹で出掛けた事を遅れて書いていました。その追記の中で26日に恩賜公園内に居た象のはな子さんが亡くなった事が書かれていました。

その記事を読んでいてしみじみと、象のはな子さんの事を思い出していましたが、ふと、「26日って言ったら!!」と、父の命日と同じじゃないかと思いました。

 

あの日もさあ、お父さんもお母さんはドラマチックだったよね。

その日の事を書いた「今日は良い日だね その1」を読んで、私はちょっぴり泣いた。でも「今日は良い日だね その2」で、少し笑ってしまったんだ。


 
井の頭恩賜公園は森の中
 5月2日に訪れた、吉祥寺駅から数分の所にある井の頭公園は、思った以上に森の公園でした。その日は、姉妹3人で「萩尾望都SF原画展」を見に行ったわけですが、大きな公園が大好きな私......
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白川郷の箱庭

2014-08-16 22:26:11 | 父へ

ある時までその良さがちっとも分からないのに、突然

「あらっ!?  これってなかなか良いもんだったのね。」と気がつくものってありますよね。

父はある時ずっと紙粘土工作に凝っていました。

結構好きな作品もあったのですが、その父の作品に白川郷の合掌造りがあったのです。

それを最初に見た時、なんかジジイくさいと思ってしまった私。

 

父は居なくなってしまったけれど、母はその合掌造りで玄関横にコーナーを作っていました。

父の作品を今でも大切に思っているのです。

 

先日実家に帰った時に、いつもどおり朝早く起きた私は、これと言った用もないけれど外の空気を吸いに庭にでてみました。

その時、そのコーナーをしみじみと見てみました。

 

その時ふと、

「これって、結構素敵だったんだ。」と思ったのです。

でも、これはなにか間違えているよなとも思いました。

 

まあ、母は80過ぎの婆さんですから、背後に山に見立てた石を置いたところまででかなり褒めても良いところなのかもしれません。

 

外はかなり暑いし、あまり頑張り過ぎない程度にちょっと手を加えてもいいかと母の許可を得て並べ替えることにしました。

こんな感じです。

 

 

 

花は今はポットのままですが、家のお庭担当大臣に、つまり姉の旦那さんですが後ほど鉢に入れ替えて貰う予定です。

庭には余分な花がなかったので、派手すぎないこの花たちだけは買ったのですが、背後の植木は庭にあったものです。

やっぱり背後の山には木々のイメージがなくてはね。

こうして画像に収めると、手を加えて直したいなと思うところもないわけではないのですが、実家は近所というわけではないので、これで良しということにしようと思います。

 

ちょっと緑に沿わしたり、テーマを持たせたりするだけで、楽しさが変わったように思いました。

 

 

完璧ではなくても、母が喜んでくれたので良かったと思いました。

きっとお盆で帰ってきた父も・・・・

むむっ。

もしかしたら、これって、私は父にやらされたのかも・・・・な~んちゃってね。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父からの贈り物

2013-11-14 09:18:55 | 父へ

父は本当は11月13日の自分の誕生日に死にたかった。世の中ままならぬことは多いが、病気などの自然死においては死ぬ日の予定日ほどままならぬものはないと思う。

私や姉が、4月の終わりには後1ヶ月その命は持つのかと重い気分でいた時、父は朝が来ると普通に食事をして自分の部屋に行って諸々の雑務をこなしていた。そんな父には、自分の死期がそんなに早く迫っているとは思えなかったに違いない。

そんな父を見ていて母は言った。

「そんなには持たないとお母さんは思うの。私の予想では10月かなあ。」

そう言った母を、私は半ば呆れたような気持ちで見返した。

でも私は気を取り直して、そして言った。

「生きてて欲しいよ、誕生日まで。だけどその願いが叶わなかったら、その日はみんなで集まって誕生日を祝い合おうね。」って。

 

※       ※        ※

 

11月13日、父の誕生日。

私達四人姉妹と母とで墓参りに出かけてきました。

真っ青な空が煌めいて、昨日までの冷え込みがちょっと緩むという小春日和でした。

母がお赤飯のおにぎりを5つ握ってきました。

それを供えて、私達は一緒にちょっと祈り、そして言いました。

「おとうさーん、84歳の誕生日おめでとう~。」

 

 でももう父には何も贈ることが出来ないので、今年は代わりに母に何か受け取ってもらいたいなと思って姉妹で用意したのはアメジストのネックレスでした。

 冬になると黒のネックの服が多くなる母なので、この紫は素敵だなと思って選んだのです。重いと肩も凝ると思って小さめなものを選びました。

予想通りですが、喜んで貰えました。

 

と、なんとなくこのように書くと、楚々とした誕生日風景のような・・・・

だけれど女三人集まればかしましいと申しますが、なんたって5人もいるわけですから、墓参りと言っても誕生日祝であって賑やかでないわけがありません。父のお墓の横にあるベンチとテーブルを囲んで供えたお赤飯のおにぎりを皆で頂きながら笑い声が絶えませんでした。それはまるでプチピクニックのようです。父がお墓の区画で端を選んだその決め手は、その横の綺麗な芝生と置いてあるベンチでした。

私達の誰もが知っていました。

父が望んでいたもの―それはそんな女達の賑やかな風景だったのです。

 

 

今回初めて通ったのですが、駅からバス停に行くまでの商店街は何やら面白そうな雰囲気でしたし、少し足を伸ばせば動物園などもあるのです。父は前から言っていました。

―墓参りにだけ来てもつまらないでしょ。いろいろ遊んで帰るんだよ。

と。

 

それで昨日13日の日は、その後皆で健康センターと言うか、街中温泉に行ってきました。

マッサージチェアや薬湯などを堪能し、贅沢な一日になりました。

 

 

※         ※          ※

いつもはもう正月にしか顔を出さなくなってしまった夫が、今年は5月の連休に実家を訪問しました。

その時、庭の柿の木の緑がとっても美しかったのです。

「最近はずっと冬ばかり来ていたから、この木がこんなに存在感を感じさせたことはなかったなあ。」と夫が言うと、父が
「うん。この柿は一年おきにたくさん実るんだ。今年は実るぞ~。」と言ったのでした。

 

その言葉通り、今年はその柿がたくさん実ったのでした。

と言っても、その柿の収穫日に行ったわけではないので、実っている柿の画像はないのですが、姉がふうふう言いながら電話を掛けてきました。

「今までで一番なの。収穫したらお母さんがどんどん近所に配って歩いてる。多分300は超えたな。」

「お姉ちゃん、それってお父さんからの贈り物なんじゃ・・・」と私がそう言いかけたら、姉も言いました。

「うん、私もそう思ったよ。」

送ってもらったその柿は、まだちょっと硬くて、その柿をカリリと噛ったら、ちょっぴり涙がこぼれました。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寝ずの番

2013-06-22 08:54:38 | 父へ

《風のように人生を過ぎていく。番外編2》

番外編1〈通夜の夜〉》の続きです。

 

「こんなに早くなんか寝られないや。」と言っていた夫は9時半頃にはグーグー。
前日に、引越しをしていた超ハードスケジュールの妹たち夫婦はスヤスヤ。
いろいろ気疲れの姉夫婦もムニャムニャ。
いつもの睡眠時間の母はとっくに夢の中。

帰ってきたラッタくんさえ5分待たずにぐっすり。

とにかく時間外の人はみんなが寝てる・・・・・。

なんで私だけがお目目、バッチリなの。

体操したりトイレに行ったり・・・・。

トイレを出てきたら母の叔母が、つまり私の大叔母と遭遇しました。

「眠れないのか?緊張してるんだなあ。」と彼女が言いました。

緊張―そうかも。私はちっちゃい心の女なの。 いやいや、「狭い」と言っているのではなく「ちっちゃい」。そこの所大事です。

 

こんなに眠れないなら、時間外で行くかなと思ったけれど、あれはやっぱり時間を決めておいて良かったのだと変なところで気が付きました。だって通夜の場所に泊まりこみなら何の心配もないことだけれど、家から行くのでは鍵の数が足りないじゃない。

と言うことは好き勝手には行けないということでもあったのですよね。

とにかくお目目ランランのまま午前2時の丑三つ時がやって来ました。

私、嫌な予感がして来ました。

私の事だからきっとやっちまうなと・・・。

 

私と姉は2時から5時までの寝ずの番です。時間をずらして2時から3時までは姉妹4人の時間を持ちました。

この1時間で父の最期の時の様子をまたゆっくり話したり、私の携帯に残っている父の留守電を聞いたりして、皆でハラハラと泣きました。

父は本当は11月13日の自分の誕生日に死にたかったのです。4月の終わりには移動する時には苦しかったものの、後は普通に暮らしていた父。あっという間のまさかの1ヶ月だったかも知れません。ただ医師の話を聞いていた姉と私だけはそう思ってはいなかったのです。父の願いは知っていたので、その11月13日は何かをしようと思っていました。そのことを妹達に告げたり、来年のお正月は「お正月」という名前ではなくても、やっぱりみんなで同じ様に集まろうなどとお話したりしました。

そんなこんなで1時間の時間が過ぎ3時に妹達が帰って行くと、やっぱり思っていたことが起きたのです。

ネ・ム・イ

ネムネムネムイ・・・・。

待っていた眠さがやってきたのです。この眠さを逃したくない私は、姉に正直に言いました。

「寝ても良いかな~?」

―なんで今寝るのよ、ガミガミガミ

なんてことは絶対に姉からは言われないのです。

「いいよ、いいよ。じゃあ、私は下に行ってお線香をあげたりして祭壇の所に行ってるね。」

すでに半分寝ぼけちゃってる私は、それでもムニャムニャ言いました。
「もしかしたら、これって怖くない?」

「・・・・・」

もう私は夢の中。なんたってカウント5で寝られちゃう人なので。

 

バサッと倒れこむように寝てしばらく立つと、体がゆさゆさ揺れました。

―うわっ、地震なの。こんな日に。下では火も使ってるし。

と飛び起きて周りを見回すと電気のスイッチの紐も揺れてない・・・。

あれっ?

う~む!

私はちらりと二階にも飾ってある父の写真を見て
「もしかしたら、起こした?」と聞きました。

―そうだよ。みんなちゃんとそれなりにやってるのに、なんでお前だけがここに来て寝てるんだ。
と、心の中で声が聞こえましたが、それは自分の声であって父の声でなかったのは逆に残念でした。

階下に降りて行くと、姉が一人静かに手を合わせていました。

その後ろに座って同じように祈りはじめたのですが、なんたって眠くて体がモニャモニャ動きます。

すると姉がイキナリすごい笑顔で

「ああ、ありがとう。早めに来てくれたんだね。」と振り向いたのでビックリしました。

振り向いても、まだ誰も来ていません。

「何をおっしゃってるの。誰も居ませんよ。」

「えっ、だって、誰か人の気配がしたじゃん。」

「えーっ、やっだー。しないよ。そんなの。 あっ、これかな。」と体をモニャモニャ動かすと、椅子がキシキシ音を立て

「ああ、それだね。その音だね、きっと。」と姉は言いました。

なんでそのような怖い演出をするのだと思いながら、眠い目をこすりつつ、姉の後ろで手を合わせて祈っていました。

と、その直ぐ直後、突然ガタッと音がしたので、私はまたビックリして漫画のように
「うわっ!!」とピョンと飛び上がってしまいました。

だけどそこには私と妹の夫たちが立っていたのでした。

「ああ。本当に早く来てくれたんだ。」

驚いたので満面の笑顔ではない私がそう言っても、何が「本当に」なのかわからない彼らでしたが、 とにかく早く来てくれたので助かりました。

 しかも早く来たので、鍵を持っている義兄を置いてきてしまったとのことで、家は鍵が開いている状態。急いで帰る口実も出来、びゅううと帰った私は布団に倒れこみ、ぐっすり2時間ぐらい寝た頃、下の子供〈ルート君〉が起きました。

彼は前日までの仕事がハードすぎていとこ同盟から離脱していたのです。

「起きたけれど、どうしよう。」と言うので
「まだパパがいるから、今から行けばいいと思うよ。やっぱりチョットでも参加した方がいいよ。」 と言うと、出かけて行きました。

いつも夜の睡眠時間が短く朝も早いので、私ももう気分もスッキリで朝食の支度のお手伝いに起きました。

 

この寝ずの番は、朝7時までやったのですが、最後の夫たち+ルート君が帰って来ると、彼らは不思議なことを言いました。

「30分ぐらい前なんだけれどさあ、ルートが来て義兄さんが先に帰った頃、俺達二階で話していたんだよ。そしたら階下で『バッターン』っていう大きた音がして、『やばい、何かが倒れたんだ。』って三人で下に駆け下りたんだけれど、なんにも倒れてなんかいなかったんだよ。その音は三人とも聞いたんだよ。」

それを聞いて、私が
「実はお父さん、私達と一緒に側に居たね。それでふと気がついたらすっかり夜なんて明けちゃっていて『マズイ! すっかり朝じゃないか』って慌てて帰った音だと思うな。」と言うと、妙にみんな納得したのでした。

「そう言えば、私も真夜中に体がゆらゆら揺れて・・・」と言うと、
「それは、あなたが勝手に寝ぼけただけでしょ。」と誰も聞いてくれない・・・・

ショボーン・・・・・・。

 

※        ※         ※ 

「デル」という噂で怖いからと言って、そこには泊まらなかったのに、真夜中にひとりでその広い部屋に寝ちゃって、もう片方ははやっぱりひとりで祭壇前に座っていました。 

「いつもなら、昼間だってひとりでここに座っててって言われても、怖くて出来ないわ、私。」と姉は言いました。

そんなことが出来た通夜の夜。

あの時「もしかして、これって怖くない?」と私が寝ぼけながら言うと

「大丈夫。お父さんが一緒だもん。全然怖くないよ。」と姉は言ったのでした。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

通夜の夜

2013-06-17 23:33:06 | 父へ

《風のように人生を通り過ぎていく、番外編》

書き終わってもいないのに、早くも番外編・・・
まあ、いいか。

《その5「今日はいい日だね、その2」》の続きです。

※        ※        ※

ずっとずっと昔、まだ私に子供もいなかった頃、山梨の祖母が亡くなりました。その祖母とは子供の頃にも1年に一度会うか否かで大きくなってからは殆ど会わず、祖母も孫の名前をちゃんと覚えていないそんな関係でした。

だけどどうも私は血の繋がりを大事に思うタイプなので、「祖母」という名の人がそんな遠い関係の人であることを寂しく思っていたのです。それで結婚してから夫を連れて私の両親と一緒に祖母が住んでいる叔父の家を訪問したのです。その日は特別な思い出深い日になりました。その後祖母の口から私の名前が出るようになったと風の便りに聞いて嬉しく思い、せっせと密かに暖かい下着を集めていました。纏まったら贈ろうと思っていたのです。

だけどそれを送る日も待たずに祖母は逝ってしまいました。

その葬儀に参列して、初めて気がついたことですが、私は本当の通夜というものに経験がなかったのでした。通夜といっても、通夜の式に参列し精進落としの料理を食べて帰るという段階のことではなく、その後のことです。

父が亡くなってから通夜の日までは5日間の間が空いていたので、私は普通に仕事をしていたのですが、
「今週の土曜日にはお通夜に行かなくちゃ。」と言うと、そこに居た子供たちは
「良いな、ご馳走を食べるんだよね。」とみな言うのです。

実は私も昔はその程度の発想しかありませんでした。精進落としの客たちが帰っても、残った家族や親族は酒を飲み交わし賑やかに故人の思い出話に華を咲かせるのかと思っていたのです。

だけど家族と親族だけが残ると、
「シーン」という音が部屋中に満ち溢れました。何かを話したくても、歳の若い私が、しかも日頃からお付き合いのない親戚に対して話を振るなんてあり得ないことでした。

―静かだなあ・・・

と思ったその時、妹がツンツンと腕を突き小声でコソコソと以下のことを言ったのです。

「お姉ちゃん、あのさ。あまりに静かなんで、『凄いな、この静けさは。まるでお通夜みたい』って思っちゃった途端に」

オチを待たず、私の顔はニマァっとにやけてしまいました。

「『あっ、本当のお通夜だった。』って気がついたの。だから静かで良いのかって。」

箸が転がっても可笑しく感じた若き日、ちょっと笑いを堪えるのが大変でした。

しかし「お通夜のようだ。」という言葉があるくらいなのだから、通夜の夜にしんみり、またはシーンと静かなのは正しきあり方なのかもしれません。

 

でもそれって、我が家流お通夜の夜には当てはまらないような、そんな気がしてました。

あっ、今気がついたのですが、「お通夜の夜」っていうのは「頭痛が痛い」と同じ感じでしょうか。

って、それもまあ、いいや。

 

父は町会であれやこれやとやっていた人で、町内会館には思い入れのある人だったと思います。なので葬儀はそこでやることにずっと昔から決めていたようです。

今は葬儀場などを借りてやると、通夜の寝ずの番なども夜通しはやらないのだそうですね。

20年以上前に自宅で葬儀を行った義父の時も、夫たちは皆そこに泊まったというのに、明日のことを考えてある程度の時間が来たら皆寝たのだそうです。

町内会館の二階には、その寝ずの番の為に泊まれるようにもなっているのですが、なにせ葬儀にも頻繁に利用される会館ゆえに、なにやら「出る」という噂もあるのです。明かりを消して寝ていたらドア付近に知らない人が立っていた・・・なんて噂ではないのですが、もしもそんな人を目撃しちゃったら怖いので、そこに泊まるのはナシにしました。理由はそれだけではなく、家のほうがリラックスして寝られるからというのもそうだったのですが。家も近いし、家から順番を決めて通うことにしたのです。

この順番は予め姉と二人で決めておいたのですが、その時義兄に注意されました。こういうのは気持ちでやるもので、何の権限があってそれを決めるのだと。それはもちろん私が言われたことではありませんが、至極もっともなご意見だったので、引き下がりました。だけどその決めた一覧表のメモは破棄せずに、バッグの取り出しやすい所に入れて行きました。なぜなら予感があったのです。

もしも気持ちを優先して「寝ずの番」を行うと、誰かがめちゃくちゃ頑張るかまたは誰もがちゃんと寝ることが出来ないか、もしくは義父の時のように、「まあ、この辺で。」と言うことになると思うのです。儀式にどれだけ拘るかでやり方が変わってくるのだと思えたのです。

お葬式というものに「慣れる」ということはありません。おおまかな流れは葬儀屋さんが教えてくれるものかもしれませんが、その他の小さなことは、自分たちの考えが生きてくる儀式なのだと思いました。

 

実際にその日の夜が来ると、他の姉妹とその連れあいから担当の時間を決めてと言われました。

「みなさ~ん、聞いてください。担当する時間はおおまかに決めておきました。異議がなければこのようにお願いしま~す。」

 とバッグに入れておいたメモを取り出し言いました。なんたって4人姉妹にそれぞれの連れあいと子供たちなもので、決して「お通夜みたい」という夜にはならない我一族だったのです。

 しかも我が家流は、若き日に抱いたイメージの賑やかに思い出話を死者の傍らで語り合うという寝ずの番であって欲しかったのでした。

 

だから早い時間は孫達全員、つまりいとこ同盟が担当することになりました。いつから同盟などというものになったのかはわかりませんが、親たちは勝手に呼んでいました。

 

だから、 時間になって戻ってきたラッタくんに私は聞いたのです。

「お通夜なので「楽しい」と言う言葉はないけどね、それなりに良かったですか。」と。
「うん、それなりに意義のある時間ではあったよ。」と彼は言いました。

 

ところでこのお話が、なぜ《番外編》としたかなのですが、それはこれからのお話を読めばわかります。

みんながそれなりにちゃんと眠れるように予定を立てたのに、私、全く眠ることが出来なかったのです。目を瞑れば5分どころかカウント5で眠ることが出来る私。だけど、まーったくお目目冴え冴え・・・

 

だけど、長くなったのでまた明日。
 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は良い日だね その2

2013-06-07 09:02:51 | 父へ

 

《風のように人生を通り過ぎていく、その5》

その4「今日は良い日だね、その1」》の続きです。

 

親の死に立ち会えるか否かは、言葉は適切ではありませんが単に運の善し悪しだと言えるのかも知れません。だけど時には何かに導かれたようにそこにたどり着いた私。導かれたのには意味があったのだと、その時を迎えた時私はそうはっきりと思いました。私には私のやるべき仕事があったからです。

だけど間に合わなくてそれを電話で知った妹達はどんな気持ちだったのでしょうか。

その日の夜はドライアイスの害に合わない距離に父と同じ部屋に布団を引いて姉妹で眠りました。その時に私は一番下の妹にその時のことを聞いたのです。

最初、姉から5時まで持たないかもしれないというメールが行きました。その後さほど時間も空かずにポケットの中にあったスマホが鳴った時、妹は「ああ、もしかしたら」と覚悟したのだそうです。姉からの電話でそのことが告げられると、我慢しきれず泣き崩れた妹。その様子に「どうしたの。」と一緒に仕事をしていた人が駆けつけて、理由を話すとすぐに帰って良いことになったのだと言いました。

寝る前に父に線香をあげ二人で祈り始めると、後ろから妹の嗚咽が聞こえて来ました。
ちらりと振り向くと 妹と目が合い、私はウンウンと頷いてまた前を向いて祈りました。

だけど思わず涙が溢れて来ました。それは父を想っての涙ではありませんでした。

目の前にまるで見たかのように妹の姿が浮かんできたのです。

姉からの電話
―今ね、おとうさんが亡くなったの。眠るようだったよ。

―分かった。分かったよ。

我慢したくても溢れだす涙。次の連絡のために一方的に切れる電話。妹はその電話も切ることが出来なくて、溢れる涙も止めることは出来なくて ・・・

ああ、どんなに切なかったことだろう。

 

※          ※         ※

 

本当は分かっていたのです。人前では泣くまいとする無用の努力が母の行動をとんちんかんなものにしていたのを。分かっていながら、何度も「!」と思った私。

今思うと、この日を映画っぽく演出したのは、この人だったのかも。

父の残された時間が殊の外短いのだと知らされた私たちは、父の傍らでジュースパーティをすることにしたのです。みんなで楽しかった父との想い出の話をすることにしました。と言っても話しているのはおしゃべりな私。

私は甥と姪は行かなかった奈良旅行の時の話をしていました。東大寺の帰り道、タクシーが捕まらなくてもうちょっと行けばもうちょっと行けばとあまり歩けない父をかなりの距離を歩かせてしまった話。

「結局さあ、バス停までたどり着いちゃったのよ。」
「酷いね~。」と、甥と姪は笑いながら言いました。
「もうあんなハードなのは、私達でも無理だわぁ。たった3年ぐらいまえのことなのに、こっちも歳を取っちゃって・・・。」って、あの時父と母を振り回したくせにぬけぬけ言う私。

「でもね、帰る時虹が出たのよ。まるで見送ってくれるように。」
「へえ・・・。」

とみんなが頭の中にそれぞれの虹を思い描いた時、父の息が止まったのです。

「あっ!」
「あれっ?」

これが聞いていた無呼吸なのか・・・。

「お姉ちゃん、時間測って・・」

少しの沈黙があってまた短く息をする父。

そしてまた止まる息。

私が看護師さんから無呼吸状態が来ると聞いた時、抱いたイメージは無呼吸の発作が起き、また通常の荒い息に戻り、またその状態が続き、そしてしばらくしてまたその無呼吸が起き、そしてそれを繰り返すと言うものだったのです。 

だけど父を見ていて、これは違うなと感じました。

私は父の胸をさすりながら

「みんなおとうさんに感謝してるよ。立派だなって誇りに思ってるよ。おとうさん、大丈夫だから安心してね。おとうさん、大丈夫だよ、怖くないよ。みんな逝く道だよ。怖くないよ。・・・・・・・」

この「・・・・」の部分は、父と私とそこに居た家族だけの秘密の言葉。いわゆる宗教的なものでした。後で思い返すと、「・・・」の部分をちゃんと書いても3行ぐらいの言葉を、その時に言う為に私はそこに居たのだと思わずにはいられないのです。

私は妙に冷静でした。

父の息は三回止まりました。父がそういう状態になって、それを目の当たりに見たら涙だってこみ上げてくるのも自然だと思います。だけど最初、上に書いたとおりまたこの発作は収まるかもしれないと思っていた私は、
「泣くのはまだ待て。まだ死んでいないから。」などとすっとぼけた事を言う・・・・・

でも3回目の無呼吸になった時、
―ああ、これは泣いたって良い『時』が来てしまったんだな。
と感じたのでした。

4回目に、父が明らかに違う息の仕方をしました。体の全組織を使って息を吸おうとするかのように顔が真っ赤になりました。

そして静かになったのです。

―ああ、父は死んだのだな。
と、私は思いました。それでも首すじを触り、手首を取りました。暖かい手首。その時、私は「おやっ?」と思いました。なぜなら凄く弱くても脈があったように感じたのです。驚いてもう一度その脈を探しましたがもう見つかりませんでした。それは単なる私の勘違いだったのかもしれません。でもその時私は、人は徐々に死んでいくのだと思ったのでした。もちろん死の侵食のスピードはゆっくりではありません。血の流れを止めそして温もりさえも奪っていくのでしょう。

私は妙に冷静―
そう、冷静だったがゆえに大きな間違いをしないですみました。この時動揺してしまったら、私は父の傍らを陣取りさめざめと泣いたかも知れません。この「徐々に死んでいく」という思いが、私に大切なことを思い出させたのでした。それは父の傍で最後に声をかけるのは私ではないということに。

「お姉ちゃん、前に来て。耳は一番最後まで働くって言うよ。きっと、声は聞こえるよ。」

この「一番最後」というのは何を持って言うのかは、この際どうでもいいことなのです。はっきり言って思い込みだろうが勘違いだろうが、どうでもいいことなのです。

姉は短く父に声をかけ、
「みんな、おじいちゃんにお別れを言おう。」と言いました。

甥が
「おじいさん、長い間本当にありがとうございました。」と涙にむせびながら言いました。

なんて丁寧な優しい言い方なんだろうと思うと、涙が溢れました。

姪が曾孫と一緒に
「おじいちゃん・・・」と声をかけた時、ようやく私はあることに気が付きました。

「おやっ!あれっ?」

なんと、母がいないじゃないの。この局面に・・・・!!!

私は家の中をダダダダダっと走り和室で
「お母さん!」と呼び、そこに居ないと分かると、また走り父の部屋で
「お母さん!」とまた叫びました。

と書くと、さながら豪邸のようですが、まあ走ったといっても十歩と三歩ぐらい・・・。

で、父の部屋にも居ないことが分かり、思わず仁王立ちのポーズで
「あのババア、どこに行った――ー!!」と叫びそうになった時、ジャーと水の音がしたのです。

「えっ、ジャーってジャーって、なんで今・・!?」

トイレから出てきた母は
「ダメなの、もうダメってことなの。」と言いました。

―何を今更。

私は驚きつつ、また「ダメ」という言葉っていついかなる時も好きじゃないなあと再確認しつつ
「うん。まあ、そうですよ・・・」とショボショボと答えると、言葉に拘ってる場合じゃないだろうとハッとし、「早く行って」と即しました。

「今までどうもありがとね。」と母は短く言いました。後ろで聞いていた私は、思わず

「みじか~!」と文句を言って、母の腕を掴んで引き止めそうになりました。母はその手を振りほどいても立ち去ろうとしました。

「いろいろあったけれど、私、幸せだったよ。 」って、仕方がないのでつい続きを私が代わりに呟いちゃったりして・・・。

母が引きとめようとした私の手を振りほどいても行きたかった場所は、和室。

母は和室のテーブルに伏せてワッと泣きました。

「うんうん。お母さんも頑張ったよね。・・・」とか何か声をかけたように思います。この時、私も母と抱き合って泣きたい衝動に駆られたのです。でも「お母さん」と声をかけようとしたら、母はばっと顔を上げ
「私、頑張ったよね。やることをやりきったよね。」と言いました。
「うん。やった。お母さんはやったよ。」と私。
「じゃ、いいね!」と母はキッパリ言いました。


―早っ~!!!

 なんという立ち直りの早さでしょうか。私は唖然としてポカーンとしてしまいました。

 

でもこの後の絶え間のない弔問客との接待のことを思うと、それはそれで正解だったのだと思ったのでした。

 

※        ※         ※

通夜の日の深夜、姉妹で寝ずの番をした時に、私は上に書いたその時の様子を妹達に話しました。甥の丁寧な言葉の所ではやはり涙ぐみ、そして母のくだりでは泣き笑いをしながら聞いていた妹達。

話し終わると不思議なことに、なんだか父との別れのその時、姉妹四人ともが揃ってそこに居たような気がしてきたのです。

その事を私が言うと。
「うん。私達ももうそこに居たような気がするよ。」と妹も言ってくれたのでした。

 

 

看護師さんと一緒に父の体を拭くときも連絡だとかに追われその場にいなかった母。
「ちょっと落ち着けよ。何事にも順番ってものがあるだろう。」などと微かには思ったものです。看護に務めた姉は死亡診断書などの説明などで、やはりその場にいなくて、たまにやって来ては父とお喋りをして帰っただけのような者の私が、体を拭いて着替えさせると言う大切な務めを一人でやって良いものかと申し訳ないような気持ちがしてしまったのでした。母にはそこにいて欲しかったです。

だけどこれを書きながら、なんだか彼女の気持ちと行動が少し分かるような気がしたのです。

1年未満の日々でしたが、母は父の前で泣くまい涙を見せまいとした毎日だったと思います。
泣きそうになったら席を立つ。きっとそれを頻繁に繰り返し習慣化したのだと私は思いました。

私は泣き虫。それは父は泣き虫、母も泣き虫。そんな二人の娘だから・・・

だけどそんな母が涙を見せまいとする毎日は、それはそれで彼女の闘いの日々だったように思ったのでした。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は良い日だね その1

2013-06-03 22:40:31 | 父へ

《風のように人生を通り過ぎていく、その4》

その3「傍らの人」》の続きです。

 

母が何度も雨戸を開けようかと言ったのに、陽の光が寝ている父の顔に当たって眩しかったらイヤダなと思って、「イイよ、このままで。」と言っていた私。だけど父の死の連絡を受けて訪問看護の看護師さんがいち早く駆けつけると、父に向かってこう呼びかけました。

「今日は本当にいい天気だよ。良い日だねえ、☓☓さん!」

その言葉を聞いて、以前藤原紀香が主演した何かのドラマの中に出てくるインディアンの詩の言葉を、私は思い出しました。

―今日は死ぬのにとっても良い日だ。

そして、それだったら雨戸を開け窓も開けて風をサッと通したら良かったのだろうかと、ちょっと悔やんでもみたのです。

だけど
「さあ、起きて!」と 言う必要もなかったわけで、それはそれでもう良い事にしようと自分に言い聞かせたのでした。

どんなに心を砕いて気遣っても、見送る者がパーフェクトでというわけにはいかないのがお見送りだと思います。

川を渡っていく人が今生に未練を残さないで貰いたいのはもちろんですが、見送る人が悔いて逝く人の心を引き止めてはいけないのだと思ったのでした。

父との別れは悲しみではありますが、でも悲しみイコール悲劇ではありません。

以前、井上ひさし氏の特集の番組「ラストメッセージ」の感想「悲劇/喜劇は表裏一体なのか」の中にも書かせて頂きましたが、その文の一部をセルフ引用させて頂きます。

「だけどカメラをぐっと後ろにひいて撮影するように、引きの視点で父の人生を見るならば、それは悲劇なんかじゃちっともないのでした。悲劇じゃない物語の最後が死であるならば、その死は物語の結びであって悲劇ではないはずです。」

 前回の朝ドラ「純と愛」の中のドラマ好きの登場人物が「ドラマちっくだねえ。」と言うシーンが多数ありましたが、映画好きの私にはこの死ぬには良かった日には「映画っぽいなあ。」と思わず呟きたくなる場面が多数ありました。そしてそれは井上氏が悲劇を描きながら笑いで舞台を引っ張っていくそれに近いものがあったようにも思えたのでした。

いっぱい笑っていっぱい泣いて人生は過ぎていく。そして一日はそれを凝縮したようなもの。
それが顕著だった「その日」であったと思います。

 

 とは言っても、父の日から数日経ってしまったわけで、最初は事細かく全部書きそうな勢いでしたが、それは流石になくなり私も少々冷静になりました。

悲しみの中でクスリと笑えた出来事は、一年後二年後みんなで「そうそうあの時ね、こんなこともあったじゃない。」とニコニコと語り合いたいと思います。でも一番、「あの時さあ・・・」と語り合いたい人は、実は父だったりして・・・・

 

 

26日の朝、私が起きて行くと姉と母が父の座薬と格闘し終わった後でした。この二人の献身ぶりには本当に頭が下がります。いる時ぐらい役に立ちたいので、その後の父のそばにいる役は私が引き受けました。その間に姉は家族の朝食を作ったり洗濯したり、母もいつもやっている町内会館の仕事をしに行ったりしました。

23日には会話が出来た父。24日に私が一度帰る時には
「どうもわざわざ来て頂いて・・・」のような丁寧な言葉を言うので、私だって分かっているのだろうかと心がざわついたりもしたのですが、それでも言葉は聞き取れました。だけど26日の朝は、何かを言っていてもまるっきり聞き取れません。それはまるでうわ言のようでもありました。だけど耳を澄まし父の様子を観察していると、たしかに薬のせいで意識は朦朧とし言葉ははっきりとは喋れないにしても 、時にその朦朧とした意識から目覚め最後まで意識を失っていなかったように思えたのでした。

 

時には耳を澄まし、時には語り話しかけそして涙ぐみ、私はほんの数時間でクタクタの疲れてしまいました。それでもまだ私は「その時」がそんなに差し迫っているのだと自覚がなかったのでした。
そして交代で変わってもらったその時間に、書き始めるなら今だなと感じて姉のパソコンを借りてこのテーマの最初の記事「四季の家で」をアップさせたのでした。

要するに自分に出来る何かをせずにはいられなかったのかもしれません。

 

その日の朝に父をじっと観察していた私が気になってしまったことは、喉に痰が絡んでいるのではないかということでした。

数日前の父は自分で血痰を吐き出していました。このような状況になったら自力でというわけにはいかないのです。
私は妄想過多の人。

喉にそれが溜まっていきまた溜まっていき、そしてそれで「あああああ」と窒息してしまったら一体どうしたら良いのだろうか・・・。

家で最後を迎えさせようというのは、実はそういうことなのだと思います。

呼べば直ぐに対応はしてくれる医師と看護師との連携は成り立っているものの、時間で頻繁に状況把握をするプロの人はいないのです。自分たちで看護することに加えて、見守り判断し対応することが必至。

姉が対応の相談に訪問看護の事務所に連絡して、たんの除去の仕方を聞きました。だけど上手くいくものではありません。しっかり除去しようと思ったら、唇を濡らすための綿の付いた棒をかなり喉の奥に入れなくてはならず、それは苦痛に思われたからです。

口の中が少しでもさっぱりしたから良かったかもしれない、という僅かな自己満足でいいことにしました。

昼食の時間になり、甥がみんなの分のお弁当を買ってきてくれました。

みんな、なんとなく疲れていたのです。そんな時に油断というものが生まれるのだと思います。なぜなら、私たちは全員で父とは別室で揃って食事を取りました。それというのも、前日の医師によるアドバイスもその行動の底辺にはあったかもしれません。医師は
「家で看取るということは、何かを見逃すかもしれないし何かをしていてその最後を看取れない場合もある。だけどそれもありなんです。」という言葉。直接は聞いていないので、ニュアンスは違うかもしれませんがいろいろなことがあっても、自分を責めることはナシだと言ってくださったのかもしれません。自分のすべてを犠牲にすることはないということなのだと思います。

だけど食事を撮り終わると、なんとなく疲れも取れて冷静になりました。

「ねえ、なんかみんなここにいるねえ。」と私は言いました。
「ちょっとどうする。この時間に何か変化が起きていたら・・・。お姉ちゃん、ちょっと覗いて来てくれない?」って、私は小心者の卑怯者。

父の様子を見てきた姉は
「大丈夫だったよ~。だけど、相変わらず喉が辛そうなの。どうしようかな、どうしようかな、どうしようかな。」と姉は悩んだ末、もう一度電話をかけて看護師さんに来てもらうことにしました。

今こうやって書いてみると、なんでそんなに迷ったのかも不思議です。分からないのだから電話をかけて相談するのは当然だし、いかに日曜日で担当の人と違うといっても、出来ないのだから来てやってもらうのも普通の事だと思います。でも「やたら」というのは悪いような気がして遠慮してしまうと言うのは、日本人だからでしょうか。いや、思い出しました。私は何かのドラマを見て、その痰吸引が非常に辛そうに感じていたのでした。そんな事を今の父にヤッてもらうことに躊躇いがあったのも事実です。でもそれはあくまでもドラマで仕入れた感覚、実際には違うかもしれないので看護師さんに診てもらうことにしたのです。

 

でもこのタイミングが結果的には物凄く良かったのです。

日曜日は訪問看護の人たちは、時間で担当者が変わる交代制なのです。

姉が電話した時、いつも父の面倒を見てくれているよく分かっている看護師さんに交代になったばかりの時間だったのです。

直ぐ来てくれた看護師さんが、別室に姉と私を呼びました。

この別室で話すのは、話の内容を父に聞かれないためです。

亡くなった後も普通に話しかけ、意識の無いように見える父の前でも気を配るこの人達のプロぶりが私は大好きです。

看護師さんは言いました。

―痰除去をすればショックで、今息が止まるかもしれません。大丈夫かもしれないし、だけどその可能性があります。でもご家族が苦しそうだからヤッてという意向であるならばやります。

その機械を使ったら苦しいとか辛いと言う段階ではなかったのでした。良かれと思っても何かをヤッて命を縮めるわけには行きません。なので私は、自分の妄想イメージのことを聞いてみました。痰で喉が詰まる可能性についてです。

―その可能性もあります。

「そうなってしまったらどうするのですか。」

―何も。

そんなことはないですよとか言って欲しかったけれど、その可能性もあると言われて、私は少々のショックを受けました。もうやることは見守ることだけなのです。看護師さんの「何も」には強い意思のようなものを感じ、私も思わずうなずきました。なにか心の中でぎゅっと結ばれたような気がしたのです。

―とにかくみんなで傍に居てあげてください。もう傍で静かにしていなくて良いですよ。皆さんの声できっとホッとしますよ。次のクスリは何時ですか?

「次は、5時です。」と姉が答えると、看護師さんは言いました。

―そのクスリは、もう要らないかもしれません。

私と姉はびっくりして顔を見合わせました。続けて彼女は

―この後、無呼吸状態が何度か起きるかもしれませんから、それが起きたら時間を測っておいてね。

そのようなことも初めて聞きました。まるでそれは最後の打ち合わせのようでした。彼女が帰ると、もう私達の最後の戦いだと、そんな感じがしました。

姉は仕事が終わり次第駆けつけることになっていた二人の妹にメールを送り、私は近くの自販機にジュースを買いに行きました。

そしてその時家に居た者、つまり姉と私、甥と姪、そして母とで父の部屋でジュースパーティを開くことにしたのです。

自販機にチャリンチャリンとお金が落ちていく音を聞きながら、「見てろ―」とか「いざ」みたいな感覚が湧き上がって来ました。

今思うと、私は何と戦おうとしていたのだろうか―

 

長くなったので次に続きます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

傍らの人

2013-05-29 14:00:58 | 父へ

《風のように人生を通り過ぎていく、その3》

《その2》の続きです。

 

 25日の朝、近所で暮らす独居老人であるスーパーばあちゃんの姑が、横浜に用があって本来なら数人で行くはずがいろいろあって一人で行くので、その帰りに私の実家に寄りたいと電話が掛かってきました。

我が夫殿は、生活全般が「無理をしないように」で成り立ってることが多いので、その電話にも同じ様なことを言っていました。姑はスーパーばあちゃんであっても、88歳なのです。横浜のみなとみらいで用を済まし、その後にうちに来るのでは大変だと思いました。だから私も夫から受け取った受話器に向かって同じ「無理をしないで」と言いました。だけど別のことも言いました。

―父は、いつもお義母さんの若くて元気な声に励まされていましたよ。お話はもう出来なくても耳元で声をかけてくだされば喜ぶと思います。だけど暑いし最近も忙しかったのでしょう。無理はしなくて良いんですよ。無理をされたら困ります。

―本当のことを言うと、そうなのよ。ここの所毎日出かけなきゃならない事が重なって、それで今日もみんなと同じ日に行けなくて一人で行くことになってしまったの。でもだから自由に動けるなって思ったのだけど、確かにちょっと疲れているので『みなとみらい』で自分の体に聞いてみるね。もしかしたらそこから申し訳ないと電話して失礼するかも。

―もう、それで十分ですよ。

その気持が嬉しいのです。実は私の心の中には鉛筆の先でちょっと印をつけたくらいのわだかまりがあったのです。なぜこの人は私の父に会いに行くと言ってくれないのだろうとちょっと思っていました。私の両親は舅が同じように肺がんで入院した時に病院に見舞いに行ったじゃないかと。もちろんお見舞いは直ぐに頂きましたし、舅が亡くなったのはかなりの昔で年齢も違います。それでも私はほんのちょっとだけ気になっていたのです。

しかし姑も同じ様に凄く気にしていたのですね。

疲れていたかもしれないのに、やっぱり義母はみなとみらいから私の実家に行ったのでした。

そしてその報告の電話がすぐに入りました。

私はその時には東京経由横浜に向かっていたので、後から夫にその時の話を聞きました。

母が、本当に疲れているように見えたと義母は言いました。

そうだと思います。母は自分はすごくしっかりして全く問題がないような顔を常にしているけれど、言ってることがズレていて姉をイライラさせることが多かったのです。まあまあとなだめながら、いつも肝心なときにどっかに行ってしまってる母に、私も口調が厳しかったような気がしました。だけど義母が言った言葉を聞いた時に、ちょっと反省をしたのです。

義母は言いました。

―苦しんでいる人をほぼ1年傍らで見続ける苦しみは経験のある者同士だから、私には分かる。

やはりどんなに家族を思う気持ちは同じでも妻と娘では全く違うのではないでしょうか。

「苦しんでいる人を傍らで見続ける苦しみ」―
そんな事を私は思い気遣ってきただろうか・・・・・

 

―おとうさんはきっと治るんだ。私が治してみせる。

母は最初、きっとそう思っていたのではないでしょうか。

―おとうさんはもうだめかもしれない。でもきっと5年は生きる。 私が生きさせてみせる。

父が死を覚悟してそれに向かって生きだした頃、母のこの考えはどれだけ父を苦しめたことか。双方で想いあっているというのにチグハグな時間があって・・・

―おとうさんはもう年内には・・・。きっと予想では10月。

5月23日を乗り越えることが出来るかなと私達がドキドキしていた頃、母はそんな風に考えていたように思います。姉が現実が見えていない母に確認しようとすると「全て分かっている。」と応える母。

母は母が言うとおり全て分かっていたと思います。ただ、時計だけが私達とは同じ様に時を刻んではいなかっただけなのだと。

 

父は20歳の時トランクひとつで横浜にやってきて、母の母、つまり私の祖母がやっていた下宿屋の住人になりました。その時母は16歳。

私はこの馴れ初めがとってもロマンチックに感じて好きなのです。母は下宿屋の娘で父は山梨からやって来たちょいキザな人。

先日、父に
「おとうさんが来た時お母さんはもう働いていたの?」と聞くと
「うん。よく仕事の休みの時は送っていったな。その時は家にだって電話がないだろ。迎えに行くと勝手に帰っちゃって入れ違いになってしまって、そんなことばっかししていたんだ。」 

そんな話にキラキラした過去の扉が開きます。

若い時には「パパちゃん、ママちゃん」と呼び合っていた二人。

それなのによその女性にも親切だったパパちゃん。だけど母は言ったなあ。
「私はこの人で良かったわ。だっていろいろあったから人生が楽しかったもの。」って。

最近の父は
「僕はこのおばちゃんにとってもとっても心の底から感謝してるんだよ。」
おばちゃんって母のこと。 

父と母は20と16で出会い24と20で結婚してそして今まで共に生きて来ました。

64年間―

心の中の父は健在でも、共に暮らす場所は川を隔ててしまいました。

唐突ですが、近頃私がハマっている事は、詩を作るのではなく作詞作曲です。少し前のまだ少し元気な父に聞いてもらった最後の歌は、父の母への気持ちを歌にしたものでした。

 

―夢幻の過ぎた日々
君と出会えて良かったな  君を愛して良かったな

共に暮らした長い日々
いつかは別れがやって来る  ハミング

ありがとう

ありがとう ―

 

 ※コメント、ありがとう。全部書き終えたらお返事を書かせて頂きますm(_ _)m

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四季の家、往復

2013-05-28 01:17:01 | 父へ

 《風のように人生を通り過ぎていく、その2》

《風のように人生を通り過ぎていく、その1》の続きです。

 

24日の朝、実家にて帰り支度をしていた私は、ふと静かなキッチンに耳を澄ましてしまいました。電気も消され静まり返ったキッチン。

私はある時のある朝の事を思い出しました。

その時も実家に泊まっていた私が夜、何気なく
「家で作ったお饅頭 は美味しいよね。あれ、好きだなあ。」と言ったのです。

すると翌朝、何やらキッチンがワサワサと賑やかな雰囲気。起きて行ってみると、母が早くからあんこをこしらえて、そのあんこを父が小麦粉の皮で包み、お釜型の蒸し器はシュッシュと湯気を出し、ボテボテとした厚い皮の田舎風の饅頭がまさに出来上がろうとしていた所だったのです。

出来上がったお饅頭はもちろん美味しかったのですが、キッチンの扉を開けて湯気でいっぱいのその中で、声掛けあって作業をしている父と母の姿を見た時、私の心はとっても幸せな気持ちに満たされたのでした。

・・・・・・

シーンとしたキッチン。

思わず私は、うううっと泣きました。

過ぎた時代は戻ってこないし戻る必要もないこと。想い出は心の中のアルバムの中に。
だけれどももう二度と同じ幸せはやって来ないのだと思うと、やっぱり思わず涙がこぼれてしまったのでした。

 

24日の金曜日の日は、家に戻り家事やら仕事やらをしました。

実は実家に帰る23日の一日前、友人から突然にお芝居のお誘いが入りました。25日の土曜日に行けなくなってしまった人が居たのでそのチケットが回ってきたのです。御芝居好きの私は、思わず二つ返事で行くとお返事しました。

だけど23,24日の父の様子に、私の心はぐらついてしまいました。「行く」などと言って良かったのだろうかと。

すると姉が、その時間は携帯を切って楽しんで来いと言ってくれました。
お芝居は夜なので、たしかにその時間に家で連絡を受けても動けるのは翌日早朝からになると思いました。

だけどそんな事を考えていた時に、閃いたのです。

 

東京に出るのですから、家に戻らず再び実家に帰ろうと。 

 

このお芝居のお誘いがなかったら、実家往復は私の中にそれまではない発想でした。

自分の生活を守りながら少し離れた所の実家には早々行ったり来たりは出来るものではありませんから。

そして近くに住んでいるわけではないので、親の死に目に会えるかは分からないことだと思っていたのです。

次に姉から電話をもらったら、それはいつもの楽しいおしゃべりでは無く父の亡くなった知らせであっても、こればかりは仕方のない事だと覚悟もしていました。

山本周五郎の「日本婦道記」の中には、非常に印象深い臨終のシーンがあります。それは妻の臨終に夫が「もう別れは済ましてある。」と立ち会わないと言うシーンなのです。物語というのはいついかなる時にどのように自分を支えてくれるか分からないものです。
臨終に立ち会うということよりも、別れを済ますということはもっと大切な事だなと、私には思えたのでした。 

 

だけどそう思っていたのに、それでも出来るならばその最後の時に私は立ち会いたいと願っていたのかも知れません。

人にはそれぞれ役割があるのだと言いますが、今、それを思ってみると本当にそうだと思えるのです。

私には私のやるべき事があったように思います。

 

別れは済ましたと24日に帰ってきた私。予定外のお芝居のお誘い。そして再び横浜に。

私の頭の中に、またも父の「全てうまく行った」という言葉が響きます。

 

父は前の記事「四季の家で」を姉の家でアップした数時間後に亡くなりました。
私は父の臨終に立ち会う事が出来たのでした。

 

(まだしばらくこのテーマです。) 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする